第1話 最下層のそば屋
この世界には、ごく一部の人間が魔法を使うことができる。
そして、その魔法は一般的に知られ、法律で管理されている。
魔法を制限された中でも幸福に使うものがいれば、その正反対、自由に魔法を使い、人の不幸で喜ぶ奴らも存在する。
そう、この世界は、「ワールドアウト」は、その魔法を管理する魔法使いたちが日々戦うことで成り立っている世界なのだ。
二十二区と二十三区のあいだの結界は、ぺらっぺらだった。
唯奈めろは門の前で立ち止まって、指先をかざしてみた。ちりっとする。……え、それだけ? 一区の結界なら、この距離でもう耳がきーんとなるのに。ここのは雨に濡れた障子紙みたいに、ぶよぶよたわんでいる。結界担当としては、ちょっと見ていられない。
「これ、最後に張り替えたのいつ?」
「予算の順番があるんだろ」
来栖スズメ――めろは「すーくん」と呼んでいる。本人は毎回いやそうな顔をするけど、知ったことではない――は振り返りもしないで、門番に通行証を差し出した。
黒い手袋から通行証を受け取った門番のおじいさんは、それを裏返して、表に戻して、もう一回裏返した。黒地に銀の留め金の、魔法省の制服。たぶん生まれて初めて見たんだと思う。たっぷり時間をかけてから、あごで奥をしゃくった。
門をくぐると、においが変わった。
川の泥っぽいにおいと、生乾きの洗濯物のにおい。見上げると、電線と物干し竿が網みたいに頭の上を渡っていて、空が細切れになっている。軒先にしゃがんだ子どもが三人、めろの編み上げブーツをじーっと見ていた。顔じゃなくて、靴を。
なんとなく落ち着かなくて、めろはスカートの裾を押さえた。
「……で、討伐対象があれだったわけですけど」
口をとがらせて振り返る。さっき片づけた魔獣は、野良猫に毛が生えたくらいのやつだった。いや、猫にはもともと毛が生えてるんだけど。とにかくそのくらい。すーくんの雷撃一発でおしまい。結界担当のめろは、出番どころか手袋を外すひまもなかった。
「せっかくの遠征なのに。二十三区で、しかも雑魚って」
「最下層の区なんてめったに来られないんだし、レアだよ?」
うさぱいが、灰色の髪から垂れた長い耳をぴょこぴょこさせた。たっぷりした袖ごと、めろの肩にぽんと手を置く。
「まあ、めろちゃんにはちょっと早かったかもね~」
「早くないです! むしろ遅いくらいです!」
「めろ。仕事だろ」
すーくんの声は、低くて平べったい。立てた襟にあごを半分埋めたまま、こっちを見る。黒い前髪に一筋だけ白いのが混じっていて、その下の灰色の目は、怒ってるのか呆れてるのか、三年見てても区別がつかない。
「うさぱいさんも、変なフォローしないでください」
「べー、だ」
めろは舌を出して、腰に手を当てた。
「うさぱいは優しさでできてるんですー。意地悪すーくんとは原材料が違うの」
「原材料ってなんだよ」
いっさんは一人だけ、ちょっと後ろをだらだら歩いていた。くわえた煙草から、薄紫の煙がひょろひょろ流れている。無精ひげのあごを上げて、錆びた区境の標識を眺めていた。鉄板に白いペンキで、「23」とだけ書いてある。
「一から二十三まで番号振って、何が楽しいんだかなあ」
煙と一緒にぼやいて、それから、思い出したみたいに付け足した。
「そういや、我妻さんもこのへんの出だって話、昔ちらっと聞いたな」
めろの足が止まった。
我妻大二郎。魔法省史上最高の術者。我妻式術式の開発者。三十六歳で忽然と姿を消した、生ける伝説。めろが魔法省に入った理由の、だいたい八割。
「…………は?」
「ん?」
「いっさん、今なんて? 我妻様が? 二十三区? え、それどこ情報ですか、一次資料ありますか、誰から聞いたんですか、いつ、何年何月何日何時何分――」
「まあまあまあ」
いっさんは煙草を指に挟んだまま、両手をひらひらさせて、めろの詰め寄りを受け流した。
「飯でも食いながら話そうや」
「って言っても、ごはん屋さんなんてあるかなあ。二十三区だよ?」
うさぱいがきょろきょろ首を回す。めろは鼻にしわを寄せた。
