第十三話 大事なもの、1つ
この街は、たどり着いた時点で疲れ切っていた。
足を踏み入れた瞬間、空気が重い。
焦げた木と油の混じった匂いが、鼻の奥に残る。
息を吸うたび、喉の奥がひりついた。
露店の屋根が半分焼け落ちたまま、客引きの声が飛ぶ。
その声には、切迫も焦りもない。
ただ、続けることに慣れきった響きだった。
声だけが、仕事のように残っている。
修理を待つ船の陰で、子どもが水桶を運んでいた。
小さな腕には重すぎるはずなのに、足取りは止まらない。
誰に言われたわけでもなく、
それが“役目”であるかのように。
簡易宿の壁には、修理待ちの札が重なって貼られている。
紙は雨に滲み、文字の判別も怪しい。
動けない船が、順番を待つように並んでいた。
ここは、壊れながらも回り続ける場所だ。
たどり着いたドックでは修理作業が進んでいた。
飛行船の船腹に走る裂け目を前に、職人たちが声を荒げている。
怒鳴り声と工具の音がぶつかり合う。
足元の石畳が、微かに震える。
そして、どこか遠くで響く、争うような怒号。
「にいに……ここ、へん」
ルナが、ほとんど身を隠すように服の裾にしがみつく。
小さな指先が、布を掴んだまま離れない。
「わかってる」
ルナの手を引き、俺は周囲を見渡す。
荒れていると聞いていたが、想像以上だった。
建物の壁には焦げ跡が残り、舗道は抉れたまま放置されている。
靴底に、小石が食い込む感触がした。
路地の奥に、片付けられない瓦礫が積まれている。
焦げた布切れが、風に揺れていた。
風が吹くたび、ぱさり、と乾いた音がする。
それを誰も気に留めない。
――ここは、もう戦場だ。
だが、それでも、作業は進んでいた。
飛行船の周囲では、職人たちが手早く動いている。
声は荒いが、手つきは慣れていた。
指先の動きだけが、やけに正確だ。
この街では、もう、これが日常になっているのだろう。
……長居する場所じゃないな。
そう思った瞬間、
胸の奥で、何かが静かに決まった。
そのときだった。
悲鳴。
次いで、破壊音。
ドックの入口が、内側から吹き飛んだ。
「……来たぞ!」
誰かの叫びと同時に、空賊たちがなだれ込んでくる。
数が、違う。
空で遭遇したときの比じゃない。
二十、三十――いや、もっといる。
視界の端から端まで、影が動く。
「ひゃはは……っ! ぶっ殺せ、ぶっ壊せ!」
「ほら、逃げろ逃げろ! 燃やしちまうぞ」
笑い声だけが、やけに大きかった。
揃いすぎていて、逆に気味が悪い。
耳の奥に、粘つくように残る。
魔法が放たれる。
詠唱の切れ端が聞こえた気がした。
スキルが炸裂する。
光と衝撃が、無差別に弾ける。
狙いはない。配慮もない。
「たすけ……っ!」
逃げ遅れたNPCが、魔法に巻き込まれて吹き飛ぶ。
悲鳴は途中で途切れ、
光の粒子が、空中でほどける。
血も、肉も、
倒れた体すら残らない。
NPCの消滅。
見慣れたはずの光景のはずなのに、
胸の奥が、ひどく冷えた。
建物が崩れ、炎が上がる。
人が倒れ、悲鳴が重なる。
子供の手を引く母親、年老いた女を背負って走る男。
誰もが必死だった。
足音が、逃げ場を探して散っていく。
「にいに……っ!」
ルナの声が震える。
声は出ているのに、輪郭がない。
振り返ると、完全にパニックに陥っていた。
顔色が真っ青だ。
瞳が、どこを見ているのかわからない。
ちらりと、修理中の飛行船を見る。
骨組みが剥き出しのまま、動けない。
船体はそれなりに強固だが、籠城できるほどではない。
逃げ込んだところで、長くはもたない。
――無理だ。
この状況で、ルナと飛行船、両方を守るのは。
飛行船を守るか。
ルナを守るか。
――考えるまでもない。
「……ルナ」
俺は即断した。
迷った痕跡だけが、胸に引っかかる。
「船は捨てる。行くぞ」
ルナを抱き寄せ、街の外へ走る。
ルナは、声を出せずに俺の服を掴んでいた。
小さな指が、必死に布を握りしめている。
その震えが、腕を通してはっきりと伝わってくる。
細い道は瓦礫で塞がれている。
誰かに誘導されているようで嫌だが、大通りを行くしかない。
足元に散らばった破片を蹴りながら進む。
崩れた建物には、火の手が回り始めていた。
