第百六話「もう一度」
いつもお読みいただきありがとうございます。
失った人に、
もう一度だけ会えたなら。
そんな願いを抱いたことがある人もいるかもしれません。
第百六話
「もう一度」
よろしくお願いいたします。
少女の言葉を、母親は信じていなかった。
「おばあちゃんに会えたの!」
嬉しそうに話す娘へ笑顔を返しながらも
そんなはずはないと思っていた。
亡くなった人は帰ってこない。
それは誰よりも分かっている。
自分も母を見送ったのだから。
それでも――
娘の話は不思議だった。
夢の話
笑顔の話
そして…
「おばあちゃんね」
「裏の梅の木、ちゃんと見てたよって」
母親の手が止まる。
少女は続ける。
「今年もいっぱい咲いてたねって言ってた」
胸がざわつく。
その話は、
誰にも話していない母と自分だけの思い出だった。
「それにね」
「お母さんは昔から泣き虫だねって」
少女は笑顔で言う。
母親は言葉を失った。
母がよく言っていた言葉だった。
もう何年も聞いていない。
聞けるはずもない。
そんな事、少女が知るはずないのに。
次の日。
母親は少女に連れられ祠へ向かっていた。
風は穏やかだった
木々が揺れる
少女は迷いなく進んでいく。
「ここだよ!」
祠
古くから残る小さな祠だった。
母親は静かに見つめる。
何も変わらない
いつも通りの景色。
ただ一つ、
少女が大事そうに握っている石を除いて。
「これ」
少女が差し出した。
透き通る小さな結晶。
母親は苦笑する。
『そんなはずがない…』
そう思いながら、
石を受け取った。
不思議と温い。
*****
『人は弱い』
そう語られることがある。
だが私はそうは思わない。
人は忘れない
忘れられない
大切だったからだ。
*****
母親はゆっくりと石を握る。
風が吹いた、その瞬間
懐かしい匂いがした
幼い頃の記憶
暖かな台所
味噌汁の香り
笑い声
優しい手
そして――
「……お母さん」
声が漏れる。
目の前には、
若い頃の母がいた。
何も変わらない
あの日のまま
優しく笑っている。
母親の目から涙が溢れた。
「ごめんね」
何故そう言ったのか分からない。
会いたかった
ただ会いたかった。
それだけだった。
⸻
あの時の私達は
それを間違いだとは思わなかった。
思えるはずもなかった。
『会いたい』
もう一度だけ
声を聞きたい
笑顔を見たい
ただそれだけだったのだから。
⸻
どれくらい時間が経ったのだろう…
母親は静かに目を開いた。
頬は涙で濡れていた。
少女が心配そうに見ている。
「お母さん?」
母親は笑顔で
涙を拭いながら。
「うん」
「会えたよ」
少女も嬉しそうに笑う。
帰り道
村の女性が声を掛けてきた。
「どうしたの?」
「泣いていたでしょう?」
母親は少し迷った。
けれどつい口にしてしまう。
「……会えたの」
「え?」
「母に…」
女性が息を呑む。
震える声で尋ねた。
「本当に……?」
母親は胸の前で石を握った。
そして静かに頷く。
「本当に会えたの」
風が吹く。
女性は祠の方を見る。
遠く、山の奥にある祠を。
その目には
小さな願いが宿っていた。
⸻
あの日、
まだ誰も知らなかった。
願いは人から人へ渡る。
流れのように。
それは奇跡だったのか
それとも始まりだったのか
今となっては分からない。
ただ一つ確かなことは。
あの日、もう一人
祠へ向かう者が生まれたということだった。
第百六話 終
第百六話でした。
人は忘れません。
大切だった人を。
大切だった時間を。
だからこそ、
もう一度会いたいと願うのでしょう。
それは決して特別な願いではなく、
とても自然な想いだったのだと思います。
けれど――
流れは少しずつ広がっていきます。
次回もよろしくお願いいたします。