「あっても、ぜったいまずいですよ」
「仕事で来てるんだ。飯に期待するな」
「すーくんってほんとロマンが足りないよね。脳みその容量、ぜんぶ規則集で埋まってるでしょ」
「埋まってない」
「ちょっとは埋まってるんだ」
「…………」
黙った。勝った。
「おっ」
いっさんが路地の先を指さした。
「とか言ってたら、そば屋があるぞ」
「おそば!」
声が勝手にひっくり返った。我妻様の件は、いったん胃袋の後ろに並んでもらう。
路地の突き当たりに、間口の狭い店がぽつんとあった。格子戸は日に焼けて飴色。藍染めの暖簾は端っこがほつれていて、白く抜いた文字も、かすれてかろうじて読めるくらいだ。
「どれどれ~」
うさぱいが、紫がかった目を細くした。
「あ、『我妻屋』だって」
一拍、全員が黙った。
「……噂をすれば、ってやつだね」
「我妻様をおそば屋さん扱いしないでください!」
「いや、屋号がそうってだけでしょう」
すーくんがため息をつく。
「そんなに怒らないでくださいよ」
「怒ってない! 抗議してるの!」
めろはずかずか暖簾に向かって歩き出した。我妻様のお名前を勝手に看板にするなんて、と頭の中で文句を三つくらい組み立てる。それが五歩目で、全部どこかに飛んでいった。
風が、ない。
路地にはさっきから、川べりの湿った風が吹きこんでいる。洗濯物はぱたぱた揺れているし、いっさんの煙も横に流れている。なのに店の前だけ、暖簾がぴくりともしない。足元の砂ぼこりが、見えない線のところで、定規を当てたみたいにすぱっと途切れていた。
めろは手袋を外して、素手を前に伸ばした。
ぶわっ、と指先から肘まで、鳥肌が駆けのぼった。
うすい。息を吹きかけたら消えそうなくらい、うすい膜だ。なのに、何枚も重なってる。一、二、三……え、待って、何枚あるのこれ。七、八、……途中でわからなくなった。継ぎ目がどこにもない。編み目が細かすぎて、どこから張り始めたのかも読めない。こんなの、教本にも載ってない。
本庁舎の結界より、上だ。たぶん。いや、たぶんじゃない。
「……うさぱい」
自分の声が、ちょっとかすれていた。
「このへんの登録結界、照会して」
「ん、ちょっと待ってね」
うさぱいが袖口から端末を引っぱり出して、耳をぺたんと伏せた。画面をなぞっていた指が、途中で止まる。制服の裾から出ている丸いしっぽも、ぴたっと動かなくなった。
「……ないね。この住所、魔法使用の登録、ゼロ」
すーくんの手が、腰のホルダーに伸びる。いっさんは煙草を携帯灰皿にねじこんで、何も言わずに暖簾の文字をじっと見ていた。
登録なしの結界。二十三区。我妻様の名前のお店。
どう考えても怪しい。結界担当として、確かめないわけにはいかない。
……っていうのは半分くらい建前で、残りの半分は、ふつうに悔しかった。こんなの、めろには張れない。
「結界装填」
胸の前で両手を合わせる。手のひらのあいだに、小さな結界をぎゅうっと押しこめていく。水晶のかけらみたいに硬く、角を立てて。結界には結界をぶつけるのがいちばん早い。こっちの編み目を相手の編み目に噛ませて、内側からほどく。新人研修で、教官にたった一回だけ褒められた技だ。
「おい、めろ」
「すーくんは黙ってて」
狙いは暖簾のど真ん中。
「――飛弾!」
撃った結界弾は、店の膜に触れたとたん、ぴたっと止まった。
ほどけない。噛まない。それどころか、めろの編み目のほうが、相手の編み目に吸いこまれるみたいに、おとなしく整列していく。几帳面に、行儀よく。
え、ちょっと、待っ――
跳ね返ってきた。
おでこにごつん。お尻からべしゃっ。黒いタイツの膝に、二十三区の砂がざらっとくっついた。
路地がしーんとなった。どこかで鴉が、かあ、と一声鳴いた。最悪のタイミングだと思う。
「……めろちゃん、大丈夫?」
「だいじょうぶじゃない」
お尻が痛い。でもそれより、顔が熱い。
格子戸が、指一本ぶんだけ、すうっと開いた。
隙間から、目がひとつ覗いた。路地に並んだ黒い制服を、端から一個ずつ数えている。四つ目まで数えたところで、戸がすっと閉まりかけた。