前を走っていた親子が、転んだ。
母親が子供の腕を掴み、引き起こそうとする。
だが、追いつかない。
詠唱。
聞き慣れた魔力の軋む音が、背後から走る。
「――っ!」
振り向くより早く、光が弾けた。
魔法が、子供を直撃する。
一瞬、体が宙に浮いた。
小さな体が、布切れみたいに吹き飛ぶ。
次の瞬間、
子供の姿が、ふっと掻き消えた。
光の粒子が、弾けるように散る。
空中でほどけ、
風に溶けるみたいに消えていく。
そこには、何も残らなかった。
血も、肉も、
倒れた体すらない。
母親の叫び声が、遅れて響く。
「――ああああっ!!」
腕を伸ばしたまま、
何も掴めない空を抱きしめている。
地面には、
子供が落とした小さな靴だけが転がっていた。
片方だけだ。
足が、止まりかける。
「にいに……」
ルナの声。
腕の中で、ルナがぎゅっと身を縮める。
俺の服に、額を押しつけてくる。
震えが、はっきり伝わる。
――見るな。
――考えるな。
歯を食いしばる。
「……」
俺は、前を向いたまま走った。
助けない。
戻らない。
見ない。
すまん。
本当に、すまん。
俺は、英雄じゃない。
守ると決めたのは、ひとつだけだ。
それ以外を切り捨てる覚悟が、遅れて胸に刺さる。
自分の呼吸、胸の鼓動、服のこすれる音さえ、うるさかった。
世界が、音だけで満ちている。
空気が熱をもって街を覆っていた。
魔法を発動する余裕が、なかった。
背後で、何かが爆ぜる音がした。
熱風が、背中を舐める。
途中、誰かとぶつかる。
反射的にこぶしを振りあげかけて止める。
……柴くん。
あの整備士だった。
顔は蒼白だが、息を切らし、必死に逃げてきたのが分かる。
油と汗の匂いが混じる。
「お二人の後を追ってたんです……!
見失いましたけど……会えてよかった。
こっちです! 裏道が――」
「案内してくれ!」
三人で走る。
魔法の流れ弾が掠め、石畳が弾け飛ぶ。
破片が、足首に当たる。
スキルの余波が建物を薙ぎ倒す。
もう少しで、街の外だ。
出口が、視界の先に見えた。
そのとき。
「――逃がすか。くたばれ」
背後から、声。
振り向いた瞬間、放物線を描いて飛んでくる影が見えた。
爆弾。
「――っ!」
既視感が、胸を刺す。
あの空賊だ。
笑っていた顔が、脳裏に焼き付いている。
嫌な手を使ってくる。
本当に、胸糞が悪い。
範囲攻撃。
技量も、レベルも関係ない。
数で押し切るだけの戦法。
俺は、歯を食いしばって爆弾を弾き続ける。
腕が痺れる。
視界の端が、ちらつく。
だが、意識が散る。
――もし、今。
後ろから来られたら?
……違う。
余計なことを考えるな。
一瞬の迷い。
その隙を、逃すはずがなかった。
「えっ」
弾き損ねた爆弾が、柴くんの足元に落ちる。
「危ない!」
体が、勝手に動いた。
スキル発動。
「――身代わり」
衝撃が、俺を叩き潰す。
視界が白く弾ける。
音が、ひしゃげる。
致命傷じゃない。
だが――
完全に、体勢を崩した。
強制的に体が動きを止める。
地面の感触が、やけに遠い。
「しまっ――」
次の爆弾が、ルナの前に落ちる。
——違う。
頭が沸き立つ。
視界の端に、ルナが映る。
スキル使用後の硬直。
再実行は、間に合わない。
ルナが、何か言おうとして口を開く。
「にっ……」
俺を呼ぶ声は声にならなかった。
短い声。
空気が裂ける。
爆発。
「ルナっ!!」
世界から、音が消えた。
思考が止まる。
考えるという行為そのものが、どこかへ消えた。
何が起きた。
ルナ?
……嘘だろ。
視界が、白と黒に分かれる。
次の瞬間、体が突き飛ばされた。
「危ない!」
柴くんの声。
爆煙が、すべてを包み込む。
「はぁ、はぁ……どうだ?
死んだか?」
空賊が、無警戒に近づいてくる。
足音が、近い。
「ははは――」
その声が、途中で途切れた。
煙を断ち切るように、剣閃が走る。
一閃。
空賊は、何も残さず消滅した。
煙が晴れる。
そこには、剣を振り下ろしたままの俺と、
地面に突っ伏した柴くんだけだった。
爆音が、嘘みたいに遠ざかる。
耳鳴りだけが、残った。
息が、荒い。
喉が、焼けるように痛い。
胸の奥が、冷えていく。
取り返しのつかない何かが、
確かに、ここで起きた。




