四章 1
四章
1
その次の週の奈倉ゼミで、奈倉が出した課題をゼミ員は順調に終えることができたので、ゼミでコンパをしようという話が出た。勇気のあるゼミ員が、奈倉もコンパに誘ったのだが、意外にも奈倉もコンパに参加すると申し出た。
大学から3駅の田麻センター駅でコンパを開くことになった。店を手配したゼミ員が、大学から店までを先導した。ゼミで初めてのコンパだったので、雰囲気は賑やかで、普段はしない打ち解けた会話がなされていた。
純永は一人で黙々と人の流れに付いて行っていた。店に入って、一人でソフトドリンクを飲む。大体コンパに参加するときの純永のスタイルだ。のどかの姿を目で追う時があったが、他のゼミ員と話していることが多く、自分が話しかけられそうな感じではなかった。
玖珠も他のゼミ員と話している。自分はどうしようかと辺りを見回していると、同じく所在無い様子の郁美と目が合った。
郁美がグラスを持って純永に近づいてくる。グラスには真っ赤な飲み物が入っていた
「遠野君、隣いい?」
「はい、大丈夫です」
郁美が純永の隣に座った。
「こうやって面と向かって話すのって初めてだよね。って、私って、あまりゼミで発言できてないから…。課題が難しくって、付いて行くのがやっとなんだ」
「僕も奈倉ゼミの課題は難しいと思いますよ」
「そうだよね!私だけ置いてきぼりを食っているんじゃないかって、不安で。みんな真面目だよね…。私も予習をちゃんとしているつもりなんだけれど、こう、上手くいかない、というか、教科書に書いてあることがよく分からない、というか」
「何でこういうややこしい話をしているのか、その理由のところが分かりにくいんじゃないですか?」
「そうそう。そんなこと条文のどこにも書いてないけどなぁ、っていつも素朴に思う。解釈、っていうんだよね。解釈なんて言葉、大学に入るまで使わなかったよ」
「条文に書き切れないことは沢山あるから、仕方ないんですよね」
「そうだよね、全部書くわけにもいかないもんね」
「大越さんは、大学は今のところ楽しいですか?」
「あんまり。勉強はしなきゃって思うけど、勉強だけだと息切れしちゃうな。もっと、こう、花の10代、20代の、ほら、恋とか、レンタカー借りてドライブに行くとか、徹夜でカラオケするとか、飲み屋を梯子するとか、そういうの?そういう成分が欠けてる」
「そうですね、そういうのは僕も少しはやってみたいな」
「本当?」
「いえ、話を合わせただけで、僕はほとんど興味が無いかな」
「あはは。遠野君面白いね。ゼミで一番真面目そうだもん」
「そうかな…」
こういった意見に接するのはもう二年目であるから、純永も手慣れたものだった。
「私ね、今、料理の修行しているんだ。料理教室に行くとかじゃないけど、時々自炊に挑戦してる」
「へぇ。上手く行っていますか?」
「ううん。大体失敗。下拵えで疲れちゃうんだよね。肝心の味付けのところが大雑把になる」
「でも、自分のために作る料理なら、結構上手く行くものじゃないです?」
「えっ、そんなことないよ。自分のために作った料理でも、全然不味い」
「そうなんだ。僕は上手く行くけど…」
「遠野君一人暮らしだよね?キャリアの違いだよ、きっと。私は二年になってから始めたから」
「そうでしょうね」
純永は、一人暮らしをしてすぐに美味しい料理を作れるようになれたが、再び話を合わせた。
「遠野君はさ、大学で勉強以外はどんなことしているの?」
「僕はサークル活動をやってますね」
「おお、意外だね。どんなサークルなの?」
「名前はまだ無いんですけど…たまたまできた繋がりの5人で、色々やっています」
「色々って?」
「えっと、人生ゲームとか、ドンキーコングとか…」
言っていて純永はなぜか少し恥ずかしくなった。勉強以外という縛りが設けられていたため、それ以外のサークルの活動がぱっと思い浮かばなかった。
「人生ゲームとドンキーコング?それはそれは…」
「それはそれは、なんなんです?」
「いや、面白そうだなと」
「本当ですか?」
「本当は、かなり意外だな、と思った。遠野君、そういう遊びもするんだね」
