第三十六話後編「間に合わなかった」
第三十六話後編は、
“間に合わなかった”の話です。
あと少し。
あと一歩。
その届かなさが、
人の心へ残り続けることがあります。
核は、足元にあった。
淡く、歪んだ光。
揺れている。
脈打つように。
呼吸のように。
奏多は、それを見ていた。
そして――
さっきの“感触”を思い出していた。
(戻った)
一瞬だけ。
確かに。
(いける)
そう思った。
迷いなく。
「……これだ」
小さく、言う。
嵐が反応する。
「やめろ」
低い声。
即答だった。
だが――
奏多は止まらない。
「まだ、繋がってる」
一歩、前へ。
迅が言う。
「……待て」
静かに。
「試せる」
その一言が、場を止めた。
嵐の動きが、わずかに止まる。
奏多は、迷わない。
手を伸ばす。
核に――触れる。
瞬間。
音が消えた。
空気が、裏返る。
“来る”。
それは理解だった。
記憶が流れ込む。
感情が流れ込む。
重い。
多い。
(まだ、いける)
奏多は、踏みとどまる。
指先に、繋がりがある。
確かに。
(ここから戻せる)
女の記憶。
帰りたい場所。
名前。
温度。
(ほら)
繋がる。
ほどける。
戻る。
「……大丈夫」
小さく、言う。
自分に言い聞かせるように。
「まだ――」
その時。
別の声が混ざる。
(違う)
冷たい。
知らない感情。
(連れていけ)
(まだ足りない)
(繋げ)
奏多の呼吸が止まる。
「……あれ?」
重い。
数が合わない。
一人じゃない。
増えている。
絡みつく。
引き込む。
(……違う)
これは、さっきの“戻り方”じゃない。
でも――
(離したら)
切れる。
全部。
ここまで繋いだものが。
「……待て、奏多」
迅の声。
近い。
「一回離せ」
「やめろ!」
嵐の声。
強い。
踏み込む気配。
(ダメだ)
奏多は思う。
(今離したら)
終わる。
全部。
ここまで届いたものが。
「……来るな」
小さく言う。
震えていない。
ただ、静かに。
嵐の足が止まる。
迅の手が止まる。
(今だけは)
邪魔されたくない。
あと少し。
あと少しで。
全部、繋がる。
戻る。
だから――
その一瞬の判断が。
致命的だった。
⸻
流れが、崩れる。
重なる。
増える。
溢れる。
奏多の目が、揺れる。
視界が歪む。
声が混ざる。
「……怖い……」
「……帰りたい……」
「……痛い……」
「……連れていけ……」
「……まだ足りない……」
止まらない。
受け止めきれない。
しかし――
手は離さない。
(……まだ……)
届く。
そう思っている。
その優しさが。
離さない理由だった。
「やめろォ!」
嵐が動く。
踏み込む。
速い。
迷いがない。
腕を掴む。
引き剥がそうとする。
その瞬間。
流れが、弾ける。
断ち切れない。
中途半端に裂ける。
「……っ!」
奏多の身体が跳ねる。
繋がりが、歪む。
迅が動く。
「待て!」
手を伸ばす。
繋ぎ止めようとする。
だが――
増える。
さらに重なる。
押し込まれる。
「……やめろ、両方!」
迅の声が崩れる。
だが、止まらない。
嵐は止める。
迅は繋ぐ。
奏多は離さない。
――三つの選択が。
ぶつかる。
「……あ……」
奏多の声が落ちる。
静かに。
力が抜ける。
目が、焦点を失う。
それでも。
まだ、立っている。
「……ふたり……」
口が動く。
震えている。
「……なら……」
その目に。
一瞬だけ。
“いつもの色”が戻る。
笑おうとする。
でも、できない。
「……できた…はず…なのに……」
次の瞬間。
核が、砕ける。
音はない。
だが、確かに壊れた。
光が霧になる。
流れが暴れる。
空間が歪む。
そこに立っているのは――
人じゃない。
霧でもない。
壊れた“繋がり”。
歪んだ存在。
「……なんで……」
声がする。
掠れている。
それでも、届く。
「……一緒に……」
嵐が止まる。
迅が動けない。
「……やってくれなかった……」
沈黙。
時間が止まる。
嵐が動く。
止まらない。
拳が振られる。
迷いはない。
――断つ。
完全に。
霧が散る。
何も残らない。
静寂。
風が戻る。
軽い。
何もない。
嵐が立っている。
拳が震えている。
下を見ている。
迅が、動かない。
目が開いたまま。
呼吸が浅い。
その奥で。
玄真が立っていた。
最初から。
ずっと。
見ていた。
何も言わない。
「……遅ぇんだよ」
嵐の声。
低い。
掠れている。
「迷ってる間に壊れた」
迅の声が返る。
震えている。
「……違う」
「断ったから壊れた」
沈黙。
風が止まる。
玄真が言う。
「選べ」
それだけ。
それだけが、残る。
⸻
その日。
二人は、別れた。
⸻
後編 終
救えなかった記憶は、
簡単には消えません。
それでも人は、
その痛みを抱えたまま前へ進いていきます。




