第五十八話「理解できないもの」
第五十八話は、
“理解できないもの”の話です。
人の感情は、
時に理屈では測れません。
夜だった。
空は暗い。
月はない。
静かな場所だった。
崩れた建物。
割れた壁。
止まった空気。
迅は、一人で座っていた。
視線は、遠い。
手の中には、古びた布切れ。
指先で、無意識に触れている。
その時。
「迅」
名前を呼ぶ声。
気配は、最初からあった。
迅が、面倒そうに目だけ向ける。
「……無月か」
無月は、静かに立っていた。
感情のない目。
揺れない声。
「聞きたいことがある」
迅が、小さく眉を寄せる。
「珍しいな」
無月は、淡々と続けた。
「女がいた」
「子供を庇っていた」
「なぜだ?」
迅が、少し止まる。
「……は?」
無月は、本気だった。
「自分が死ぬ可能性が高まる」
「合理的ではない」
迅は、しばらく無言だった。
やがて。
「……そんなの」
小さく息を吐く。
「守りたいからだろ」
即答だった。
無月の目は、変わらない。
「理解できない」
迅が、顔をしかめる。
「お前、ほんと空っぽだな」
その言葉にも、無月は反応しない。
「守ることで、自分が死ぬ可能性がある」
「なぜ優先する」
迅は、苛立ったように頭を掻く。
「理屈じゃねぇんだよ」
低い声。
「失いたくねぇからだ」
空気が、少しだけ止まる。
無月は、静かに迅を見る。
「お前もか」
迅の手が、一瞬だけ止まる。
布切れ。
無月は、そこへ視線を向けていた。
「……奏多か」
迅の空気が、一瞬で変わる。
「その名前を、軽く口にすんな」
低い。
だが。
怒鳴らない。
無月は、その変化を見ていた。
呼吸。
視線。
指先。
全部、少しだけ揺れている。
「お前は、まだそこへ留まっている」
迅が、ゆっくり顔を上げた。
「……だったらなんだ」
静かな声。
「終われるわけ、ねぇだろ」
その言葉だけで、十分だった。
無月は、しばらく黙っていた。
理解はできない。
だが。
迅が、苦しんでいることだけは分かった。
理由は、分からないまま。
「……そうか」
無月は、静かに踵を返す。
迅が、小さく舌打ちした。
「なんなんだよ、お前は」
無月は、止まらない。
去り際。
「……分からない」
小さく、そう呟いた。
それが。
無月自身へ向けた言葉だと、迅は気づかなかった。
第五十八話 終
理解できないからこそ、
気になってしまうことがあります。




