第1話 国民を消す仕事
日本国が国民を守るのをやめるまで、あと三十日。
その日から、医療も年金も警察も、契約者だけのものになる。
全国民六千八百万人のうち、契約資格を与えられたのは千百四十万人だった。
残り五千六百六十万人は、自助区域へ移される。
政府は彼らを「切り捨てられた国民」とは呼ばない。
「非継承人口」と呼ぶ。
俺の仕事は、町の住民にその印を付けることだった。
昨日までは、ただの入力作業だと思っていた。
今朝届いた最終名簿で、俺は最初に自分の番号を検索した。
判定結果は、「非継承」だった。
西暦二〇九三年。
画面中央の四文字は赤くも大きくもなかった。
黒い文字で、氏名や生年月日と同じ大きさで表示されている。
片山直路。
二十七歳。
単身世帯。
住民移行業務従事者。
継承区分――非継承。
その下にある「地域台帳へ反映」という青いボタンが、押されるのを待っていた。
「片山。
止まってるぞ」
声をかけられ、俺は検索欄を閉じた。
斜め後ろの席から荒谷正臣がこちらを見ていた。
市役所の正規職員で、この住民移行室の現場責任者。
くたびれた白いシャツに、今日もネクタイだけは隙なく締めている。
「すみません。回線が重くて」
「中央名簿が来た初日だ。重くもなる。
今日中に第一街区まで終わらせるぞ」
「はい」
荒谷は俺の画面を見に来なかった。
助かったと思った。
そう思ってから、自分が何から助かったのか分からなくなった。
市役所四階の旧議場には、百二十台の端末が並べられていた。
議員席も傍聴席も半年前に撤去され、代わりに置かれたのは灰色の机と、同じ色の間仕切りだった。
ここにいる大半は俺と同じ委託職員だ。
国民を二つに分ける仕事は、入札で最も安い会社が請け負っている。
天井近くの表示板に、今日の処理件数が流れていた。
反映済み、三万八千二百十一件。
要照会、百四件。
作業遅延、十一分。
非継承が何人いたかは表示されない。
割合なら、全員が知っているからだ。
俺はもう一度、自分の番号を入力した。
さっきと同じ画面が開いた。
継承区分――非継承。
見間違いではない。
氏名の横にある編集記号を押し、区分を「照会中」へ変えた。
確定前なら、入力ミスを現場で戻せることがある。
昨日まではできた。
承認を押す。
短い音が鳴った。
《中央認証済みのため変更できません》
もう一度押した。
《中央認証済みのため変更できません》
文面は変わらなかった。
俺は市役所で働いている。
国の命令で動く仕事をしている。
一般の住民より先に制度の研修も受けた。
特別に優秀ではないが、少なくとも、三十日後にも必要な側の人間だと思っていた。
契約社員であることは関係ないはずだ。
いや、関係あるのかもしれない。
研修資料には、保障資格の審査項目が百六十二あると書いてあった。
年齢、健康、資産、技能、扶養人数、居住区域、雇用保証、十年後の納税見込み。
詳しい配点は非公開。
俺たちに知らされているのは、判定結果を住民台帳へ間違いなく写す方法だけだった。
「誤判定を見つけても、勝手に直すなよ」
今度は室内全体へ向けた荒谷の声だった。
「最終名簿は中央認証済みだ。
異議申立ては本人が専用窓口から行う。
ここは判定する部署じゃない。
移行する部署だ」
誰かが小さく笑った。
「誤判定なんてあるんですか」
「ないことになってる」
もう一度、笑いが起きた。
俺も笑った。
口の端だけを上げて、すぐに画面へ戻った。
そうだ。
異議申立てをすればいい。
この名簿は六千八百万人を一度に処理している。
数字の写し間違いも、同姓同名の取り違えもあるだろう。
俺の雇用保証がまだ中央へ届いていない可能性もある。
市役所の業務を止めないため、委託職員をまとめて仮登録したのかもしれない。
俺だけは、何かの間違いだ。
勤務中に個人の申立てをするわけにはいかない。
終業後、窓口が閉まる前に手続きすればいい。
そう決めて、青いボタンを押した。
《地域台帳へ反映しました》
俺は自分の名前に、自分で「非継承」の印を付けた。
次の住民が表示された。
八十二歳、独居。
非継承。
反映。
四十一歳、配送員。
妻と子供二人。
非継承。
反映。
十三歳、中学生。
非継承。
指が一度止まった。
だが、後ろの表示板では作業遅延が十三分に増えていた。
反映。
画面の右上では、政府広報が音声なしで流れていた。
白い壁、緑の並木、遅れなく到着する無人バス。
基幹生活保障区域では、三十日後も医療、教育、上下水道、治安が維持される。
最後に標語が出た。
《すべてを失わないために、守れる未来を確実に。》
日本国が終わることは、今日決まったわけではない。
半年前には日付まで発表されていた。
国会中継も、専門家の討論も、端末へ届く長い通知もあった。
俺はだいたい見出しだけ読んだ。
国家承継、債務移管、基幹生活保障区域、国際承認。
どれも俺の来月の家賃より遠い言葉だった。
反対集会の映像が流れれば、まだ元気のある人もいるものだと思い、賛成派が制度の必要性を説明すれば、頭のいい人たちが計算しているならそうなのだろうと思った。
何より、市役所の仕事が続いていた。
国が本当に消えるなら、市役所が翌月分の勤務表を配るはずがない。
昨日までは、そう信じていた。
昼休みになっても、席を立つ者は少なかった。
処理件数に応じて追加手当が出る。
三十日後に振り込まれる予定の手当だ。
「自助区域への移行案内、言い回し変わったらしいよ」
隣の席の女が、包装パンをかじりながら言った。
「何から?」
「『行政保障の終了』から、『地域自律運営の開始』。
苦情が減るんだって」
「意味は同じだろ」
「だからでしょ。
意味が同じなら、柔らかい方がいいじゃん」
彼女はそう言って、次の名簿を開いた。
自分の番号を検索したのか、聞くことはできなかった。
午後五時四十分。
第一街区の反映が終わった。
荒谷が明日の作業範囲を読み上げている間、俺は異議申立ての入口を確認した。
個人端末からでも申請できる。
必要なのは住民番号と本人認証。
理由欄には「名簿情報に事実との相違がある場合」と書かれていた。
俺の何が事実と違うのかは、まだ分からない。
それでも申請すれば、人間が確認するはずだ。
端末を閉じようとして、手が止まった。
家族照会。
業務上、同一世帯と親族の移行先を確認するための機能だ。
母とは別世帯だが、一親等なら検索できる。
勤務中の私的利用は禁止されている。
俺は周囲を見た。
帰り支度をする職員、明日の指示を出す荒谷、処理件数を数える表示板。
誰もこちらを見ていない。
片山朋江。
五十九歳。
検索を押した。
一秒もかからず、母の記録が開いた。
氏名。
生年月日。
住所。
住民共同診療所、非常勤看護師。
そして、その下。
継承区分――非継承。
俺は閉じるボタンを押せなかった。
自分の判定なら、間違いだと思えた。
二人分並ぶと、それはもう、間違いには見えなかった。




