三章 3~4
3
純永は、生協に本を見に来ていた。生協というのは、いつの時間でも一定の数の人が居るもので、人の出入りも多く、じっくり本を選んでいても、目立つことはない。民事法の教科書のコーナーのところで、気になる本をパラパラと捲ったり、まえがきを読んだりしながら、軽い調べ物をしていた。
後ろに人が来た。自分は粗方用事を済ませたので、入れ替わりでそのコーナーから立ち去ろうとしたとき、後ろの人の顔に目を向けた。
「あら」
こちらが声を上げるより先に、向こうが声を上げた。正確に状況を書くなら、純永は先に気がついていたが、そのまま立ち去ってしまおうと考えていた。
「遠野さん。こんにちは」
「こんにちは。海さん」
声を掛けられてしまったので、少しは会話をしないといけない気がした。別に急いでいたわけではないから、忙しいといって立ち去るのも気が引けた。
「教科書を買いに来られたのですか?」
民事法の教科書の棚の前であるから、蓋然性の高い質問をとりあえずしてみた。
「そうなんです。先週出されたゼミの課題、私にはちょっと難しくて…」
「そうですね、だったらこの教科書が…」
純永は棚に沢山並んでいる本の中から二冊を取り出し、のどかに渡した。
「どちらも同じW大学の先生のものですね。生協で買うと高いですから、図書館を覗いてみると良いかもしれません」
「ありがとう。法律学の教科書って沢山あって、どれが良いのかすぐには分からないから、選ぶのが難しいですよね」
「ええ。難しそうなものが良いかというと、必ずしも良いわけではなくて、時々著者の理解が不必要に難しくなっているものもありますね。でも、記述の正確さ、という観点で言うなら、易しいものより難しいものの方が、大学生が読むには適していると思います。とんでもなく難しいものもありますけどね」
「なるほど。参考にしてみます。私、実は自分は法律学には向いていないんじゃないかって前々から思っているんです。でも、色々あって、今は奈倉先生のお世話になっているから…」
純永は、不意に、おそらく奈倉ゼミのゼミ員の誰も知らないであろう、のどかが奈倉ゼミに参加している理由を聞けそうな機会が訪れたので、少し戸惑った。プライベートなことであろうから、そういうことを不必要に詮索するのは純永の主義には反していた。
しかし、前々から気になってはいたし、話の流れから言って、それを訊くのは不自然ではないと判断して、純永は質問してみた。
「奈倉ゼミに参加するようになったのはどうしてなんです?」
「ああ、それは、父が奈倉先生の友人だったんです。父は他界してしまって、私の進学と就職をどうしようか迷っていた時に、奈倉先生が私に声を掛けてくださって、奈倉ゼミで法律学を勉強することになったんです。法律学だったら、就職もしやすいだろうってことで」
「なるほど、そうだったんですね」
のどかの父親が他界している、という事情は純永に多少のショックを与えたが、それ以外の部分はそれほど驚くようなものではなく、納得の行く話だった。
「奈倉先生はああ見えて厳しくもあるお方なので、参加させて頂いている手前落第生にはなれないなって、いつも結構プレッシャ感じてたりして。あ、この話、あまり広めないでくださいね」
「はい。もちろん」
「遠野さんこの後何かご予定あります?」
「いえ、特に何も無いですが」
「だったら、立ち話も何なので、少し学食でお話しませんか?私、ゼミの中で友達が少なくて…」
「僕も同じくらい少ないですよ。分かりました。学食に行きましょう」
のどかは、純永から受け取った教科書を棚に戻して、純永と共に学食に向かい始めた。
4
「遠野さんは、出身はどちらなんですか?」
飲み物をそれぞれ買った後、席に着いて、のどかは切り出した。
「僕は福岡から来ました」
「福岡ですか。私は京都が生まれなんです。あまり住みやすいところではなくて、私は好きではありませんでした。福岡は、都市部ではあるけれど東京ほどではなくて、住みやすそうですね」
「そうですね、東京は本当に住みにくいです」
「京都には来られたことがありますか?」
「修学旅行で一度。心が洗われるところですね」
「たまに行くから良いものなんですよ。あそこに住みっぱなしだと、色褪せるものも多いです」
「確かにそうかもしれない」
