第3話 行き止まりの条文
スズメ視点です。
端末の画面に、同じ文字列が出た。四回目である。
――対象者の入区許可が確認できません。申請を受理できません。
来栖スズメは、黒手袋の指を画面から離した。
二十二区と二十三区の境にある門番の詰所は、畳にして四枚ほどの広さしかない。壁際の電気ポットがさっきからしゅんしゅんいっていて、門番の老人は、来客用の湯呑みが三つしかないことをしきりに気にしている。戸棚を開けて、閉めて、また開ける。五人いるので、二つ足りない計算になる。
「すーくん、まだ?」
戸口から、めろが顔を突き出した。額のまんなかがまだ赤い。
「まだだ」
「さっきもまだって言った」
「さっきもまだだったからな」
めろは唇をとがらせて引っこんだ。
スズメは、最初から入力し直した。
対象者氏名、漣。区分、無登録魔法使用被疑者。移送先、一区魔法省本庁舎・取調課。経路、二十三区から一区まで直行。
――対象者の入区許可が確認できません。
五回目だった。入力に誤りはない。少なくとも、スズメが見る限りは。
部屋のまんなかに、パイプ椅子がひとつ置いてある。そこに漣が座っていた。
座っているというより、置かれている、と言ったほうが近い。膝をそろえ、肩をすくめ、両手を太ももの上で握りあわせている。手首にはスズメのかけた拘束の輪。目には見えないそれを、漣はときどき親指でそっと撫でていた。痛むのかと思ったが、そうではないらしい。まだそこにあるか、確かめているだけのように見えた。
口の中で、ころん、と音がした。詰所に入るなり、うさぱいが袖から出して押しつけた飴玉だ。漣は断るすきもなく受け取っていた。
いっさん――市井さんは、外にいる。窓の向こうで門柱にもたれ、こちらに背を向けていた。くわえた煙草には、店を出てから一度も火がついていない。
移送の手続きは、いったん後回しにする。取り調べのほうは、場所を選ばない。取調規程第七条にも、そう書いてある。
「質問に答えてくれ」
「……はい」
声が、飴玉の向こうで小さく転がった。
「氏名」
「漣、です」
「姓は」
「……ない、です」
姓の欄は、空欄だと次の画面に進めない。システムの仕様である。少し考えて、「なし」と打ちこんだ。画面は赤くなったが、進んだ。
「生年月日」
「わかんない、です」
「……わからない?」
「拾われた、ので」
漣は飴を、頬の反対側に移した。
「たぶん、十五、です」
生年月日の欄も、空欄は許されていない。数秒迷って、「不明(自己申告十五歳)」と打った。画面はまた赤くなった。この端末は、わからないことを書きこまれるのが嫌いらしい。
「保護者」
漣の肩が、ほんの少し上がった。目が床から窓のほうへ、門柱にもたれた背中のほうへ一瞬だけ動いて、また床に戻る。
「……店の、おやじ」
「名前は」
「我妻……大二郎」
戸口の外で、ごとん、と何かが落ちた。めろが湯呑みを取り落として、それが土間をころころ転がっていく音だった。湯呑みは、これで残り二つになったかもしれない。
窓の外の背中は、振り向かなかった。
スズメは、聞こえなかったことにした。今はそれを書く欄ではない。保護者欄に名前を打ちこむ指が、いつもより少しだけ重かった。
「本題に入る」
手袋の指を組む。
「魔法使用者登録規則第四条。魔法の行使が可能な者は、能力の発現を確認した日から三十日以内に、所定の窓口において登録を行わなければならない。君は、それを怠った」
漣はぽかんとスズメを見上げた。叱られているのはわかるが、何を叱られているのかがわからない。そういう顔だった。
「あの」
「なんだ」
「とうろく、って」
かちり、と飴玉が歯に当たった。
「どこで、するんですか」
一瞬、質問の意味がつかめなかった。
「一区だ。本庁舎の二階、登録課」
「……一区」
漣は自分の膝に目を落とした。握りあわせた指に、ぎゅっと力がこもる。
「俺、一区って、行ったことないです。二十三区の人は、上に行くのに、許可がいるって。ハツさんが」
「入区許可なら、区の出張所で申請すれば――」
そこまで言って、スズメは口を閉じた。
入区管理規程、第十二条。
十六で魔法省に入った年、規則集を三千四百十二条、全部頭に入れた。誰に言われたわけでもない。全部覚えておけば、間違えずに済むと思ったからだ。同期には変人扱いされたし、めろには未だに「歩く条文」と呼ばれている。
