第百五話「凪」
ここから最終章です。
これまで蒼真達が追い続けてきたもの。
久遠が抱え続けてきたもの。
その始まりの話になります。
誰も悪くなかった。
だからこそ止められなかった。
そんな過去を少しずつ辿っていきます。
「あの時、私達は何を間違えてしまったのだろう」
静かな声…
風が吹く
黒い流れは消えた。
張り詰めていた空気も
長い間、この世界を覆い続けていた歪みも
少しずつ還ろうとしている。
久遠は静かに目を閉じる。
蒼真は迷わず、紬との糸を断った。
苦しく辛かっただろう。
それでも前を向いた。
守るために…
未来へ進むために。
自分には出来なかったことだ。
分かっていた
いつかは手放さなければならないことも
流れは還るべきものだということも。
それでも出来なかった
あの日から
ずっと…。
だから今でも考えてしまう
何度も
何度も
答えの出ない問いを。
「あの時、私達は何を間違えてしまったのだろう」
風が吹く
木々が揺れる
始まりの祠は静かだった。
ここは全ての始まり
守り人が生まれた場所。
命と想いの流れを見守るために築かれた場所。
そして――
全てが壊れ始めた場所。
「どうすれば間に合う事ができたのだろうか」
誰に向けた言葉でもない
ただ過去へ沈むように
久遠の意識は遥か昔へ向かう。
まだ戦争などなかった頃…
まだ絡人も
絡霧も
存在しなかった頃。
世界が今よりずっと穏やかだった頃へ。
⸻
その日も少女は祠へ来ていた。
小さな足
小さな手
まだ幼い少女が、祠の前へ座る。
そして手を合わせた
「おばあちゃん」
返事はない
もう何度目だろう
毎日来ている
毎日話しかけている
それでも少女はやめなかった。
「今日ね」
「お母さんに褒められたの」
嬉しかった事
楽しかった事
悲しかった事
全部話した。
いつも聞いてくれた人がいなくなったから
少女は寂しかった。
会いたかった
ただ、それだけだった。
風が吹く
木の葉が揺れる
少女は立ち上がった、その時だった。
「あれ……?」
祠の脇
陽の光を受けて何かが輝いていた。
少女は近付く
拾い上げる
透き通るような石、小さな結晶
不思議と温かい。
祠の奥に祀られている古い石と、どこか似た光を宿していた。
「きれい……」
少女は両手で包み込む。
その瞬間、
優しい温もりが流れ込んできた。
懐かしい匂い
優しい手
笑い声
記憶
愛情
温かな何かが胸いっぱいに広がった。
少女の目から涙が零れる。
悲しくない
苦しくない
ただ温かい
まるで――
「おばあちゃん……」
誰もいない祠で
少女は泣きながら笑った。
その結晶は、本来なら流れの中へ還るはずだった残響だった。
けれど少女は知らない。
想いを留めることが、時に世界の流れそのものを留めてしまうことを。
その夜
少女は夢を見た
懐かしい夢
優しく頭を撫でてくれる手
暖かな声
大好きだった笑顔。
朝、少女は飛び起きた。
そして家の中へ駆け込む。
「お母さん!」
弾む声
嬉しさを隠し切れない笑顔。
「聞いて!」
「おばあちゃんに会えたの!」
母親が驚いたように振り返る。
少女は胸の前で石を握り締めた。
大切な宝物のように。
そして何も知らずに笑っている。
祠が集め、結晶が留めた想い。
それはやがて人々の願いと執着を引き寄せる器となり、誰も予想しなかった形で受け継がれていく。
それが、
全ての始まりだった。
第百五話 終
第百五話を読んでいただきありがとうございます。
戦争も絡人もまだ存在しない頃のお話でした。
今まで作中で語られてきた出来事の多くは、この小さな出来事から繋がっています。
大好きなおばあちゃんに会いたかった少女。
それを喜んだ母親。
きっと誰も悪くありません。
だからこそ、久遠は今でも「あの時、私達は何を間違えてしまったのだろう」と問い続けているのだと思います。
次回は、その想いが少しずつ広がっていくお話です。




