第4話 視線と執着
オレオ侯爵家の嫡男であり、王太子の側近を務めるスティーブは、自室の執務机で書類をめくりながら、小さく息を吐いた。
頭に浮かぶのは、先ほど妹イザベルの部屋で見かけた、あの侍女の姿だ。
メーデン子爵家の次女であるメリッサ。
オレオ侯爵家に奉公にあがって二年になる彼女は、非の打ち所がないほど有能で、そして、痛々しいほどに健気な娘だった。
スティーブとメリッサの間には、誰にも言っていない、ほんのささやかな思い出がある。
四年前、スティーブが学園の最高学年である三年生だった頃、メリッサは初々しい新入生として入学してきた。貴族子弟が集まる学園の中で、身分の高くない彼女は、周囲の華やかな令嬢たちに圧されて迷子になっていた。
大講堂の裏手で、困り果てて半泣きになっていた小さな新入生。通りかかったスティーブが声をかけ、目的地まで案内してやった。その時、彼女は真っ赤になって「ありがとうございます、先輩!」と、ひまわりが咲いたような、それは愛らしい笑顔を浮かべたのだ。
たったそれだけの、偶然の出来事。
しかし、スティーブの心には、その笑顔が深く焼き付いて離れなかった。
その後、スティーブには親同士が決めたカサンドラ伯爵令嬢という婚約者ができたため、メリッサに特別な接触をすることは一切控えた。己の立場を弁えていたからだ。
だが、カサンドラは傲慢で、常に他者を見下す悪癖があった。最近では、第一騎士団の若手騎士と浮名を流しているという噂すらある。そんな婚約者に辟易していたスティーブにとって、胸の奥でひっそりと育つメリッサへの想いだけが、唯一の拠り所だった。
だからこそ、学園を卒業したメリッサが、妹イザベルの猛烈なアタックによってオレオ侯爵家の専属侍女になると聞いた時、スティーブは内心、狂喜乱舞した。
(これで、彼女を合法的に我が家へ置いておける)
もちろん、そんな醜い独占欲は微塵も表には出さず、完璧な冷徹貴公子としての仮面を被り続けてきたのだが。
コンコンコン、と小気味よいノックの音がして、部屋にイザベルが入ってきた。
先ほどまでの怒り狂っていた様子はどこへやら、今の妹の瞳には、奇妙な好奇心の炎が灯っている。
「お兄様、お仕事中失礼いたしますわ。少し、お時間よろしくて?」
「イザベルか。ちょうど一区切りついたところだ。どうした、また例の騎士への文句なら、いつでも騎士団長に圧力をかける準備はできているが」
「あら、お兄様ったら話が早いですこと。でも、それはまだ結構ですわ。メリッサが『自分の手で完璧に終わらせる』と申しましたから」
イザベルはスティーブの対面の椅子に滑り込むと、悪戯っぽく微笑んだ。
「それよりお兄様。私、本当にあの大馬鹿ダリルが許せませんの。あんなに可愛くて有能なメリッサを放置して、カサンドラ様のような傲慢な女と遊び歩くなんて、見る目がありませんわ。……ねえ、いっそのこと、お兄様がメリッサと婚姻してしまえばよろしいのに」
ふふっ、とイザベルは可愛らしく笑った。
兄妹の、よくある冗談の範疇。
だが――イザベルの目は、全く笑っていなかった。
妹は、兄が昔からメリッサをどのような目で見ていたのか、その視線の熱量に気づいているのだ。その上で、最愛の侍女をこの家から手放さないための「最善の策」を、冗談の皮を被せて提案してきている。
対するスティーブも、手元に視線を落としたまま、静かに口を開いた。
「馬鹿を言うな。私にはカサンドラという婚約者がいる。それに、メリッサの意思を無視して、我が家の権力で婚姻を強いるような真似は男のすることではないよ」
会話のテンポだけは、完璧な軽口だった。
だが、スティーブの目もまた、恐ろしいほどに真剣だった。
カサンドラという障害さえ排除できれば。そして、メリッサがその不実な男との関係を完全に終わらせ、前を向いてくれるなら――自分はどんな手段を使ってでも、彼女を妻に迎えるだろう。その強い執念が、言葉の裏に張り付いていた。
「あら、建前がお上手ですこと。でも、メリッサの心はもう、あの男から離れかけていますわ。……心が凍ってしまった、と、あの子はとても苦しそうに言いましたもの」
心が、凍ってしまった。
その言葉を聞いた瞬間、スティーブの手がピキリと止まった。
胸の奥で、冷徹な怒りが音を立てて燃え上がる。
あの愛らしかった新入生が。この二年間、ボロボロの手で、健気に、身を粉にして一途に尽くし続けてきたメリッサが。あんな、顔だけが取り柄の空っぽな騎士のせいで、そこまで追い詰められていたというのか。
「……そうか」
スティーブは、極めて冷静な、けれど地を這うような低い声で呟いた。
「ならば、その氷を溶かすのは、私の役目かもしれないな」
「まあ! 頼もしいことですわ、お兄様」
イザベルは満足そうに微笑み、席を立った。
一人残されたスティーブは、自身の不貞な婚約者であるカサンドラと、その浮気相手である第一騎士団のダリルという男の姿を、頭の中に冷徹に思い描いた。
メリッサが彼との決別を選ぶというのなら、自分は全力でその手助けをしよう。ダリルが二度と彼女の視界に入れないよう、そしてカサンドラともども、己の仕でかした不実の報いを受けさせるために。
スティーブの胸中の執着は、静かに、けれど確実に狂気的なまでの熱量を帯び始めていた。




