第八十八話「流れの中心」
いつも読んでいただきありがとうございます。
それぞれの想いを抱えたまま、
物語は少しずつ動き出します。
止める者。
進む者。
待つ者。
その選択が交わる時が近づいています。
よろしくお願いいたします。
黒い霧を抜ける。
その先にあったのは、祠ではなかった。
黒水晶だった。
山そのものを飲み込むように。
巨大な黒水晶が口を開けている。
それはただ存在しているのではない。
獲物を待つ深海の生物のように、山肌へ根を食い込ませながら静かに脈動していた。
黒く濁った光沢がぬらりと揺れ、見る角度によって内部で何かが蠢いたように見える。
蒼真達は足を止めた。
「これが……祠か」
豪山が呟く。
答える者はいない。
弦だけが目を細めた。
「流れが集まっている」
無数の糸。
黒い流れ。
全てが内部へ吸い込まれていた。
まるで飢えた臓腑へ流し込まれる血のように。
「行くぞ」
蒼真が歩き出す。
誰も異論はなかった。
⸻
黒水晶の隙間を進む。
空気が重い。
ただ重いのではない。
湿り気のない鉛の塊を肺へ押し込まれているような圧迫感だった。
息を吸うたびに胸が軋み、吐いても楽にならない。
肺の奥へ黒い泥が流れ込んでくるような錯覚さえある。
耳の奥まで圧力が染み込み、鼓膜がじわりと痛む。
綾乃が顔をしかめた。
「……気持ち悪い」
篝が静かに周囲を見る。
「流れが濃すぎる」
足音が響かない。
いや、消えている。
靴底が地面を踏む感触はあるのに、その音だけがどこかへ奪われていた。
衣擦れの音も。
呼吸音も。
心臓の鼓動さえ遠くなる。
異様な静寂だった。
静かというより、音という概念そのものが削り取られている。
耳を塞がれたのではない。
世界から音だけが腐り落ちている。
その不自然さが本能を逆撫でし、胃の奥を冷たく掴んだ。
誰かが叫んでも届かない。
そんな確信だけが胸に沈殿していく。
まるで結晶そのものが周囲の存在を少しずつ食べているようだった。
蒼真は壁へ触れる。
冷たい。
だが、その冷たさは石のものではない。
生き物の皮膚に触れた直後のような、嫌な湿った感触が指先に残った。
ぬめりはない。
それなのに、腐敗しかけた肉へ触れた後のような不快感だけがまとわりつく。
ぞわりと背筋が粟立つ。
微かに脈打っている。
一定ではない。
どくり。
どくり。
どくり。
巨大な何かの鼓動が、結晶全体を通して伝わってくる。
耳を澄ませば聞こえそうで、しかし決して聞こえない。
音はない。
だが鼓動だけは確かに感じる。
聞こえないはずの脈動が骨の内側を震わせる。
その矛盾が生理的な嫌悪感となって全身を這い回った。
呼吸をしているようだった。
いや。
蒼真には、黒水晶そのものがこちらを観察しているように感じられた。
壁の奥で何かが目を開き、侵入者達を見つめている。
そんな錯覚が離れない。
視線を逸らしても。
背を向けても。
結晶のどこかにある無数の目が皮膚へ貼り付いてくるようだった。
綾乃が足を止めた。
「待って」
小さな声。
結晶の奥。
何かが見えた。
人影。
老人。
女。
子供。
無数。
黒く透けた結晶の内部に沈み込むように閉じ込められている。
その顔は苦痛に歪み、助けを求めるように手を伸ばしていた。
爪は割れ、指先は結晶へ食い込んだまま固まっている。
逃げようとした瞬間を永遠に閉じ込められたようだった。
だが動かない。
瞬きもしない。
それなのに。
見られている。
全員がこちらを見ているような感覚だけがあった。
瞳は濁っているはずなのに。
その奥に残った執着だけが生き続けている。
「……」
綾乃の顔色が変わる。
弦が目を細めた。
「流れが残っている」
「残ってる?」
嵐が眉を寄せる。
弦は頷いた。
「死んでいない」
静かな声だった。
「生きてもいない」
誰も言葉を返せない。
黒い流れだけが揺れている。
それは風ではなかった。
結晶の内部を血液のように巡り、脈動し、蠢いている。
時折、人影の口や目から染み出すように流れ込み、再び奥へ吸い込まれていく。
まるで巨大な生物の体内へ迷い込んだかのようだった。
篝が目を閉じた。
「終われないのか」
答えはなかった。
ただ。
苦しみだけが残っている。
⸻
豪山が小さく息を吐く。
「大丈夫か」
綾乃が声をかける。
「ああ」
短い返事。
それだけだった。
だが。
綾乃は違和感を覚えた。
呼吸が少し荒い。
顔色も悪い。
何かを隠している。
隣で篝も僅かに視線を向けた。
だが何も言わない。
今は進むしかなかった。
⸻
やがて。
通路が終わる。
視界が開けた。
誰も言葉を失う。
巨大な空洞。
天井は見えない。
無数の黒い糸が垂れ下がっている。
まるで巨大な繭だった。
その瞬間。
豪山の身体がわずかによろめいた。
「豪山?」
綾乃が振り返る。
「……なんでもねぇ」
そう答える声に力がない。
額には脂汗が滲み、握った拳が微かに震えていた。
呼吸も先ほどより明らかに浅い。
まるでこの場所へ近づくほど、何かに体力を削り取られているようだった。
豪山自身も異変を理解しているのだろう。
だが口にはしない。
奥歯を噛み締め、無理やり立っている。
その姿に篝が眉をひそめた。
しかし豪山は視線を返さない。
黒い空洞の中心を睨み続けていた。
その光景だけで圧倒される。
だが。
蒼真の視線は自然と引き寄せられた。
糸の流れ。
黒い脈動。
空洞全体を満たす濁流。
その全てが。
ただ一つの場所へ向かっている。
中心。
黒い流れの渦。
結晶の核。
誰も動かなかった。
いや。
動けなかった。
音はない。
呼吸さえ忘れそうな沈黙だけが広がる。
黒い糸が揺れる。
ゆっくりと。
まるで何かを隠す幕のように。
その隙間に。
白いものが見えた。
髪。
細い肩。
小さな輪郭。
蒼真は息を呑む。
時間が止まったようだった。
黒の中心に。
無数の糸に包まれるようにして。
一人の少女が静かに目を閉じている。
――紬。
誰も声を出せない。
ただ、その姿だけが。
巨大な空洞の全てを支配するように、そこにあった。
第八十八話 終
第八十八話を読んでいただきありがとうございました。
長く続いた旅も、いよいよ終着点が見え始めました。
それぞれが何を守り、
何を選ぶのか。
最後まで見届けていただけたら嬉しいです。
次回もよろしくお願いいたします。




