第二十話 届く場所
夜は、長かった。
石造りの牢は、
思っていた以上に狭い。
人ひとりが横になれるほどの石台が壁際にあり、
その上に、
薄汚れた布が一枚置かれているだけだった。
床は冷たく、
湿り気を含んでいる。
靴底越しでも、
じわじわと体温を奪われるのがわかった。
灯りは、
通路の先にある松明が一つだけ。
格子越しに差し込む光は弱く、
顔の輪郭すらはっきりしない。
金属の匂い。
湿った石の匂い。
長く使われてきた場所特有の、
人の気配が染みついた空気。
眠れなかった。
石台に腰を下ろし、
背中を壁に預ける。
だが、
体勢を変えるたびに、
硬い感触が骨に響く。
横になっても、
冷えが先に来る。
布を引き寄せても、
寒さを遮るほどの厚みはなかった。
遠くで、
水滴が落ちる音がする。
一定の間隔で、
ぽた、ぽた、と。
それが、
時間の代わりだった。
目を閉じると、
城壁の上で見た光景が浮かぶ。
白いドレス。
月明かり。
振り向かなかった横顔。
――本当に、見たのか。
何度も、
同じ問いを繰り返す。
だが、
否定しきれなかった。
もし、
見間違いだったら。
もし、
幻だったら。
それなら、
ここで捕まったことも、
すべてが無意味になる。
このまま、
どうなるのか。
罰を受けるのか。
追放か。
それとも、
ここで静かに消されるのか。
城に忍び込んだ。
その事実だけで、
十分すぎる理由になる。
考えが、
同じところを回る。
体を丸めても、
寒さは消えない。
眠気が来ても、
すぐに目が覚める。
時間だけが、
削られていく。
やがて――
通路の奥で、
足音がした。
ひとりではない。
複数人分の、
重い足取り。
鎧が擦れる音。
鍵束の鳴る音。
牢の前で、
足音が止まる。
光が、
少しだけ近づく。
心臓が、
嫌な音を立てた。
解放は、あっけなかった。
牢の扉が開き、
軋む音とともに、
兵士が無表情のまま立っていた。
「出ろ、釈放だ」
それだけだった。
理由も、
説教も、
忠告すらない。
危険人物ではあるが、
国家反逆ではない。
排除するほどでもないが、
信用はできない。
そういう分類に、
押し込まれただけだと分かった。
一定時間の拘束とカルマの悪化。
それが俺に対する罰だった。
機械的な対応なのに、
何か別のものまで
削られた気がした。
城の外に出ると、
夜明け前の空気が冷たかった。
深く息を吸う。
肺に冷気が流れ込む。
自由だ。
だが、
胸は少しも軽くならない。
あの一瞬。
城のテラス。
月明かり。
白いドレス。
そして、
振り向かなかった横顔。
――見間違いのはずがない。
俺は、
ルナを見失ったことはあっても、
見間違えたことは一度もない。
声に反応しなかった理由。
名前を呼ばれても、
足を止めなかった理由。
覚えていなかった理由。
考えれば考えるほど、
否定よりも、
可能性のほうが増えていく。
立場が変わった?
記憶を消された?
あるいは――
意図的に、距離を取られた?
どれも、
あり得てしまう。
諦める、という選択肢はなかった。
城の近くを離れ、
人の流れに紛れるように、
王都の広場へ向かう。
人が集まる場所には、
噂も集まる。
酒場の前。
掲示板の前。
噴水のそば。
立ち止まっては、
耳に入ってくる断片を拾う。
「今年の闘技大会、
やけに盛り上がってるらしいぞ」
「優勝者には、
王様から褒美が出るって話だ」
褒美。
その言葉に、
足が止まった。
「金だけじゃない。
望みを一つ、
聞いてもらえるらしい」
酒に酔った声。
大げさな噂話。
それでも、
胸の奥で、
何かが確かに反応した。
王の褒美。
王都の公式行事。
闘技大会。
正面から、
城に関わる唯一の道。
裏から潜り込めば、
排除される。
正面からなら、
無視できない。
「……会わせてもらえるかもしれない」
褒美として、
お姫様に会わせてほしい。
馬鹿げている。
無茶だ。
だが。
不可能ではない。
国への貢献度。
カルマ。
身分。
それらすべてを、
一時的に脇へ置ける場所。
それが、
闘技大会だった。
力だけが、
結果だけが、
評価される。
俺は、掲示板を見上げる。
参加条件。
期限。
会場。
目で追うたび、
引っかかるところはない。
意を決し、受付に向かう。
「参加したい」
受付の男はこちらをちらりと見ると
うすっぺらい用紙をよこしてきた。
「……これに名前を」
これで決まる。
震える手で、
文字を刻み、用紙を返す。
逃げではない。
賭けだ。
これが、
正しい選択かどうかは、
わからない。
だが。
動かなければ、
何も起きない。
城のテラスで見たあの姿を、
幻だとは、
どうしても認められなかった。
「……待ってろ」
誰に向けた言葉かも、
わからないまま。
それでも、
確かに、口に出した。
俺は、
闘技大会の会場へ向かう準備を始めた。
正面から、
城へ戻るために。
失う覚悟を抱えたまま、
もう一度、
前に進むために。