純永は、のどかの話すことに話を合わせるだけで、自分から何か話題として出せることが特に浮かばなかった。しかし、一緒に居てなんだか落ち着くな、という不思議な感覚があった。サークルに居る時とはまた違う感覚だ。サークルに居れば、誰かが何かをしているし、誰かが何かを言う。自分から積極的になる必要が無い一方で、慌ただしく目まぐるしく、ある意味積極的にならざるをえない、けれども楽しい、という感じだった。
二階の学食は緑のある広場に面していた。いつもの雑踏と、いつもの緑が、壁一面が透明になっているためよく見えた。ふと、大学に来てそれなりの時間が経ったな、と思う一方で、大学にいる残りの時間も意識された。
「遠野さん、アルバイトはされていますか?」
外を見ていた純永に、のどかは尋ねた。
「いえ。僕はやっていないですね。なかなか自分に合ったものを見つけられなくて」
「そうでしたか。私はクリーニング屋の受付をやっているんです。先日、仕事をしていると、大越さんとばったり会いましたよ」
「えっ、ゼミのですか?」
「はい。店のお得意様だったみたいで」
「へぇ。家が近くなんでしょうね」
「みたいです」
クリーニング屋の受付、という仕事のことを聞いて、自分に結構向いているかもしれない、と純永は思った。
「遠野さんは、もう進路のこととか考えていますか?」
「いえ、まだ自分にはよく分からないです」
「法律学は学んでいてどうです?面白いですか?」
「はい、面白いです。面白いですが…」
「何か?」
「これは自分の感覚の話なんですが…、法律学は、遅いな、と思います」
「遅い?というと?」
「基本的に、何かが起こった後に、法律的な議論が始まりますよね。それが、なんだか、自分には納得できないところがあって」
「必ずしもそうではないでしょう。予防的に、先を見越して作られる法律も沢山あると聞きます」
「それはそうですね。ただ、僕には、至極個人的なことについて、判断する際に、そのベーシックなところで法律学的な議論、知見が役に立つことはあると思いますが、その先の、選択の部分、個人に属する部分については、あまり法律学は役に立たない気がしています」
「個人に属する部分…」
「人間は集まって、社会や国家を作り、人生を営んでいますから、周囲の人間との兼ね合いで、個人の行為が俎上に載せられることは多々あります。そこでの解決の方法とは、合理性と、公平さと、そして構成員の納得でしょう。実際、法律の成り立ちも運用も、概ねそういう基軸で行われていると思います」
「……」
「僕には、規範から漏れる人の理を拒絶することの是非に関して、どうしても自信が持てないんです」
「では、そういう人達に何をすべきだと?さらなる対話ですか?」
純永には、今目の前にいて話をしているのが、のどかではない人物のように思えた。長い瞬きをして、改めて正面を向くと、のどかの顔があった。日差しがよく当たっているからはっきり分かるのだが、やはりのどかの髪の色はぼんやりと緑色を帯びていた。
「奈倉先生だったらどう答えられるでしょう?」
「先生はきっと…、まず遠野さんをお褒めになると思います」
「僕を褒められる?」
「ええ。そして、自分にもまだよく分からない、と仰るだろうと」
「奈倉先生くらい研究をされていても、この問に対する答えは見つからないということですか?」
「そうですね、おそらく。また、こうも言われるかもしれない。その問こそが、研究者としてのスタートであると」
「法律学のその果てに、答えはあると思いますか?」
「その果てに行く経路の一つが、法律学であるということではないかしら。でも、私達の世代が見つけるわけじゃなく、後の世代が見出すものかもしれませんね。たとえそうだとしても、手を抜いて良いという話ではないですけれど」
「海さんは研究者になろうと考えたりしないのですか?」
「私は…、奨学金が取れるほど優秀ではないですし、先ほども言ったように、自分でも法律学に向いていないな、と思っています。正直、私には複雑過ぎますね」
「僕が今言ったことって、法律学的な、あるいは法学的な問題なんでしょうか?」
「うーん…、宗教的な感じもしますね。あるいは文学的な」
「ええ」
のどかの返事は、おおよそ純永が想定していたものだった。
「哲学、っていうのは私はよく分からないから何とも言えません。ところで、遠野さんは、今仰った、個人に属する部分、法律学的なベースの先の部分では、何が人を左右するとお考えになっているんですか?」
