第5話 耳のいい先輩
うさぱい視点です。
宇佐田灰の朝は、エレベーターの音で始まる。
本庁舎のエレベーターは六基あって、三号機だけ、扉が閉まる直前にちょっと引っかかる。きゅ、こん。四階のどこかで誰かがヒールを鳴らしている。地下の測定室では、魔力計がぶうんと低くうなっている。食堂の厨房からは、卵を割る音。今日のプリンは、たぶん二十個くらい。
そういう音の洪水の、いちばん下のほうに、それが混じった。
とっ、とっ、とっ、とっ。
ちっちゃい動物みたいな、速い心臓の音。ロビーのほう。正面玄関の回転扉の前で、行ったり来たりしている。
あ、来た。
うさぱいは書類を置いて、地下二階のアガレスの部屋から、階段を一段飛ばしで駆け上がった。
*
漣は、回転扉の前で三周目に入るところだった。
「おはよー。それ、押せば回るよ」
「……お、おはよう、ございます」
ぺこっと頭を下げる。紺の前掛けじゃなくて、真新しい黒い制服を着ていた。銀の留め金が、上から下まで一個ずれて留まっている。
「あと、ボタンずれてる」
「えっ」
漣は自分の胸元を見下ろして、耳まで赤くなった。直すのを手伝ってやりながら、首から下げた登録証が目に入った。
魔法使用者登録証。保護観察中。所属、チームアガレス。
それと写真。
「……これ、すごい顔してるね」
「撮られるの、はじめてで」
写真の中の漣は、目をまんまるに見開いて、口を真一文字に結んでいた。犯人の顔写真って、たぶんこういう感じだと思う。
うさぱいは吹き出しそうになって、我慢した。ちょっとだけ、我慢しきれなかった。
*
チームアガレスの部屋は、地下二階の、備品倉庫の隣にある。
序列は、百チーム中の三位。三位のチームの部屋が倉庫の隣にあるのは、本庁七不思議のひとつだと思う。窓はないし、天井の換気口からは、ときどき防虫剤のにおいが降ってくる。
上の階の人たちに言わせると、三位止まりなのは「いっさんのせい」で、倉庫の隣なのも「いっさんのせい」らしい。いっさんが、他のチームが嫌がる下の区の仕事ばっかり拾ってくるから。下の区の事件は、どれだけ片づけても、査定の点がろくにつかない。誰も口には出さないけど、みんな知っている。
うさぱいは、この部屋がわりと好きだ。上の階より、音が少ないので。
扉を開けたとたん、めろが飛んできた。
「漣くん! 待ってた! はい座って!」
「は、はい」
「我妻様の好きな食べ物は!」
「えっ」
「起きる時間は! 利き手は! 寝るとき右向き? 左向き? 仰向け? あと字は――字はいい、字はこないだ見たから、あれは見なかったことにするから」
「め、めろさん」
「さん付けしなくていい! めろでいい! で、好きな食べ物は!」
「……ちくわ、です」
めろが固まった。
「……ちくわ」
「ちくわ。あの、天ぷらにしたやつ。毎日、自分のそばに乗せてて」
めろはしばらく何かを噛みしめるような顔をしていた。それから、机の上の手帳を開いて、「我妻様 ちくわ(天ぷら)」と、ものすごく丁寧な字で書きこんだ。
その向かいの机で、来栖くんが分厚い紙の束をどさっと置いた。
「職員規則だ。全部で二百十三ページある」
「にひゃく……」
「仮名は、全部振っておいた」
漣が一枚めくると、本当に全部の漢字の上に、小さな字でびっしり読み仮名が振ってあった。「の」とか「は」以外、ほぼ全部。
来栖くんの目の下の隈が、こないだより一段濃い。
うさぱいは何も言わなかった。言ったら、来栖くんは「仕事です」って言うに決まってる。
部屋の奥のソファでは、いっさんが新聞を顔に乗せて寝ていた。いびきが、一定のリズムで新聞を持ち上げては下ろしている。序列三位のチームのリーダーの、初日の仕事としては、まあ、いつもどおりだ。
*
「じゃ、本庁舎案内ツアー、出発しまーす」
漣を連れて、上の階を回った。
階段の場所。医務室。資料室。資料室の司書さんは耳が遠いから、大きい声で話すこと。でも大きい声を出すと隣の会議室から怒られるので、筆談がおすすめ。
最後に食堂。ここが一番大事だ。
「プリンはね、十一時半にできて、十二時十分には売り切れる。二百八十円。カラメルが苦くないのが最高なんだよ」
