第4話 一区の空は高い
いっさん視点です。
一区の門をくぐるとき、漣は目をつぶっていた。
首から下げた臨時入区証の紐を両手でつかんでいる。膜に鼻先が触れたとたん、肩がびくっと跳ねた。そのまま二歩、三歩。四歩目あたりでようやく片目だけ開けたので、イチは笑いそうになって、咳でごまかした。
「耳、詰まったか」
「……ちょっと」
「唾飲みゃ治る。飛行機と一緒だ」
言ってから、こいつ飛行機なんか乗ったことねぇよな、と思った。漣は素直に喉をごくんと鳴らして、両目を開けて、そのまま固まった。
まあ、そうなるわな。
一区の大通りってのは、とにかく白い。敷石も壁も街灯も、あと街路樹の幹まで、なんでか知らんが白く塗ってある。電線は全部地面の下だから、空がむやみに広い。二十三区から来ると、空のほうが落っこちてきそうに見えるらしい。イチも十六で十一区から出てきたときは、首が痛くなるまで上を見ていた。今思えば、ずいぶん田舎者丸出しだった。
においもない。どっかの菓子屋から、甘い匂いがほんのり流れてくるくらいだ。それも妙にお行儀がいい。
すれ違った上品な奥さんが、漣の足元をちらっと見て、道の端に半歩寄った。漣は気づいたのかどうか、すり減った草履のつま先を、もじもじとこすり合わせていた。
イチはなんとなく、煙草をくわえた。ライターを出しかけて、ああ一区は全域禁煙だった、と思い出してポケットに戻す。去年からだ。歩き煙草一回で罰金三千円。くだらねぇ。
「いっさん、またくわえてる」
後ろから、めろの声が飛んできた。
「火ぃつけてねぇだろ」
「つけてなくても見た目の問題です! ねえ漣くん、試験のコツ教えてあげよっか。我妻様はね、十九歳の採用試験で実技も筆記も満点で、面接官が泣いたっていう伝説があって――」
「それ、コツか?」
「心構えです!」
漣はめろとイチの顔を見比べて、困ったように眉を下げた。気の毒に。我妻さんの採用試験の話なら、イチは本人から聞いたことがある。筆記の途中で寝て、試験官に起こされたそうだ。面接官が泣いたのは事実らしいが、理由は笑いすぎだった。言ったらめろが泣くので、黙っておく。
来栖は黙って、漣の横に並んでいた。手袋の手に、紙の束を持っている。それを、何の前置きもなく漣の胸に押しつけた。
「法規の要点だ。出やすい条文だけ抜いてある」
紙の端は、定規で揃えたみたいにぴしっとしていた。表紙には几帳面な字で「入区管理規程・登録規則・採用規則(抜粋)」。目の下にうっすら隈がある。寝てねぇな、こいつ。
「来栖、お前な」
「仕事です」
イチのほうを見もしない。
「筆記で落ちたら、本庁への連行手続きが面倒になるので」
へえ、そうかい。
漣は紙の束を両手で受け取って、一枚目をめくり、二枚目をめくった。三枚目で、手が止まった。
「……あの」
「なんだ」
「これ、なんて読むんですか」
指さした先には「行使」とあった。
来栖が口を開けた。閉じた。もう一回開けた。
「……ぎょうし。使う、という意味だ」
「こっちは」
「履行」
「これは」
「全部振る。仮名を。試験まで三十分ある」
来栖は紙をひったくるように取り返して、壁際にしゃがみこんでペンを走らせ始めた。うさぱいが、横から漣の手に飴玉を三つ押しこむ。
「頭使うと糖分いるからね。がんばれ~」
「あ、ありがとう、ございます……」
イチは、くわえた煙草を上下に揺らした。
読めねぇのか。
そりゃそうだ。二十三区にまともな学校なんかない。我妻さんが字を教えたって、品書きと伝票くらいのもんだろう。それも、あの字で。ミミズが三匹で喧嘩したみたいな、あの字で。
*
筆記は、百点満点の十二点だった。
試験官の話によると、漣は名前の欄に「漣」と書いてから、四十分ずっと問題用紙を眺めていたらしい。ときどき紙を指で撫でたり、口をもごもご動かしたりしていた。最後の五分になって急に書き始めたと思ったら、来栖が仮名を振った条文を三つ、ひらがなで書き写していた。三問とも正解。それで十二点だ。
「……十二点」
来栖が結果の紙を読み上げて、しばらく眺めていた。それから丁寧に四つ折りにして、胸ポケットにしまった。何でしまうんだそれ。訊いたら怒られそうなので、訊かなかった。
*
実技は、本庁の地下でやる。
天井ばかりやたら高い、石の部屋だ。壁一面に測定用の術式がびっしり彫ってあって、真ん中に白い円が描いてある。イチは十六年前、ここで受けた。あの頃は測定器がもう一回り小さくて、照明も暗かった。それ以外は、何にも変わってない。
見学席の最前列に、九条さんが座っていた。
背筋をまっすぐにして、膝の上で指を組んでいる。最上階からめったに降りてこない人が、一受験者のために地下まで来ている。それだけで、周りの試験官たちの顔が引きつっていた。
