第1話 二年も待った二十歳の誕生日
「メリッサ、僕と婚約してください! 僕にはまだ爵位も何もないけれど、絶対に立派な騎士になって、君を世界一幸せにするから!」
学園の二年生に進級した、瑞々しい春の新学期。夕焼けに染まり始めた中庭の片隅で、ダリルはそう言ってメリッサの前にひざまずいた。
騎士科の制服に身を包んだ十六歳の彼の瞳は真っ直ぐで、嘘偽りのない輝きに満ちていた。
次男坊ゆえに爵位を継げない彼が、己の腕一本で身を立てようともがいている姿を、メリッサは1年生の頃から誰よりも近くで見守ってきた。だからこそ、その不器用で必死な求婚が、涙が出るほど嬉しかったのだ。
「はい。私も卒業したら侍女として働いて、貴方を全力で支えるわ」
淑女科の目立たない子爵令嬢だったメリッサは、胸を詰まらせて頷いた。あの十六歳の春、二人は確かに同じ未来を見つめ、固く手を携えていたはずだった。
――それから、四年。
十八歳で学園を卒業し、オレオ侯爵家の御息女・イザベル様の専属侍女として働き始めて二年。二十歳になった今日、目の前に座る婚約者は、かつて愛を囁いたのと同じ口から、信じられない言葉を吐き出した。
「結婚? ごめんメリッサ、今ちょっと騎士団が忙しいんだよね。あと半年、いや、もう一年くらい待ってよ」
王都の少し値の張るレストラン。目の前で、上質なステーキ肉を器用にナイフで切り分けながら、ダリルが平然と言い放つ。
今日はメリッサの二十歳の誕生日だった。二年前、彼女が学園を卒業して侍女として働き始めたとき、「お互い二十歳になったら正式に籍を入れよう」と約束した、まさにその日である。
メリッサはこの日を指折り数えて待っていた。それなのに、ダリルの口から出たのは祝福の言葉ではなく、あまりにも軽い「引き延ばし」の宣告だった。
「……忙しい、の? 切実な話、今日はそのために二人で予定を合わせて……」
「そうなんだけどさ、俺も第一騎士団で人気の花形騎士になっちゃったわけじゃない? 色々と付き合いとか、先輩からの誘いも断れなくて。今ここで結婚なんてして家庭に縛られたら、上層部へのウケも悪くなるだろ。メリッサだって、俺にはもっと出世してほしいよね?」
ダリルは悪びれる様子もなく、極上のワインを喉に流し込んだ。
その姿は、確かに洗練されていて美しい。仕立てのいい衣服をまとい、髪型も流行の先端を追っている。
だが、その華やかな生活を裏で支えていたのが誰なのか、彼は忘れてしまったのだろうか。
第一騎士団の給与だけでは足りない彼の交際費や服飾費を補うため、メリッサは高位貴族であるオレオ侯爵家で、身を粉にして働いてきた。慣れない侍女の仕事で手のひらが荒れても、彼のためだと思えば耐えられた。
ダリルに約束をすっぽかされても、夜会で他の令嬢たちと親密そうに踊っていたという噂を耳にしても、「彼は人気者だから仕方がない」と自分に言い聞かせ、激務の合間に彼の部屋を訪れては掃除をし、食事を作って支え続けてきたのだ。
「ダリル。実家の父からも、二十歳になったのだからそろそろ身を固めなさいと、何度も手紙が来ているの。侍女の仕事を続けるにしても、婚約のまま四年も放置されている状態は、その……」
「あー、子爵閣下は頭が固いからなぁ。大丈夫だって、俺たちの絆は本物なんだから、たかが一年伸びたところでどうってことないだろ? メリッサは俺のことが好きなんだから、それくらい待てるよな」
ダリルは甘えるように笑った。その笑顔は、かつて学園の片隅で純粋に愛を囁いてくれた少年そのものだった。
けれど、今のメリッサの胸には、その笑顔がひどく浅ましく、醜いものに映った。
彼は、メリッサが自分にベタ惚れしていると完全に胡坐をかいている。どれだけ放置しても、どれだけ他の女と浮名を流しても、自分が「お前が一番だから」と頭を撫でてやれば、いつでも尻尾を振って喜ぶ都合のいい存在だと信じて疑っていないのだ。
「……そう。忙しいのね」
「分かってくれたらいいんだよ。あ、悪い、俺このあと騎士団の同期に呼ばれててさ。次の店に行かなきゃいけないんだ」
ダリルは懐中時計を確認すると、まだ半分ほど残っている料理をそのままに、席を立った。
そして、自分のジャケットを羽織りながら、当然のような顔でこう言った。
「悪いけど、これ、俺の分の会計もよろしくな。今月ちょっと物入りでさ。じゃあ、誕生日おめでとう、メリッサ」
ひらひらと手を振り、彼は軽快な足取りでレストランを出て行った。
残されたのは、冷めかけた料理と、二人分の重たい勘定書。
そして、二十歳の記念すべき夜を、一人きりで取り残されたメリッサだけだった。
メリッサは、ダリルが去っていった扉をじっと見つめていた。
不思議と、涙は一滴もこぼれなかった。
ただ、胸の奥の深い場所で、パキリ、と冷たいガラスがひび割れるような音が響いた。
(……ああ、本当に。もう、いいんだわ)
四年間、彼を信じて捧げてきた時間。
彼を立派な騎士にするために、泥にまみれるようにして働いて貯めたお給料。
その全てが、彼の「まだ遊びたい」という身勝手な欲望のために、都合よく搾取されていただけだった。
「遊ぶ女と、結婚相手は別」――以前、ダリルの同僚が笑いながらそんな話をしていたのを思い出す。あの時のダリルも、きっと同じように笑っていたのだろう。
さんざん他の女と遊んで、いよいよ落ち着きたくなったら、自分の生活を完璧に整えてくれる「一番都合のいい女」のもとに戻ればいい。そう軽んじられていたのだ。
メリッサは静かに立ち上がると、給仕を呼び、己の貯金からきっちりと二人分の会計を済ませた。店員が憐れむような視線を向けてきたが、今のメリッサにはそれすらどうでもよかった。
レストランを一歩出ると、夜の冷たい風が頬を撫でる。
見上げた夜空には、冷徹な月が輝いていた。
メリッサの瞳からは、先ほどまでの悲しみも、迷いも、全てが綺麗に消え去っていた。そこに灯ったのは、凍てつくような静かな決意。
「――分かりました、ダリル様」
メリッサは、誰もいない夜道で小さく呟いた。
「そこまで『遊びたいから待て』とおっしゃるのなら、どうぞ生涯、ご自由に引き延ばしなさってください。私はもう、貴方を一秒だって待ちません」
純愛が、今、完璧な冷気とともに終わりを迎えた。
身勝手な騎士への、静かなる反撃の幕が上がる。




