第7話 決定的な現場
それは、イザベルの個人的な買い物の付き合いで、メリッサが王都の中央通りを訪れていた時のことだった。
イザベルお嬢様がブティックの奥で熱心にドレスを選んでいる間、メリッサは店先で荷物を抱え、ガラス窓の向こうに広がる賑やかな街並みを眺めていた。
ふと、人だかりの中に、見覚えのある見事な体躯と仕立ての良い騎士服が見えた。
見間違えるはずがなかった。誰よりもその姿を追いかけ、誰よりも愛していた婚約者――ダリルだった。
第一騎士団の「花形」としての知名度は伊達ではなく、彼が通りを歩くだけで、周囲の歩行者、特に若い女性たちが色めき立って振り返る。相変わらず、どこにいても人目を引く輝きを持った男だ。
だが、メリッサの視線は、彼のその端正な顔立ちではなく、その右腕にしっかりと絡みついている「何か」に釘付けになった。
燃えるような赤髪。周囲を威圧するような派手なドレス。
カサンドラ伯爵令嬢だった。
数日前、侯爵家の応接室であれほどメリッサを見下し、ダリルとの関係をあてこすってきた女が、今、まさにその男と白昼堂々、親密そうに腕を組んで笑い合っている。
ダリルはカサンドラを宝石店の陰へと引き込むと、人目を盗むようにして彼女を背後から抱きしめた。カサンドラの豊かな赤髪をかき分け、その白い首筋に愛おしげに顔を埋めて愛撫する。ダリルのその熱情に満ちた男の顔を、メリッサは二年の交際期間の中で一度として見たことがなかった。
そこには、メリッサの知らないダリルがいた。
自分といる時の彼は、いつもどこか上の空で、仕事の愚痴をこぼすか、次の給与の無心をするか、あるいは「疲れているから」と背を向けて寝てしまうかのどちらかだった。
他の女を、あんなにも熱烈な、甘い男の目で見つめるダリルの姿など――メリッサは、彼のために身を粉にして尽くしてきたこの二年間、一度として向けられたことがなかった。
「――っ」
胸の奥で、何かがパキ、と音を立ててひび割れた。
悲しみではなかった。怒りでもなかった。
ただ、心の底から急速に熱が引いていき、凍りついていくような、絶対的な静寂だった。
(ああ、本当に……終わっていたのね)
これまで、どんなに周囲に「あの男はやめろ」と言われても、心のどこかで「彼はまだ変わってくれる」「十六歳の時の、あの真っ直ぐな彼に戻ってくれるはず」と、淡い期待を抱き続けていた己の愚かさが、信じられないほど冷ややかに理解できた。
その時、人混みの隙間から、ダリルの視線が偶然にもブティックのガラス窓へと向いた。
メリッサと、目が合った。
瞬間。
ダリルの顔から、一瞬にして余裕の笑みが消え失せた。
彼はあからさまに動揺し、カサンドラが怪訝な顔をするのも構わず、絡みついていた腕を強引に振り払った。そして、カサンドラをその場に置き去りにしたまま、大慌てでメリッサのいるブティックへと走ってきた。
「メ、メリッサ! どうしてこんなところに……!」
店内に飛び込んできたダリルは、肩を揺らしながら言い訳を探すように視線を泳がせた。その額には、冷や汗が滲んでいる。
「お久しぶりでございます、ダリル様。お仕事中、お邪魔をしてしまったようで申し訳ありません」
「ち、違うんだ、メリッサ! 誤解しないでくれ!」
ダリルは焦ったように両手を振り、いつもの「悪気のない、人当たりの良い笑顔」を無理やり作った。
「あそこにいるのは、カサンドラ伯爵令嬢だよ。ほら、俺は第一騎士団の看板だからさ、どうしても高貴なファンの方々の相手をしなきゃいけない時があるんだ。あの方も、ただの熱心なファンの一人で、俺の騎士としての活動を応援してくれているだけなんだよ。腕を組んできたのも向こうからで、断ると角が立つから、社交辞慮として合わせていただけなんだ」
ファン。社交辞令。
あまりにも浅はかで、自分の都合しか考えていない言い訳だった。
数日前、その「ただのファン」がオレオ侯爵家で何を口にしていたのか、ダリルは何も知らないのだ。
「そうでございますか」
メリッサの口から出たのは、驚くほど平坦な声だった。
泣き叫ぶことも、彼をなじることもしない。ただ、濁りのないガラス玉のような瞳で、じっとダリルを見つめた。
「……え?」
ダリルはその拍子抜けするほど淡々とした反応に、かえって背筋が凍るような不気味さを覚えた。いつもなら、「もう、ダリルったら」と困ったように笑って許してくれるはずのメリッサが、今は自分の言葉を一切、信じてもいないし、疑ってもいない――つまり、完全に「興味を失っている」目をしている。
「メリッサ? 怒ってるのか? 悪かったって、今度は本当に君が一番だから……」
「いいえ、怒ってなどおりませんわ、ダリル様。ただ、よく分かりました」
メリッサは、抱えていた荷物をそっと持ち直した。
その胸の内にあった、ダリルへの情、未練、かつての美しい思い出のすべてが、今、この瞬間に綺麗さっぱり消え失せた。残ったのは、冷徹なまでの決意だけだ。
「あなたが、私をどのように扱ってきたのか。そして、私がこれから何をすべきなのかが、ようやく分かりました」
「な、何を言って――」
「メリッサ、待たせたわね! ……あら?」
ブティックの奥から、新しいドレスを身に纏ったイザベル侯爵令嬢が姿を現した。イザベルは室内の異常な空気を一瞬で察知し、目の前にいるダリルを、ゴミを見るかのような冷ややかな目で見据えた。
「騎士様、お仕事中にこのような場所で油を売っていらっしゃるなんて、第一騎士団は随分と暇な組織のようですわね」
「オ、オレオ侯爵令嬢……!」
イザベルの登場に、ダリルは完全に言葉を失い、一歩後退りした。
「行きましょう、メリッサ。不浄なものが視界に入ると、せっかくの美しいドレスが汚れてしまいますわ」
「かしこまりました、イザベルお嬢様」
メリッサはダリルの方を振り返ることもなく、イザベルの後に続いて歩き出した。
通りに取り残されたカサンドラの元へ戻っていくダリルの後ろ姿を、メリッサは二度と視界に入れることはなかった。
(さようなら、私の愛した騎士様。私の心は、もう二度とあなたのために動くことはありません)
心が完全に凍りついたメリッサの胸中で、完璧な決別へのカウントダウンが、静かに、けれど確実に始まりを告げていた。




