第2話 火の始末
漣視点です。
猫に化けるのは、三番目に得意だ。
一番は結界で、二番は茹で釜の火加減。三番目が、猫。……自分で言ってて、ちょっと情けない。
格子戸の下には、指二本ぶんの隙間がある。猫ならちょうど抜けられる幅だ。二十三区には野良猫なんていくらでもいるし、一匹増えたって誰も数えない。たぶん。
背中のほうで、丼の転がる音がした。
「待て!」
すーくん、と呼ばれてた人の声だ。
振り返らなかった。振り返ったら足が止まる。止まったら、もう二度と動けない気がした。
猫の目の高さだと、路地の石畳がでこぼこの山みたいに見える。水たまりを跳び越えて、魚屋の裏に積んである発泡スチロールの隙間を抜ける。生臭いのと、溶けた氷のにおいが、鼻の奥をがつんと殴ってきた。魚屋の源さんちの裏は、いつもこうだ。
四つ角を右。銭湯の煙突の陰。そこから八百屋の縁台の下へ。
「あら」
縁台に座ってたハツさんが、膝の上の大根から顔を上げた。しわしわの目が、まっすぐこっちを見下ろす。
「漣ちゃん、また猫になって。お店はいいの」
しっぽの毛が、ぶわっと逆立った。
ハツさんは昔から、猫になった漣を見分ける。前にどうしてわかるのか訊いたら、「歩き方が我妻さんそっくりなんだもの」と笑われた。猫の歩き方に、そっくりも何もないと思う。
返事なんてしてる場合じゃない。縁台の下から飛び出して、乾物屋と床屋のあいだの、人ひとり通れない隙間に潜りこんだ。突き当たりに、雨水を流す古い排水管が口を開けている。
中は暗くて、じめじめしていた。錆の味が、空気にまで溶けてる。
丸くなった。
どくん、と胸が鳴った。どくん、どくん、どくん。
静かにしろ、と思えば思うほど、心臓は胸の内っかわを蹴っ飛ばしてくる。肋骨の隙間から音が漏れて、排水管の中でわんわん響いてる気がした。気がするだけ。たぶん。
大丈夫。ここは誰も来ない。我妻さんだって知らない場所だ。
「見ーつけた」
頭の上から、声が降ってきた。
排水管の入口を、長い耳が二本、のぞきこんでいた。灰色の髪の先から、さっき店でそばをすすってた顔が、さかさまにぶら下がっている。
「きみ、心臓の音おっきいねえ。路地三本向こうまで聞こえてたよ」
うさぱい、と呼ばれてた人だった。
漣の喉から、猫とは思えない、ひっくり返った声が出た。
考えるより先に、体が反対側の出口に跳ねる。管の向こうの明るいところへ飛びこむ瞬間、骨の形を組み替えた。肩甲骨が開く。腕が伸びて、指の一本一本が羽になる。
鴉になって、空へ転がり出た。
下を屋根が流れていく。トタン屋根、物干し台、錆びた給水塔。二十三区の空は低くて、電線が網みたいに張ってある。その隙間を縫って飛ぶのは、目をつぶってたってできる。我妻さんがいなくなってから、何回もやった。我妻さんを探して。
後ろで、軽い音がした。
とん。とん、とん。
屋根から屋根へ、跳んでる。振り返ると、うさぱいの黒い制服の裾が、大きな袖ごと風をはらんでいた。丸いしっぽが、跳ぶたびにぽんぽん揺れる。
笑ってた。めちゃくちゃ楽しそうに。
「速い速い! 鴉もじょうずじゃん!」
褒められても困る。
右に切った。右の屋根に、先回りして影が降りる。左に逃げる。左の物干し台に、もう耳が見えてる。上。下。また右。
三回目で、やっとわかった。追いつかれてないんじゃない。追いつく気がないんだ。
逃げる方向を、選ばされてる。
翼の付け根が、すうっと冷たくなった。
そのとき、遠くで鐘が鳴った。区の時報。夕方五時。豆腐屋の和田さんが店を閉める時間。我妻さんが、蕎麦湯の鍋を火から下ろしてた時間。
――鍋。
羽ばたくのを忘れた。体がすとんと落ちて、慌てて翼を打って持ち直す。そのあいだに、頭の中がどんどん白くなっていった。
かけそばを出した。茹で釜の火、つけっぱなし。蕎麦湯の鍋も、出汁の寸胴も。猫になるとき、なんにも消してない。
『店出るときはな、火だけ見ろ』
頭の中で、我妻さんの声がした。カウンターに肘ついて、爪楊枝くわえて、すっごくどうでもよさそうに言ってた。
『あとのことはまあ、どうにでもなる。火だけは、どうにもならねぇからな』
捕まったら、店はどうなるんだろう。考えるだけで、羽の先まで冷たくなる。
でも。店が燃えるほうが、ずっといやだった。
旋回した。うさぱいのいるほうへ。来た道を、まっすぐ。
後ろの足音が止まった気がした。確かめる余裕は、なかった。
*
我妻屋の暖簾は、相変わらず風の中でじっと垂れていた。
漣の結界は、漣だけは素通りさせる。格子戸の隙間をくぐって、厨房に転がりこんで、人の形に戻った。膝が床にがつんと当たる。痛いと思うより先に、コンロに這い寄った。
火が、消えていた。
茹で釜も、蕎麦湯の鍋も、寸胴も。つまみは全部、きっちり「止」に揃えてある。元栓まで閉まってた。
「火なら、消しといたよ」
カウンターのいちばん端っこで、うさぱいが足をぶらぶらさせていた。いつ戻ってきたのか、ぜんぜんわからない。湯呑みで、勝手に注いだらしい蕎麦湯をすすっている。
「出る前にね。だってきみ、逃げる直前まで、ずーっと鍋のほう見てたもん」
床にへたりこんだまま、動けなかった。
最初から、全部ばれてたんだ。この人は、漣が戻ってくるのを待ってた。
「……ありがとう、ございます」
やっとそれだけ言った。言ってから、ここってお礼言うとこなのかな、と思った。たぶん違う。
カウンターの手前に、すーくんが立っていた。黒い手袋をはめ直している。めろって人は小上がりの縁に腰かけて、赤くなったおでこを押さえながら、こっちをじっとり睨んでいた。……ごめんなさい。たぶんあれ、俺の結界のせいだ。
「無登録魔法の使用。および、公務執行中の逃走」
すーくんが、漣の前にしゃがんだ。指先で、空中に小さな丸を描く。手首に、ひやっとした輪がはまった。目には見えない。でも手首から先の魔力が、栓をされたみたいに動かなくなった。
「連行する」
何か言わなきゃ、と思った。思ったけど、言葉が喉のどこかで丸まって、出てこなかった。
目だけが、店の奥へ流れた。
レジの横の柱に、紙が一枚、画鋲で留めてある。黄ばんだ広告の裏に、太いマジックの、のたくった字。
店を任せる。
その紙の前に、いっさんって人が立っていた。
いつのまにか、煙草を指に挟んでいる。火はついてない。もう片方の手の親指が、紙の上の字を、ゆっくりなぞっていた。端から端まで。それから、また端から。
「……相変わらず、字ぃ汚ぇなあ」
ほとんど息みたいな声だった。
なぞっていた親指が、「任」の字の上で止まった。止まったまま、しばらく動かなかった。