「結構好きですよ」
「女の子もいるの?」
「男性3名に女性2名ですね」
「ほうほう。2人のどちらかが気になったりしない?」
「気になる、というと?」
「よく言う、異性として、ってやつ」
「うーん…」
この質問も想定はしていた。正直、よく分からないというのが純永の本音なのだが、このよく分からないという答え方は、相手にフリーハンドを与えることになるので、あまり自分としては好ましくない。でも、完全に否定すると、なんだかそれはそれで各方面に角が立ちそうで(全くの錯覚とも言えそうだが)純永は考えあぐねた。郁美には嘘があまり通じそうにない。
「何の話をしているんですか?」
助け舟が来たのだが、声の主に純永は驚いた。ビールのグラスを持った奈倉が正面に座ったのだ。
「あっ、奈倉先生。今遠野君に、サークルで気になる女の子がいないか訊いているところなんです」
ここで話を逸らす機会があったのだが、郁美に周到に一瞬で潰されてしまった。
「そういうお話でしたか。ゼミの中で、ではないんですね。大越さんあまり遠野君を困らせてはいけませんよ」
「こういう席でしか訊けないことなんだから、大目に見てください」
「確かにそうですね」
奈倉は軽く笑った。
「奈倉先生は結婚されているんですか?」
この質問さえ純永にとってはやや憚られるものではあったが、純永は手段を選んでいるほど余裕が無かった。
「いえ、私は結婚してないです。まだ経済的に安定していませんから」
「やっぱり、非常勤講師の収入だけだと家計的に厳しいものですか?」
郁美は尋ねた。
「そうですね。講師の収入は非常に少額ですし、質素に暮らしていればそれなりにやっていくことも可能ですが、高額な本や学会費、旅費などの出費はあります。とても世帯を持てるような状況ではないですね、共働きならともかく」
「先生はいつから研究者を志すようになったんですか?」
今度は純永が尋ねる。
「私は、学部生になってすぐの頃は研究者になろうなんて思っていませんでした。その後、皆さんと同じように、演習に参加して、その時の先生から、院に行ってみてはどうか、と言われたんですね。外国語は得意でしたから、その点では問題無く、成績もどうにかボーダーを超えて、奨学金を借りながら勉強していました」
「就職と比較すると、大冒険ですよね。その点は怖くなかったんですか?」
再び郁美。
「私にとっては就職も大冒険でしたよ。学部生の最後の方では、もう自分の中で決意は固まっていました。あとは、自分の成績のこととか、研究者としての素養の面ですね、そういうことばかり考えていました」
「自分が思った通りの研究はできているな、って感じられますか?」
純永は気になっていることを尋ねた。
「なかなか難しい質問ですね。研究者になる前に『思っていたこと』は確かにあります。しかし、実際研究を視野に入れた勉強が始まって、研究者への道を歩んで行くと、自分の知らなかったことや至らなかった部分が分かるようになってきて、『研究したいこと』は修正されていくんですね。でも、研究者を志すときに持っていた問題意識、つまり『思っていたこと』は今でも部分的に残っています。大切なものですね」
「遠野君は研究者になりたいの?」
郁美は、飲み物を少し飲んで、尋ねた。
「うーん…、まだそこまではっきりとはしていないかな…でも視野には入れてます」
「よく、学部生の頃から抜きん出ていた者が研究者になる、そういう人ばかりの世界だ、と一般の方に思われることがあります。実際、一部の大学では、学部卒からいきなり助手採用している時期がありました。しかし、そこまで超越した世界とは必ずしも言えません。確かに、そういう人達はたくさん居ますし、そういう人の間で競争や切磋琢磨が行われるのが日常ですが、研究すべきこともまたたくさんありますからね。大切なことは、そういった一流の人に出しても問題が無い、問題が少ないきちんとした科学的な手法や思想に則って研究成果を出すことです。法学は社会科学ですから、ここのところが一番難しいんですね。研究は共同作業ですし、客観的なものを指向しています。その前提から一周回って、自己満足できるようなものを少なからぬ研究者は求めているのですが、それだけのものは決して一般的な意味での研究の成果ではありません」