「……苦いの、だめなんですか」
「だめ。人生、甘いほうがいいもん」
漣が、ちょっとだけ笑った。口の端がほんの少し上がっただけの、笑ったかどうかも怪しい顔。でも心臓の音が、半拍ぶんだけゆるんだ。
まだ十時半だったので、二人でお茶だけ飲んだ。
隣のテーブルで、二区出向組の事務官が二人、書類を広げていた。声はひそめている。ひそめたって、うさぱいには全部聞こえる。
「――ほら、あれ。二十三区の子でしょ。昨日の」
「アガレスで預かるんだって。審議官の気まぐれ?」
「下の区ばっかり回ってて三位って、どんな手使ってんだか。ま、あそこならちょうどいいんじゃない。半獣もいるし。下のほうの子同士で」
ああ、またか。
うさぱいは湯呑みを置いて、隣のテーブルのほうにくるっと顔を向けた。にこっと笑って、ひらひら手を振る。
「そうでーす。アガレスでーす。よろしくお願いしまーす」
事務官二人は、ぎょっとした顔で書類をかき集めて、そそくさと立っていった。
はい、おしまい。
慣れてる。本庁に来て六年、だいたい月に二回はある。耳の付け根がちょっと熱くなるのも、いつものことだ。笑って手を振っておけば、向こうが勝手にいなくなる。これがいちばん早い。
湯呑みに口をつけようとして、うさぱいは手を止めた。
漣の心臓の音が、変わっていた。
さっきまでの、小動物みたいな速いやつじゃない。速さはそれほどでもなくて、一回一回が、低い。重い。どん、と胸の底を踏みつけるような打ち方だった。
漣は、何もしていなかった。湯呑みを両手で包んで、うつむいているだけだ。肩もすくめたまま。顔だって、いつもの困ったような顔だった。
心臓だけが、ぜんぜん違うことを言っていた。
へえ。
この子の心臓は、怖いときのほかにも、速くなるときがあるらしい。
うさぱいはお茶を一口飲んだ。少しぬるくなっていた。今のことは、頭の中の、誰にも見せない帳面にそっと書いておいた。
*
夕方、部屋に戻ると、来栖くんが初日の業務報告書の用紙を漣の前に置いた。
「今日やったことを書け。書式はこれだ」
「……やったこと」
「本庁舎の見学。規則の受領。それでいい」
漣は鉛筆を握って、用紙に向かった。一文字書くたびに、来栖くんの規則集の仮名と見比べている。一行書くのに、三分くらいかかった。
めろは途中で飽きて、我妻様ちくわ情報を清書し始めた。いっさんは、いつのまにか起きて、新聞の向こうからこっちを見ていた。
四十分かかって、漣は鉛筆を置いた。
うさぱいは、後ろからそっと覗きこんだ。
ほんちょうしゃを、けんがくしました。きそくを、もらいました。プリンは二百八十円です。
その下に、一行空けて、もう一行。
二十三くに、とうろくのまどぐちを、つくってください。
鉛筆の跡が、そこだけ濃かった。何度か書いては消した痕が、紙にうっすら残っている。
「……それ、書いていいやつ?」
訊くと、漣はびくっとして振り返った。
「だ、だめ、ですか」
来栖くんが、こちらを見ていた。何か言いかけて、口を閉じた。心臓の音が、一瞬だけ大きくなった。
「ううん」
うさぱいは首を振った。
「いいと思う」
*
アガレスの報告書は、普通なら課長の机に行って、そこで三日くらい寝かされる。漣の書類だけは、なぜか最上階まで持って上がることになっていた。九条審議官の指示らしい。
届けに行ったのは、うさぱいだった。
最上階は静かだ。絨毯が音を全部吸ってしまうので、エレベーターを降りると、急に耳が詰まったような感じがする。秘書の人に書類を渡して、ぺこっとお辞儀して、帰るふりをした。
帰るふりをして、廊下の角で、少しだけ耳を立てた。
情報担当の悪い癖だと、自分でも思う。
扉の向こうで、紙をめくる音がした。一枚。二枚。それきり、長いあいだ何の音もしない。九条審議官の心臓の音だけが聞こえる。ゆっくりで、規則正しい、いつもの音。
それが、ふっと乱れた。
「……同じことを書くのか」
ひとり言だった。審議官の声とは思えないくらい、くたびれた声だった。
「お前も、昔、それを書いたな。我妻」
うさぱいは、自分の耳の先が、ぴんと立ちっぱなしになっているのに気がついた。
そっと、手で押さえて寝かせた。