イチは見学席の一番後ろ、壁にもたれた。めろたちは前のほうに陣取っている。めろは身を乗り出しすぎて、来栖に襟首をつかまれていた。
「受験番号四十一。結界構築。円の内側に、任意の防御結界を張りなさい」
漣はこくんと頷いて、胸の前で手を合わせた。
張った、のだと思う。
音もしないし、光りもしない。円の上の空気が、ほんの少し水を張ったみたいに揺れた気がした。それだけだ。
壁の測定器の針が、ばちんと端まで振り切れた。振り切れたまま、ぎちぎち鳴っている。硝子の蓋に、細いひびが一本入った。
試験官が二人、泡を食って測定器に飛びついた。一人が目盛りを指で弾き、もう一人が手元の帳面を必死にめくる。めくって、めくって、手が止まった。
「……測定、不能、です」
見学席がざわついた。めろの「うそでしょ」という声が、やたらはっきり聞こえた。
円の中の漣は、手を合わせたまま、ぎゅっと目をつぶっていた。あれは集中している顔じゃない。注射を待ってるガキの顔だ。怖いから、重ねる。何枚も何枚も。継ぎ目がなくなるまで。
イチは、くわえた煙草のフィルターを噛んだ。
――あの形は。
知ってる、と思いかけて、イチはやめた。今ここで考えることじゃない。
九条さんが立ち上がった。
部屋がしんとした。九条さんは誰にも何も言わずに階段を下りて、円の前まで歩いていく。試験官が慌てて道を開けた。
「結界は、もういい。解いて、構えなさい」
声は、いつもどおり穏やかだった。
「私が撃つ。防いでみせなさい」
漣の目がぱっと開いた。縁なし眼鏡の男を見上げて、それから見学席のほうへ、助けてくれって顔を向けた。めろが立ち上がりかけて、また来栖に引き戻されている。
イチは、壁から背中を離した。
まさかな。いや、あの人なら、やるか。
九条さんが右手を上げた。人差し指と中指をそろえて、空中を短く三回、払う。軽く、深く、最後に手首を返して斜め下。
それを見た瞬間、イチのうなじの毛が、ぞわっと全部立った。
知ってるも何も、ない。十六年前まで、毎日横で見てた手つきだ。そば屋になる前の、あの人の。
我妻式。
九条さんの指先から、刃みたいな光が三枚飛んだ。
漣は結界を張らなかった。右手が勝手に動いた、という感じだった。同じ指をそろえて、同じように三回払って――最後に、余計なひと回しがついた。指先を、くるっと。
あの人の癖だった。術を撃ち終わったあと、なんの意味もなく指を回す。何回訊いても、本人は「なんとなく」としか言わなかった。
そっくり同じ光が三枚、漣の指から飛んで、円の真上で九条さんのとぶつかった。音もなく、互いに食い合って、消えた。
誰も、何も言わなかった。測定器の針だけが、まだぎちぎち鳴っていた。
ぱき、と手元で音がした。見たら、煙草が指の間で二つに折れていた。いつ口から取ったのか、覚えていない。
円の中で、漣は自分の右手をまじまじと見ていた。それから急に我に返って、九条さんに向かって、腰が折れるんじゃないかって勢いで頭を下げた。
「す、すみませんっ……! つい、その、いつもの癖で……!」
九条さんは返事をしなかった。下げられた漣の後頭部を、黙って見下ろしていた。上げていた右手が、ゆっくり体の横に下りていく。
あの人のあんな顔は、イチも初めて見た。
*
「筆記、不可。実技、測定不能」
九条さんは見学席の前に戻ってきて、いつもの平らな声で言った。
「よって合否は保留とする。受験者は保護観察とし、居住は一区の指定施設に――」
「あ、あの」
漣だった。
小さい声のくせに、ちゃんと九条さんの言葉を遮っていた。めろが目を丸くしている。来栖まで、ちょっと口が開いていた。
「店、が……」
漣は臨時入区証の紐を、両手で握りしめていた。指の関節が白い。
「閉めたら、だめなんです。任せるって、言われて、るので」
九条さんが漣を見た。漣は目を逸らさなかった。たぶん、逸らし方がわからなくなっていただけだ。膝が、遠目にもわかるくらい笑っていた。
しょうがねぇな。
イチは見学席の階段を、わざとのんびり下りていった。円の前まで行って、漣の頭に手を置く。手のひらの下で、ガキの頭がびくんと跳ねた。
「九条さん。こいつ、うちで預かりますわ」
眼鏡がこっちを向いた。
「チームアガレスで保護観察。住むとこは二十三区の店のまま。チームの出張業務の拠点ってことにしときゃ、規則にも引っかからんでしょ」
九条さんはしばらく黙っていた。眼鏡の縁を、指で押し上げる。
「市井」
「はいはい」
「お前がまた、我妻の子を預かるのか」
イチは、へらっと笑った。
「人聞き悪いなあ。今回が初めてですよ」
九条さんは何も言わなかった。イチも、それ以上は言わなかった。漣の頭を、わしわしと乱暴に撫でておく。思ったより髪の柔らかいガキだった。
ポケットの中で、折れた煙草が、かさかさ鳴っていた。




