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第一部  尼子秘帳 五

 黒鷹精久郎は、大山新八郎と対決をした野原へ行った。

 あの日の夜の雨と風で、対決の痕跡は、何も残っていない。

 だが、周囲の感覚は分かる。

 対決の時は、相手との位置関係に注意をしていた。

 注意しすぎであった。

 周囲に、もう少し気を配るべきであった。

 雑木林を見る。

 矢を射った者(複数かもしれないが)は、雑木林に身を潜めていたのであろう。

 あの時に感じた奇妙な気配が、それだったのだ。

 荒れてきた天気に邪魔されて、気配を正しく読みとれなかった。

 対決に勝って気が緩んだか。

 それとも江戸の空気に幻惑されたのか。

 甘かった。

 雑木林の中から、侍が一人、出てきた。

 黒紋付き羽織で博多帯の着流し。

 髪は小銀杏。

 奉行所の同心と分かる姿形である。

 黒鷹精久郎が言った。

「同心、芥川行蔵氏ですな?」

「いやぁ、さすがですな」

「ここに来ることは、塚原千秋殿が話されたのか? そうではないだろう。目明しが道場を見張っていた?」

「ご明察。

 目明しの常吉が道場を見張っていたんです。

 そこにあなたが現れた。

 事情を千秋さんに聞いて、私に報告した。

 そして、私は、ここで、あなたを待った、というわけです。

 あなたなら、ここに来ると思いましたよ。

 調べた通りだ」

「私のことを調べた?」

「ええ。

 水口の自席家老の家の三男。

 若い頃から剣術の麒麟児と言われる。

 流派は、塚原卜伝の新当流の流れをくむ一刀流。

 その縁で塚原道場の大山新八郎と試合をしたが、引き分けた。

 それが十年前の話ですな。

 その決着をつけるべく、ここで立ち会った……」

 黒鷹精久郎は、黙っていた。

 芥川行蔵は笑顔で話を続けた。

「ひとつ聞きたいのですが。

 真剣での試合って、どういうものなんですか。

 人を斬る、命のやりとり、私には想像がつかないなぁ。

 そりゃぁ、私も、道場で地稽古をしますよ。

 怪我はしょっちゅうあるが、斬られて死ぬことはありませんからね。

 捕物で盗人を斬ることもありますが、夢中で刀を振り回しているだけ。

 刀を構えて斬り合うという本物の試合、想像がつかないなぁ」

 黒鷹精久郎が言った。

「ひとつ聞きたい」

「何です?」

「塚原氏の最後」

「身体中に矢が刺さっていました。まるで弁慶の最後。

 矢を射ったのは、複数人。十人はいたんじゃないですか」

 黒鷹精久郎は、むずかしい顔つきになった。

 芥川行蔵が続ける。

「飛び道具を相手にして、しかも……十人から一斉に矢を受けた。

 いくら剣術の達人でも……無理ですよ。

 試合が終わり、あなたが立ち去るのを、待っていたんでしょうな。

 誰かが周りにいる気配、感じませんでしたか」

 芥川行蔵は、皮肉とも思える笑いを浮かべた。

 黒鷹精久郎は黙っている。

 芥川行蔵が続けて言った。

「あなたがここから遠くへ離れるのを、十人は待っていた。

 塚原さんは、斬られた弟子を呆然と見下ろしている。

 そこへ、一斉に矢が来た。

 矢の一本くらい切り落としても、十本ではねぇ……。

 そして、尼子秘帳が盗られた。

 しかし、その十人、なぜ、尼子秘帳を盗ったんでしょうかね。

 しかも、尼子秘帳を持っていることを、なぜ知っていたんだろう」

 黒鷹精久郎は鋭い目で言った。

「その十人……二つ、間違いをした……」

「何です?」

「試合の前、あるいは、試合の直ぐ後に、矢を射ってもよかったのに……」

「尼子秘帳だけが目的だったのでしょうな。無益な殺生はしたくなかった……」

「それが、間違いだ。十人も出しているのに無益な殺生はしない、では甘い……」