「それが…、どういう言葉や概念が適切なのか、まだ不明確なんです。徳や理性、倫理といったことかもしれないし、あとは、別に怪しい意味じゃないんですが、悟り、とかなのかなと」
「遠野さんは、それを追求することを仕事にしたいのですか?仕事というのは、生計を立てるための、という古典的な意味ではありません。もっと純粋な意味での、です」
「そうですね、そういうことに一番興味があって、そういう意味での仕事をしてみたいとは思います」
「なるほど。では、もう答えはほぼ出ているようにも思えますね」
「研究者の道ですか?」
「ええ。でもなかなか既存の学問体系にフィットしないかもしれませんから、在野の、といったものになるかもしれませんが。定職を持ちながらでも、遠野さん次第ではなんとかなるかもしれません」
「はい」
少しずつ、純永の中で何かが、辛うじて認識できるくらいの形を持ち始めていた。
「質問をしても良いですか?」
「ええ、どうぞ」
「遠野さんは、この世には取り返しのつかないことがあると思いますか?」
純永はのどかの瞳を見た。微かに揺れている。賽の瞳とはそこが違っていた。
「取り返しのつかないこと、ですか。はい、あると思います」
「そういうことがあったとき、当事者には最後まで救いが無いですか?」
「それはケース・バイ・ケースだと思います」
「どこでその違いが出てきますか?」
「それは時の運と、そして当事者の選択次第ではないでしょうか」
「世界はアンバランスだとお思いになられますか?」
「それは、確かにそうですね」
「世界のアンバランスさと時の運は同じものですか?」
「そこに僕はまだ自信が持てません」
のどかは微笑んだ。初めてのどかが微笑んでいるのを純永は見た。不思議な笑顔だ。いや、今まで見た笑顔の方がイレギュラなものであって、これは「普通の」笑顔なのかもしれない。賽のように、怖れを感じさせる要素が一切無い、女性的な笑顔だった。
「私は、両親が亡くなって、一人暮らしをしているんです」
のどかはちらりと外を眺めた。
「もう、私が生きていないといけないほど、私と関わりのある人はこの世にはいません。だから、いつでも生きていることから離れることもできる。でもそんな勇気が無いってことが一つ、それと…」
「それと?」
「生きていると、自信がついてくるものだなぁって、最近思うんです。明日のことは分からない、いえ、ほとんどは想定内に事が進むんですけれど、それでも、ほんの時々、自分が新しくなっていることが発見できる」
「……」
「だいたいいつも、同じことを考えているんですよ。同じように一日を過ごして、同じようにご飯を食べて、同じように眠りに就く。人から見たら、なんて退屈な毎日なんだろうって思われるかもしれませんが、私はこの生活が結構気に入っています」
「それは、僕もそうです。でも、もっと良い人生があったはずだって思うことはありませんか?」
「思いますよ」
「そのことで腹が立ったりしませんか?」
「腹が立ったりもしますね」
「だから…、あ…」
「ご自分で仰ったじゃありませんか。選択次第だって」
のどかはアイスココアをストローで一口飲んだ。
「我慢ではないんですね」
「その通りです」
「でもそれが何かと言われると…」
「仏教では『無為』という言葉が言われたりします。でも、普通の生活をしている人には、なかなか馴染まないものですね、極論の一つですから。それと、これは仕事には繋がらない話です。宗教でも始めない限りは」
「ですね」
「もしかしたら…言葉の成り立ちに関する学問に、何か手掛かりがあるかもしれませんね。言語学、っていうのかしら」
「言語学ですか…、その言葉以外はほとんど僕は知らないですね」
「友達が、そういう分野で大学で学んでいると言っていました。でも、理系にも半分属してくるみたいですよ。数学や、いわゆるプログラミング、情報処理にも関わってくるようですから」
「僕達はパソコンやネットワークの仕組みについて、それほど本当に精通しているわけではないですしね。AIなんて話も時々耳にします」
「どんな疑問でも、自分が納得するまで答えてくれる人工知能が生まれたら、少し面白そうではあります。きっとそんなものは実現できないんじゃないかと何となく思いますけれど。各分野の事情を知っている人に話を伺うのが一番早いでしょう」
「僕もそう思います」
のどかとは、アルバイトがあるからということで、挨拶をして、そこで別れた。