その十二条が、頭の中で勝手に読み上げられ始めた。
――上位区への入区許可は、次の各号のいずれかに該当する者に対し、これを与える。一、当該区またはそれより上位の区に住所を有する者。二、魔法使用者登録証を有する者。三、前二号に掲げる者の同伴を受ける者。
一号、該当しない。漣は二十三区の住人だ。
二号、該当しない。登録証がないから、今こうして座っている。
三号は。
三号は――同伴者になれるのは、一号か二号に当たる者だけだ。二十三区の、登録証を持たない人間の知り合いの中に、そんな者はいない。いるはずがない。
二十三区で生まれて、二十三区で魔法を覚えた人間は、一区の窓口までたどり着けない。窓口に行けなければ、登録証はもらえない。登録証がなければ、一区には入れない。
ぐるっと回って、元の場所に戻ってくる。
スズメは端末を持ち上げて、規則集の検索画面を開いた。「入区」「特例」「二十三区」「経過措置」。思いつく言葉を片っぱしから打ちこむ。画面をなぞる指が、どんどん速くなる。手袋の中が、じっとり湿ってきた。
ない。
三千四百十二条のどこにも、この少年が登録できる道は書いていなかった。
さっきの五回のエラーの意味も、ようやくわかった。入力の誤りではなかったのだ。この少年は一区の窓口に行けないばかりか、一区の取調室にすら連れていけない。
「……すーくん?」
いつの間にか、うさぱいが戸口に立っていた。長い耳が、こちらへ向いて傾いている。この人には、たぶん今の自分の心臓の音も聞こえている。
端末を膝に置こうとして、手が滑った。端末は床に落ちて、かつん、と乾いた音を立てた。
漣がびくっと肩を跳ねさせて、がりっと飴を噛み割った。
規則は、すべての人のためにある。そう思って覚えた三千四百十二条だった。この少年のぶんだけ、最初から一行も書かれていなかった。
「附則の、二だな」
うさぱいの肩越しに、低い声がした。
市井さんが入ってきた。火のついていない煙草を、指先でくるくる回している。
「魔法省職員採用規則、附則第二項。採用試験の受験者には、試験当日に限り、一区への臨時入区を認める」
知っている条文だった。知っていたのに、今の今まで、この行き止まりとつながらなかった。三千四百十二条を覚えておいて、これだ。
「試験、受けさせりゃいい」
「……被疑者ですよ」
「だから受けさせるんだよ」
市井さんは漣の前にしゃがみこんで、目の高さを合わせた。漣は椅子の上で、背もたれにめりこみそうなくらい体を引いた。
「落ちたら、その足で本庁に連行できる。規則どおりにな」
「受かったら?」
「そんときゃ、そんときだ」
市井さんがそう言ったのとほぼ同時に、詰所の戸が外から開いた。
冷たい風が、畳四枚ぶんの部屋を吹き抜けた。電気ポットの湯気が横に倒れる。戸棚の前の門番が、湯呑みを抱えたまま、背筋を棒みたいに伸ばした。
スズメは立ち上がるより先に、踵をそろえていた。体が勝手に覚えている。
戸口に立っていたのは、銀灰色の髪をきっちり撫でつけた男だった。縁なし眼鏡の奥の細い目が、狭い部屋をいちど見渡す。黒い制服の胸元に並ぶ銀の留め金は、スズメたちのものより二つ多い。
九条審議官。
本庁舎の最上階から、ほとんど下りてこない人だ。少なくともスズメは、一区の外でこの人を見たことがない。
「市井」
市井さんは、しゃがんだまま振り返らなかった。
「報告にあった屋号は、確かか」
「看板見りゃわかりますよ」
九条審議官は、それ以上は訊かなかった。視線が、パイプ椅子の上の少年に移る。
漣は、もう下がれる場所がなかった。背もたれに背中を押しつけたまま、九条審議官を見上げている。握りあわせた両手が、膝の上で小刻みに揺れていた。
九条審議官は、長いこと黙って漣を見ていた。
「名前は」
「……れ、漣、です」
審議官の唇が、音を立てずにその一文字をなぞった。
「来栖」
「はっ」
「この子供に関する書類は、すべて私に回しなさい」
眼鏡の縁に、指が触れる。
「試験には、私が立ち会う」
「承知しました」と答えた。声はいつもどおりに出た、と思う。
ただ、そのとき眼鏡の奥にあった目の色だけは、どうにも読めなかった。三年間、本庁舎で毎日見てきた顔なのに、一度も見たことのない色だった。端末に打ちこむ欄があったとしても、スズメには何と書けばいいのかわからない。




