第三十五話前編「まだ、繋がってる」
第三十五話前編は、
“まだ、繋がってる”の話です。
見えなくなっても。
離れてしまっても。
人は時に、
残った想いへ触れてしまいます。
朝の空気は、冷たかった。
道場の床は、まだ夜の温度を残している。
静かだ。
次の瞬間。
「はっ!」
踏み込み。
嵐の拳が、一直線に走る。
速い。
迷いがない。
止まらない。
――止まる。
寸前で。
斎堂玄真の掌に、触れる前に。
「……遅い」
短い声。
次の瞬間、嵐の体勢が崩れる。
流された。
ではない。
“置いていかれた”。
「チッ……!」
床を踏み直す。
もう一歩。
行こうとする。
「やめとけ」
横から声。
迅が、軽く手を出す。
嵐の肩を押し戻す。
「今のは、力の入れすぎ」
「は?」
「全部前に出てる」
迅は笑う。
「“断つ”ってのはさ」
一歩、前へ。
嵐の拳を軽く受ける。
そのまま、逸らす。
崩す。
「流れごと持ってくんだよ」
柔らかい。
だが、確実に制御している。
嵐が眉を寄せる。
「回してるだけだろ」
「違うって」
迅が笑う。
「繋いでる」
「終わらせない形でな」
沈黙。
空気が少し張る。
「……どっちも違うよ」
声が落ちる。
振り向く。
奏多が、立っていた。
寝癖が少し残っている。
道着の紐も、少し緩い。
なのに。
目だけは、真っ直ぐだった。
「断つだけだと、そこで終わるし」
「繋ぐだけだと、残るだけだ」
一歩、前へ。
嵐と迅の間に立つ。
「だから――」
軽く構える。
「ちょっと貸して」
嵐の拳を取る。
強くない。
ただ、触れる。
そのまま――
流す。
迅の方へ。
迅が受ける。
だが。
崩れる。
「……え?」
迅が小さく声を漏らす。
支えられている。
倒れない。
でも、立ってもいない。
“中間”。
「……こう」
奏多が言う。
少しだけ笑う。
「断って、繋ぐ」
沈黙。
嵐が何も言わない。
迅も、黙る。
玄真が、わずかに目を細める。
その視線は――
ほんの一瞬だけ、
柔らいだ。
稽古の後。
水を飲む。
風が通る。
木の匂いがする。
「……お前、なんでそんな中途半端なんだよ」
嵐が言う。
壁にもたれている。
荒い呼吸は、もう落ち着いていた。
「中途半端って言うなよ」
奏多が笑う。
「いいとこ取りって言ってくれ」
「同じだろ」
「違うって」
肩をすくめる。
「どっちも大事だろ」
「断たないと終われないし」
「繋がないと、残らない」
嵐が顔をしかめる。
「どっちかでいいだろ」
「ダメだよ」
即答だった。
軽い声。
でも、迷いがない。
「一人だったら、そうかもだけど」
「三人いるだろ」
沈黙。
風が通る。
迅が笑う。
「……それ、ずるいな」
「何が?」
「それ言われるとさ」
一歩、近づく。
「否定しづらい」
奏多が笑う。
「だろ?」
嵐が舌打ちする。
「……チッ」
だが、もう何も言わない。
夕方。
森の奥。
空気が、少し重い。
「……いるな」
迅が言う。
静かに。
その先。
人がいる。
女。
立っている。
だが――
揺れている。
「……絡人か」
嵐が構える。
一歩、出る。
「待って」
奏多が止める。
前に出る。
ゆっくり。
女を見る。
その奥を見る。
「……まだ、残ってる」
女の口が、動く。
「……帰りたい……」
小さな声。
その一言で。
空気が変わる。
嵐の拳が止まる。
迅の視線が揺れる。
「……無理だ」
嵐が言う。
低く。
「もう――」
「違う」
奏多が言う。
優しく。
でも、はっきりと。
「繋がってる」
一歩、近づく。
手を伸ばす。
触れる。
肩に。
軽く。
その瞬間。
女の目に、光が戻る。
「……あ……」
焦点が合う。
「……ありがとう……」
その声だけは、
確かに“人”だった。
涙が落ちる。
一瞬だけ。
本当に、一瞬だけ。
“戻る”。
沈黙。
風が通る。
嵐が息を止める。
迅が目を細める。
奏多が、小さく笑う。
「ほら」
「まだ、繋がってる」
その足元で。
核が、わずかに光った。
前編 終
断ち切れないものは、
弱さだけではありません。
それはきっと、
誰かを大切に思っていた証でもあります。




