第8話 差し伸べられた手
王都の喧騒から離れ、オレオ侯爵家の静謐な屋敷に戻った後も、メリッサの心は凪いだままだった。
ダリルとカサンドラのあの睦み合う姿を思い返しても、不思議と涙すら出ない。ただ、長年背負っていた重い荷物をようやく下ろせたかのような、奇妙な軽さだけがそこにあった。
イザベルが「お兄様に報告してきますわ!」と怒り心頭で執務室へ向かったため、メリッサは一人、夕刻の薔薇園へと足を向けた。日が沈みかけ、琥珀色の光が満ちる庭園は、今の彼女の静かな心境に酷似していた。
「――ここにいたのか、メリッサ」
不意に、低く、深く鼓膜を揺らす声がした。
振り返ると、そこには外套を軽く羽織ったスティーブが立っていた。普段の完璧な執務服姿よりもどこか隙があり、それでいて圧倒的な存在感を放つ主人の姿に、メリッサは慌てて一礼する。
「スティーブ様。このような場所に申し訳ありません。すぐに部屋へ戻ります」
「いや、そのままでいい。イザベルから話を聞いた。……街で、酷い目に遭ったらしいな」
スティーブは長い足を動かし、メリッサとの距離を詰めた。
その端正な顔立ちは、怒りで強張っているようにも、傷ついたメリッサを深く憐れんでいるようにも見えた。
「いいえ、酷い目など。ただ、目が覚めただけにございます。婚約者のダリルには他にふさわしい方がいらしたのだと、納得いたしました」
メリッサは微笑んでみせた。けれど、それは自分の感情を押し殺した、痛々しいほどに完璧な「侍女の仮面」だった。彼女の心は、傷つきすぎて、すでに自ら凍りつく道を選んでしまっている。
スティーブはその微笑みを見た瞬間、胸を鋭く抉られるような痛みを覚えた。
彼が四年前からずっと胸に秘めてきた、あのひまわりのように笑う少女が、あんな道道で愛を安売りする男のせいで、ここまで心を閉ざしてしまっている。
「納得、か。君はどこまで健気で、そして愚かなんだ」
「……スティーブ様?」
スティーブはさらに一歩踏み込み、メリッサの逃げ道を塞ぐようにその前に立ちはだかった。彼の切れ上がった瞳に、普段は見せない激情の炎がゆらりと灯る。
「私には、君が泣くのを堪えているようにしか見えない。あんな男のために身を粉にして働き、自らの価値を貶め、最後には裏切られてなお、なぜそんな風に淡々と笑っていられる」
「それは……私はただの侍女ですから。私ごときが、これ以上騒ぎ立てる理由などございません」
頑ななまでに自分を突き放そうとするメリッサ。その細い肩を、スティーブは躊躇うことなく両手で掴んだ。大人の男の、強固で、けれど決して痛ませない絶妙な力加減。
「身分など関係ない。一人の女性に対して言っている」
スティーブの顔が、メリッサのすぐ近くまで迫った。至近距離で見つめ合う形になり、メリッサは息を呑む。いつも冷徹な主人の瞳が、今は恐ろしいほど熱く、自分だけを射抜いている。
「君のような素晴らしい女性を泣かせる男は、私なら絶対に許さない。その手荒れも、その献身も、すべてを愛おしみ、世界で一番幸福にしてみせる。……あの男にできて、私にできないことなど、何一つない」
傲慢なまでの自信。しかし、王太子の側近であり、次期侯爵である彼が言うからこそ、それは絶対的な真実としての重みを持っていた。
「スティーブ様、何を……私にはダリル様という婚約者が――」
「そんな男、今すぐ捨てればいい。いや、私が捨てさせる」
スティーブの言葉は熱を帯び、メリッサの凍った心の輪郭をじりじりと焦がしていく。
「君がその男への情を捨てきれず、まだどこかで信じたいと苦しんでいるなら、その呪縛ごと私が奪い去ろう。君の凍ってしまった心を、私の熱で溶かしてみせる。……もう、あんな男のために身を削るな、メリッサ。私を見ろ。私なら、君を二度と裏切らない」
真摯で、逃げ場のない、本気の求愛。
その言葉の一つ一つが、メリッサの頑なだった心の氷を、パキパキと小気味よい音を立てて解かしていく。
「苦しかった」とダリルに叫んだあの夜、誰も分かってくれなかった我が身の悲痛を、この目の前の高貴な男は、すべて理解し、肯定してくれている。
「スティーブ、様……」
メリッサの瞳から、張り詰めていた緊張が消え、一筋の涙がこぼれ落ちた。
侍女の仮面が割れ、ようやく一人の傷ついた少女に戻った瞬間だった。
スティーブはその涙を、そっと親指の腹ですくい上げる。彼の指先は、驚くほど温かかった。
「そうだ、泣けばいい。私の前では、もう無理をすることはない。これからは、私が君のすべてを守る」
差し伸べられた、大きくて温かいスティーブの手。
メリッサはその手をじっと見つめ、そして――震える指先で、そっとその温もりに触れた。
不実な騎士との決別を決意したメリッサの物語は、極上のスパダリによる狂おしいほどの溺愛によって、今、新たな幕を開けようとしていた。
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