「私には絶対無理だなぁ。教科書が既に難し過ぎるんだもん」
郁美はまた飲み物を飲む。
「慣れというものがかなりありますよ。しかし、適性もまた厳然としてありはします。世界には法学以外に学問が無いわけではないですし、学問以外にも素晴らしいことはたくさんあります。したがって、研究者になることは、十分相対化可能です。上からのノルマというものがほとんど無いことくらいですね、大きな違いは。そのことから来るプレッシャといかに向き合っていくかは、研究者にとって非常に重要な課題です」
純永は、一番気になっていることを奈倉に尋ねてみようか迷った。自分の前提知識が欠けている的外れなものかもしれないという危惧があったし、改めて言葉にするならば、のどかにした感覚の話では不十分だと思った。
それでも、人生にはチャンスはそれほど多くない。探り探りでも、純永はここで一つアクションを起こそうと決意した。
「奈倉先生、前々から疑問に思っていたことなんですけれど、質問しても良いですか?」
「はい、なんでしょう?」
「法学的な責任だけが、人間の責任ではないですよね。法学的な責任も、元を辿れば、自然法などの法哲学的な事柄から演繹されたものだということは、多少勉強しました。でも、もっと根本的に考えてみれば、個人がその行為を決めるとき、法律はあまり参考にならない、と思うんです」
「ふむ、なるほど。続けてください」
「してはいけないこと、その逆で、ある条件下ですべきこと、そういうことが法律では網羅的に規定されています。特定の業界関係者・企業・団体とその業法の関係が典型ですが、そういった業法としてではなく、全くの個人が、従うべき、というのは言い過ぎかもしれませんが、範とすべき何かがあるのではないかと、何となく思うんです」
「法学的な責任の概念が狭過ぎるということですね?」
「そうとも言えますが、むしろ、責任やその概念といったものさえ、僕にはどうも迂遠に思えます。責任、という言葉しか現状適切なものがないのかもしれませんが」
「もう少しだけ具体的に遠野君の考えている責任のようなものを説明できますか?」
「つまり、システムから漏れた人に対する責任、ということです」
「法律というシステムだけを視野に入れているわけではないということですね。そうであるならば…。政治学や社会学、教育学・心理学、宗教学や文学の領域に、一応経済学も入れて良いでしょう。法律学も、紋切り型に、罰則だけを課す、という扱いをしているわけではありません。犯罪学などもありますから、原因を究明し、学問的に整理した上で、フィードバックして、『次に備えて』少しでも現状を良くしていこうとしています」
「はい」
純永は、やはり、言葉にするのが難しいと改めて思った。純永がこのとき思っていたのは「システムから漏れていく人の出現は避けられないから、システムという考え方に問題は絶対に残る。だから、それをもカバーするためには、個人に『何らかのもの』が必要ではないか」ということだった。しかし、これは、自分でも、ただ駄々を捏ねているようにも感じられた。また、不可能なこと、あり得ないこと、考慮に値しないことに係っているようにも思えた。「そのことは皆分かっている。それでも次善の策として、システムを組み上げている」と返答されるのが関の山だった。したがって、自分の方から、何かをさらに言うしかなかった。
「遠野君」
テーブルを眺めていた純永に、奈倉が声を掛けた。
「遠野君が言いたいことは十分伝わっていますよ。『次に備えて』じゃ間に合っていない、と思っているんですね」
「っ、はい、そうです」
奈倉のその要約が、自分の考えが伝わっていることが予想外だったので、純永は驚いた。
「……」
奈倉はビールを飲んで、少しの間黙った。純永は奈倉の瞳を見たが、奈倉のそれは揺れていない。今自分の瞳はどうなっているだろう?のどかのように揺れているだろうか?
