四章 2
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ゼミの飲み会で、純永は珍しく酒を飲んだ。郁美に勧められたからだ。最初は断ろうと思ったけれど、郁美の好意がありがたかったので、断るのも気が引けた。
翌日、純永は目が覚めると、経験したことがない気持ち悪さがあった。頭痛もする。目覚めてすぐの曖昧な頭で昨日のことを思い出して、これが二日酔いというものか、と思い至る。
その日の講義は午後からだったが、アパートに居るよりも外に出て日光を浴びたり多少身体を動かしたりした方が良いと考えたので、朝御飯を食べずに大学に行った。
図書館に行くのは気が進まなかったので、サークル室へと向かった。朝には誰も居ないだろうから、日光を浴びながらゆっくりできるだろうと考えたのだ。
痛む頭を手で押さえながら、サークル室の扉を開ける。部屋の中を見て純永は少し驚いた。賽が一人で読書をしていたからだ。
「まあ。遠野君、おはよう。早いね」
賽は、純永が来たのを見て、本を机に置いた。
「おはよう。一志木さん」
純永は椅子に座った。
「どうしたの、頭を押さえて。体調が悪いの?」
「ちょっとね。二日酔いなんだ」
「二日酔い?」
賽の発音は独特だった。
「それはそれは。遠野君が自分から二日酔いになるほどお酒を飲むようなことがあるとは思えないから、よっぽど断れないお酒だったんでしょうね。ゼミのコンパ?」
「そうだよ」
「先生が勧めてきたの?」
「いや、ゼミの女の子だよ」
「ゼミの女の子か」
また賽の発音は独特だった。錯覚かもしれない。二日酔いで耳まで少しおかしくなってしまっているかと純永は思う。
「遠野君、女の子にお酒を勧められると、断れそうにないね」
「そう?」
そういった自覚は純永には無かった。
「いえ、今の発言は忘れて」
「えっ?なんで?」
「ちょっと失礼だった気がする。ごめんなさい」
「別に、何も悪いこと言ってないよ」
二日酔いのせいで純永は頭が回らなかったが、それでも、今の賽の発言に問題があったとは思えなかった。
「先生とはコンパで話ができた?」
「うん、それなりにできたよ」
「何ていう名前の先生だっけ?」
「奈倉先生だね」
「ああ、聞いたことがある」
純永は、できれば静かに午前中を過ごしたい、という計画を持ってサークル室に来たのだが、賽との話は楽しいので話を続けることにした。
「一志木さんのゼミではコンパとかはあった?」
「月1くらいでやっているみたいよ。私は最初の一回だけ参加したわ。あまり楽しい話は無かったし、先生と話すならオフィスアワーに行った方が良いなと思う」
「研究室を持っている先生ならそうだね」
「ああ、奈倉先生は講師なんだ」
「そう」
「どんなことを話したの?」
「自分の疑問を先生に話した。先生はその答えは分からないって仰って、自分で答えを探すしかない、とも仰った」
「疑問って?」
「システムから漏れた人への責任、という話なんだけど…」
純永は賽の方を見た。目が合う。こういう時、賽と純永は必ず目が合った。
そしてまた、こういう時、賽の目の前に居る自分と、自分の目の前に居る賽、両者の関係が、純永には不思議なものに感じられた。
「漏れた人には救いが無いって、先生は仰ったんじゃない?次に繋げるしかない、とも」
「その通りだね」
「その上さらに、遠野君は何かを問うわけだ」
「うん…そう」
「ポイントは2つある。まず、人生は一度きりだという前提。次に、責任という言葉の意味。自責や他責といった罰なのか、そうではなく、次に繋げる、という指向のものなのか」
「そうだね」
「遠野君、トマトジュースでも飲む?」
「えっ?」
賽はバッグから紙パックのトマトジュースを取り出した。
「二日酔いなんでしょ。これあげる」
賽は立ち上がり、純永に近づいてきて、トマトジュースを手渡した。賽は自分の椅子に戻る。
純永は、ストローを取り出し、差込口にそれを突き刺して、トマトジュースを一口飲んだ。元々苦手なものだったが、不思議と不味く感じない。
「人間はさ、本来異なるもの同士を、同じもののように扱うことができるじゃない?」
賽は話し始めた。
「毎日過ごしていて、一日一日を、ほとんど同じものとして基本的に考えているし、一つ一つの烏の鳴き声に個性を見出したりはほとんどしないでしょう?」
賽はコーヒーを一口飲んだ。
「だから、もう回収できない落ち度については、その回収と等値だと言えるくらいの、別のもので回収するしかない。これは、次に繋げるという指向のものの一つね」
「でも、それは無理って場合もあるんじゃないかな?」
「いえ、そうじゃないの。無理なことは前提なのよ。無理でも、多少ましかな、ってレベルの話。だから、システムから漏れた人には救いが無いし、その救いを望む人にも救いが無いけれど、多少ましな道だけが残っている。ここで人は選択を迫られるわ。多少ましかもしれない道を選ぶか、多少ましとさえ思えないから、現状を維持するか。歪なものの歪さは、誤魔化せないし代替できない。そのことは徹底的に考えられるだけの価値がある」
純永はトマトジュースの残りを飲み干した。空になった紙パックは、中身が抜けて萎んでいた。
「確かなことは、時間は流れる、ということだけ」
賽は言った。賽の瞳を見て、純永は一年前を思い出す。一年が経っていた。
「私は、遠野君のそういうところ、全力で、時間の流れに抗おうとするところ、好きよ」
賽は笑顔で言った。純永は顔が熱くなった。トマトジュースのせいにするわけにもいかない。
「時間が流れれば、新しいものに出会うこともある。いえ、新しいもので満ち溢れていると言うことだってできる。生きていれば、ね。遠野君、朝御飯食べてないでしょう?サンドイッチ持っているから、一緒に食べない?玉子と、胡瓜と、シーチキン」
「ありがとう。頂く」
冒頭の引用文は、池上嘉彦『記号論への招待』(岩波新書)、及び夏目漱石『明暗』(『夏目漱石全集 9』(ちくま文庫)所収)によりました。