「ちょ、ちょっと待って!」
めろが手を伸ばすと、戸は閉まる寸前で止まった。迷うような間があってから、さっきよりちょっとだけ広く開く。
出てきたのは、男の子だった。十四か、十五か。紺の前掛けに、頭に手ぬぐい。手には菜箸を握りしめている。握りしめすぎて、菜箸の先がかたかた鳴っていた。
男の子は地べたのめろを見て、それから自分の足元に目を落とした。
「……あの」
ほとんど聞き取れないくらいの声だった。
「うち、その……壁当ては、ちょっと……」
「か、壁当て……っ」
「あっ、いえ、すみません、あの」
男の子は菜箸を胸の前で持ち直した。目が、四人の靴のあたりをうろうろ泳いでいる。
「……お、お客さん、ですか」
すーくんが何か言いかけた。その肩を、いっさんがぽんと叩いた。
「腹は減ってる」
「……ちょうど、茹でたとこ、なんで」
男の子は、体を半分だけ店の中に引っこめた。
「のびる前に、どうぞ」
*
店の中は、外から見るよりもっと狭かった。カウンターが六席と、小上がりがひとつ。壁の品書きは四枚だけで、そのうち一枚は「本日休み」と書いたまま裏返しになっている。直さないんだ、それ。
出てきたのは、かけそばだった。
男の子は丼を、めろの目の前まで持ってこなかった。カウンターの真ん中あたりにことっと置いて、さっと手を引っこめる。めろは身を乗り出して、自分のほうへ丼を引き寄せた。
湯気に、かつおとお醤油のにおいが混じっている。割り箸を割るのに失敗して、片っぽだけやたら太くなった。かまわず突っこんで、すする。
あ、と思った。
出汁が、喉のずっと奥まで落ちていく。二口目。三口目。四口目の途中で、自分がひとことも喋ってないことに気がついた。横を見たら、すーくんも手袋を外して、無言で丼を傾けていた。すーくんがごはん中に黙ってるのは、べつに珍しくもないけど。
カウンターの向こうで、男の子は洗い物をしていた。ずっとこっちに背中を向けている。同じ丼を、もう三回は洗っていた。
……この子が? 表の、あれを?
ないない。だって、さっきから菜箸かたかた言わせてたし。
「……ねえ、これ」
汁に浮いた緑を、箸でつまみ上げる。
「パセリじゃないよね」
男の子の手が止まった。くるっと振り返る。
「そばにパセリは乗ってねぇ、三つ葉だよ」
はっきりした声だった。さっきまでのほとんど聞こえない声と、同じ喉から出たとは思えない。
めろがぱちぱち瞬きすると、男の子の顔から、さーっと血の気が引いていった。
「……です」
小さく付け足して、また流しのほうを向く。耳の先が真っ赤だった。
「……ならいい」
めろは三つ葉を口に入れた。隣でうさぱいが、袖で口元を隠して肩を震わせていた。笑いすぎ。
いっさんは一口すすったきり、箸を置いていた。男の子の手元を見ている。菜箸を握る指とか、ざるを振る手首の返しとか。
「坊主」
「……漣、です」
「漣。この店、ひとりで回してんのか」
「……今は」
「前は?」
「前は、店主が、いました」
漣、という男の子は、ざるを流しにふせた。それ以上は何も言わなかった。
めろは丼を置いた。最後の一滴まで飲み干してしまったのが、ちょっと悔しい。おでこには、まだ自分の結界にぶつかった感触が残っている。
「ねえ」
「は、はい」
「表の結界。あれ、誰が張ったの」
漣はきょとんとした顔で振り返った。何を訊かれたのか、本気でわかってない顔だった。
「……お、俺、ですけど」
ことん、とすーくんが丼をカウンターに置いた。漣の肩がびくっと跳ねた。
「登録番号は」
「とうろく……?」
「魔法使用者登録。魔法省の」
すーくんの右手が、腰のホルダーの留め金に触れた。
「まさか、無登録か」
漣の目が、すーくんの手元に吸い寄せられた。それから戸口へ。めろの顔へ。また戸口へ。前掛けの端を握った指が、白くなっていく。
漣は、引きつった顔で笑った。
「お、おかわり、いりますか」
目の前で、男の子の輪郭が、陽炎みたいにぐにゃっと揺れた。




