第2話 侯爵家の有能な侍女
「メリッサ! わたくしの大切な侍女であるあなたに、そんな不届きな浮気騎士は不釣り合いですわ。今すぐ婚約など解消して、我がオレオ侯爵家にずっといてちょうだい!」
朝の陽光が差し込む広々とした身支度部屋に、オレオ侯爵家の至宝であり、メリッサが専属で仕えるイザベルお嬢様の叫びが響き渡った。
イザベルはまだ髪も整っていない状態で、メリッサの両手をがっしりと掴んでぶんぶんと振っている。高貴な侯爵令嬢にあるまじき大激怒の表情だった。
「イザベル様、落ち着いてくださいませ。まずは髪を梳かさせてください。本日のお茶会に遅れてしまいます」
「お茶会なんてどうでもいいわ! それより聞いたわよ、昨日のこと! 貴方の大馬鹿者の婚約者、二十歳の誕生日という記念すべき日に、メリッサをレストランに置き去りにして同期との飲み会に行ったんですって!?」
地獄耳を持つイザベルの追求に、メリッサは困ったように眉を下げた。
昨日、冷めかけた料理を一人で平らげ、二人分の高い勘定を支払って屋敷に戻ったとき、心配して待っていたイザベルに呼び止められ、事の顛末をすべて白状させられたのだ。
「ええ、まあ……。騎士団がお忙しいようですので、仕方がありませんわ」
「仕方なくないわ! あの男、自分の交際費や派手な衣服のために、メリッサが汗水垂らして稼いだ給与をどれだけ無心したと思っているの!? その上、二年も結婚を放置して『遊びたいから待て』だなんて、人間の皮を被ったドブネズミのセリフよ!」
ドレスの裾を翻して怒り狂うイザベルの姿は、昨夜から一睡もしていないのではないかと思わせるほどの熱量だった。
二人は学園時代からの先輩後輩であり、メリッサの生真面目で誠実な人柄に惚れ込んだイザベルが、学園の一年生だった当時に「絶対に私の専属になって!」と三日三晩泣きついて雇用したという経緯がある。イザベルにとってメリッサは、単なる侍女を通り越して、実の姉のように慕うべき存在なのだ。
「お怒りはごもっともですが、イザベル様、背中のリボンが曲がってしまいます。どうか一度、深呼吸を」
メリッサの手際は完璧だった。
怒りで荒ぶる主人の動きを完璧に予測し、まるで舞踏を踊るかのような流れるような所作で、瞬く間に美しいドレスの紐を締め、複雑な髪型を編み込んでいく。
髪飾りを留める指先は優しく、手荒れこそあれど、その技術は侯爵家の一流侍女の中でも群を抜いていた。メリッサはただ健気なだけでなく、誰もが認める最高に「有能な侍女」だった。
鏡の中に映る、完璧にドレスアップされた己の姿を見て、イザベルはふう、と大きなため息を吐いた。
「……本当に、メリッサは完璧だわ。こんなに美しくて、気立てがよくて、仕事もできて、家計の管理まで天才的なのに。なぜあんな、顔だけが良い《《空っぽの男》》に執着するの? メリッサが望むなら、うちの兄に頼んで騎士団の権力で圧力をかけて、今すぐ婚約破棄なんて――」
「いいえ、イザベル様」
メリッサの落ち着いた声が、イザベルの言葉を遮った。
鏡越しに目が合う。その瞬間、イザベルは息を呑んだ。
いつもなら「私が選んだ人ですから」と、どこか申し訳なさそうに、けれど健気に微笑むはずのメリッサの瞳が、今は信じられないほど冷徹で、静かな光を宿していたからだ。
「お気遣いは嬉しく存じます。ですが、その必要はありませんわ」
「え……?」
「昨日、ダリル様から『あと一年待て』と言われた瞬間、私の中で何かが完全に冷めてしまったのです。四年間、彼を盲目的に信じて尽くしてきた自分が、ひどく愚かに思えました」
メリッサは静かに、けれど明確に告げた。
「ですから、私はもう、ダリル様を待ちません」
その言葉を聞いた瞬間、イザベルの顔が一気に輝いた。
「メリッサ! じゃあ、ついに《《あの男》》を捨てるのね!?」
「はい。ただ、ダリル様は私が自分にベタ惚れしていると完全に思い込んでおいでです。今ここで私が『婚約破棄します』と言ったところで、ただの拗ねた我が儘だと笑われ、まともに取り合ってもらえないでしょう」
ダリルの性格は、この四年でよく分かっていた。悪気なく甘え、都合の良い現実しか見ない男だ。
決別を決めたものの、心のどこかでは「まだ変わってくれるのでは」という思いがどうしても残ってしまう。そんな生半可な情があるからこそ、言葉だけで向き合っても、彼の非を認めさせることすらできずに流されてしまうのだと、メリッサは己の弱さを自覚していた。
「ですから、ダリル様が二度と私に縋り付けないよう、言い逃れのきかない完璧な形で、すべてを終わらせるつもりです。幸いにも、彼の周辺には色々と『材料』が転がっているようですから」
「材料……まさか、婚約者の浮気の証拠?」
「はい。近いうちに、彼の本性を公の場に引きずり出します」
未練を抱えながらも、これ以上お互いが傷つかないために確実な終わりを選ぼうとするメリッサ。そのどこまでも健気で切ない決意に、イザベルは猛烈な感動に震えていた。
ただウジウジと涙を流すのではなく、苦しみの中で前を向こうとする最愛の侍女。その芯の強さは、そこらの騎士など足元にも及ばない。
「素晴らしいわ、メリッサ! そういうことなら、このイザベル、全力で協力いたします! 我が侯爵家の情報網も、私の小遣いも、すべて好きに使ってちょうだい!」
「ふふ、ありがとうございます。ですが、イザベル様はただ、いつも通りに可愛らしく笑っていてくだされば結構ですよ」
メリッサがクスクスと笑うと、部屋の扉が静かにノックされた。
現れたのは、オレオ侯爵家の次期当主であり、イザベルの兄であるスティーブだった。
「イザベル、迎えに来た。……おや、何やら朝から随分と賑やかなようだね」
二十二歳の若さにして、隙のない完璧な身のこなし。冷徹さと聡明さを兼ね備えたその瞳が、部屋の中にいる二人を捉えた。
その視線が、一瞬だけ、メリッサの手元に長く留まったことを、イザベルは見逃さなかった。
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