「試合の前、あるいは、試合の直ぐ後に矢が射られたら……どうしました?」

 黒鷹精久郎は、答えない。

 芥川行蔵が聞いた。

「もう一つの間違いとは?」

「私を殺さなかったこと」

「仇討ち、ですな」

 黒鷹精久郎は、黙っている。

「違うのですか?」

「尼子秘帳を取り戻す」

「免許皆伝の巻物を持ってないと、駄目ですか?」

「私のものだ」

 黒鷹精久郎は、振り向くと歩き始めた。

 芥川行蔵は、その後ろ姿を見て、独り言をつぶやいた。

「そんなに大切な巻物なのかなぁ」


 浅草寺の裏手を出て、田地を進むと山谷堀に突き当たる。

 この堤が日本堤であり、新吉原への往還路になっている。

 それで、この周辺には茶屋、船宿、それに料理屋が多い。

 料理屋の中でも、『名月』は格式が高い方であった。

 黒鷹精久郎が、増上寺の野原で芥川行蔵と話をしていた、ちょうどその頃。

 この料理屋の離れの部屋に、萩家の江戸家老、吉田吉次郎が座っていた。

 家老が吉原通いをするので、外聞がはばかれる、という雰囲気である。

 料理屋の者たちは、その辺は心得ていた。

 不用意に、この部屋に近寄ることはしないし、部屋に誰がいるかも詮索しない。

 密談をするには、ふさわしい場所なのであった。

 こうしたわけで、江戸家老吉田吉次郎は、この料理屋を密談の場所に使っていた。

 吉田吉次郎の脇には、用人の梅里大介が座っている。

 下座には若い侍が座っていた。

 江戸家老は、黒鷹精久郎が塚原道場に現れた、という報告を、考えた。

 今後の計画に支障があるだろうか。

 じっくりと考えて、結論を出した。

 支障はない。

 江戸家老は下座の侍に声をかけた。

「この度のこと、ご苦労であった」

 下座の侍は、返事の代わりに、丁寧にお辞儀をした。

 江戸家老に対して声を出すのは、憚りがあったのである。

 江戸家老が続けた。

「それに、あやつ……何といったか?」

 用人が言った。

「黒鷹精久郎ですか?」

「そうじゃ。その黒鷹精久郎とやらにも礼を言わんといけないな」

 用人が、追従笑いをしながら言った。

「さようでございます。奴のおかげで、一件落着いたしました」

「あと一年、いや二年は、やむを得ない、と思っていたが。だが、おい」

 下座の侍に声をかけて、続けた。

「あと二年ほどは、始めの手筈どおりにする、ほとぼりの冷めるまで。分かっておるな?」

 下座の侍は、了解の意で、またお辞儀をした。

 江戸家老が、考え込みながら言った。

「あちらの方は、少し手筈を変えなければなるまい。

 さて、どうするか……。ま、もう少し考えよう」

 下座の侍に言う。

「おぬしも、策を練ってみよ」

 用人が聞いた。

「黒鷹精久郎の方は、いかがなされます?」

「ほっておけ。

 剣術で人に勝つことだけしか頭にない奴じゃ。

 古ぼけた巻物の事など……、そのうち、忘れよう」

「さようでございますな。免許皆伝の巻物を有り難がるより、人に勝ちたい……」

「そうだ。

 剣術だけに凝り固まった、時代を間違えた奴だ。

 塚原卜伝の時代と間違えている」

 江戸家老は、何か思いついたように、笑った。

「そうか、ふふふ……」

「何でございます?」

「いっそのこと、黒鷹精久郎を御家の剣術指南にするか……」

「ええ? ご冗談が過ぎまする」

「面白いかもしれないぞ。尼子秘帳にふさわしい剣術の名人が、何も知らずに……」

 笑いながら続けた。

「剣術指南……。何も知らずに、剣術指南になる……。これは面白い」

 用人も、追従で笑った。

 下座の侍も、もちろん、追従笑いをした。



 

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