「遠い昔から…」
奈倉は純永の眼を改めて見て話し始めた。
「人は争いを続けて来ました。そもそも、生物で争いに無縁なものは、歴史的に見てもほとんど皆無だと言って良いでしょう。また、人は自由を欲しがりました。それは、争い無くしては得ようがない、その暫定的な結論は、今後もずっと続くと思います。たった少し見方や考え方を変えれば、それは個人のレベルでも可能なはずですが、世界の景色は大きく変わるはずだ、しかしそのたった少しの実現が極めて難しい。それは、法律学の研究をやってきて、十二分に知るところです」
奈倉はそこで煙草を取り出して火を点けた。奈倉も煙草を吸うことを純永は初めて知った。
「失われるものがあれば、生まれてくるものもあります。でも、この理屈も遠野君の疑問への答えにはなりませんね。失われるものと生まれてくるものは同じではないからです」
奈倉は煙草を吸って、煙を細く吹いた。
「失われたものの記憶は、それを貯蔵した個人も失われたときに、基本的に消滅します。そうやって、人間は、この無限に続くかのような苦しい歴史を、忘れ忘れ、どうにかこうにか後世に繋いできました。後世は、後に生きるとも書きますね」
「……」
「私は特に、強く宗教を信仰しているわけではないですが、それでも、個人が見出す悟りは、一時的であれ、部分的であれ、あるのではないか、と感じています。人間は、失ってはならないと思うものを、失うことができないようにできているんじゃないかと」
「でも…」
「そう、悟ろうが悟るまいが、失われたものが失われたことは変わりません。そういう意味では、救いは無い」
奈倉はビールを一口飲んだ。
「こういうことも言われたりします。もう失ったもののことについては思考の外に置いておかないと、置いて行かないと、時間はどんどん流れ、さらにたくさん失ってしまうものが出てきてしまう、と。全く儘ならないし、酷な世の中ですね」
奈倉は辺りを見回した。体操のようなものかもしれない。
「私も、この問題については、考え続けようと思っています。私が今は先生の立場ですから、遠野君に何か言って上げることができたら、と思いましたが、私も、私の師も、その答えを見つけることができていません」
純永は、あの日ののどかとの会話を思い出した。
「でも、私に言えることも多少あります。よく、そのことをそこまで考えましたね。遠野君は十分立派だと思います」
「そんな、まだ僕は何も仕事として何かを成すことができていません」
「遠野君は、今の自分の感覚を錯覚だと思っているかもしれません。あるいは、勘違いのようなものではないだろうか、と。私はきちんと言うことができますが、貴方が今思っていることと同じことを、過去にもたくさんの人が考えました。そういう人達は、自分のその思いを、どうにか社会に還元し、何らかの経路で達することができないか、一生をかけて模索しました。ある人はそれを優しさや愛だと考え実践したかもしれないし、またある人は科学や学問の中にその答えがあると考え、みずからに問い続けたかもしれません。真の悟りや教えや規範を目指し続けた宗教家も居たでしょう。私に、一つ、確かなこととして言えることがあります」
「はい」
「これは、貴方の問題である、ということです。生きている人、もう生きていない人、色々な人の手を借りることになることはあるでしょうが、貴方自身が、貴方自身の手で、答えを探さなくてはなりません。もしかしたら、巨視的に見れば、もうその問題は、選択の余地が無いような、つまり人間の個人が持つ問いとして不適格なものに成りつつあるのかもしれません。その境界こそが、問題になっていると言って良い」
奈倉は、ビールの残りを全て飲み干した。
「今日のところはこの件についてはこのくらいにしておきましょう。非常に難しい問題です。これ以上の発展は、望めそうにないですから。また、いつでも相談してくださいね」
奈倉は席を立った。
純永は、ソフトドリンクを一口飲んで、今の話を頭の中で整理した。ふと気がついて、隣を見ると、郁美がまだ座っていた。神妙な顔をしている。
「今、遠野君が話していたこと、私にも伝わったよ、正確には理解できてないかもしれないけれど」
「そう?聞いていてくれてありがとう」
「これは私の持論なんだけどね、過去も未来も見据えるなら、できるだけ犠牲を出さずに、自分が幸せになるしかないと思うんだ。そして、厄介事を多少なりとも引き受ける。そういう人を増やす。馬鹿馬鹿しい在り来りな結論かもしれないけど…」
「そんなことはないですよ」
「遠野君はさ、ちょっと物事を難しく考え過ぎているんじゃないかなって思った。気を悪くしないでね。だって、人間の幸不幸なんて、結構移りゆくものじゃない?えっと…、言い換えると、自分のこと、自分を納得させること、そういうものを求めているようで、いつの間にか、自分以外のみんなも納得させないといけない、そういうふうにスライドしている気がする」
「えっ、そう?」
「うん。自分の経験をさ、それは自分にとってとても大切なものであっても、それは基本的に、自分だけのものだよ。その時の感情とか、思いとか、怒りとか、悲しみを、そんなに綺麗に整えなくても大丈夫だよ」
「あ…」
不意に純永は涙が出そうになった。驚いて、すぐに自分の気持ちを押さえこんだ。
「でもね、そうやって整理したくなる気持ちも、なんとなく分かる。そうしないと、消えちゃうんだよね。時間はどんどん流れていくし、自分も変化していくから。新しい自分に、古い自分のことを言い聞かせないといけない。少なくとも、この、ほんの一瞬かもしれない、今という間の私には、届いたし響いたよ、遠野君の考えていること。大丈夫、遠野君も遠野君の思いもそんなに脆くないよ」
郁美はまた、真っ赤な飲み物を一口飲んだ。




