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第一部 尼子秘帳 四

 次の日、黒鷹精久郎は、塚原道場へ行った。

 大山新八郎との試合のとき、立ち会いをしていた塚原駿郎が経営する道場である。

 偶然ではあるが、塚原道場は、黒鷹精久郎のいる瑞竹寺から、遠くなかった。

 瑞竹寺を出て、浅嘉町、元町と進む。

 加賀中納言の屋敷を左に見て、昌平坂学問所を目指す。

 つまりは、中山道を上っているのだ。

 湯島の通りから東竹町へ曲がった先に、塚原道場があった。


 堂々とした、大きな構えである。

 門人の数も多いのだろう。

 道場の門人らしい若侍が、玄関の前を掃除している。

 黒鷹精久郎が、その前に立った。

 若侍が聞いた。

「ご用ですか?」

「黒鷹精久郎と申します」

「はあ?」

「塚原先生に、約束のものを受け取りに来た、とお伝えください」

「先生は……え、今、何と申された? 名は?」

「黒鷹精久郎」

 若侍は、顔色を変えて道場内へ走り込んだ。

 すぐに、門人たちが飛び出してきて、黒鷹を取り囲んだ。

 皆、刀を抜いている。

 黒鷹精久郎は、門人たちを見回した。

 斬り合いになったとき、誰を最初に倒すか。

 一番強いのは誰だ。

 一番弱いのは誰だ。

 玄関先という位置を、どう有利に使うか。

 黒鷹精久郎は、こうしたことを読みながら、言った。

「どういうことだ」

 門人たちから、怒号が出た。

 ふざけるな、白々しい、覚悟しろ、といった怒鳴り声が上がる。

 黒鷹精久郎は、静かに言った。

「刀を抜いているからには、斬られても、文句は言えないぞ」

 また、怒号が飛ぶ。

 そんな怒号を、一人の武士が制した。

 門人の中でも、上位らしい。

 その武士が、怒りを含んだ口調で言った。

「探す手間がはぶけた。ここで先生の仇討ちをさせてもらうぞ」

「ん? 塚原氏が亡くなられたのか?」

「とぼけるな」

「約定により、こちらの大山氏とは試合をいたした。だが、塚原氏のことは知らん」

 あれが試合か、卑怯者、という怒号が起きる。

 黒鷹精久郎は、黙ったままである。

 上位らしい武士が言った。

「大山との試合は、武芸者として見事と言おう。だが、その後は、卑怯ではないか」

 黒鷹精久郎が言った。

「武術に卑怯も何もない。勝つか負けるか、だけだ」

 そのとき、血気にはやった門人の一人が、斬りかかった。

 黒鷹精久郎は、門人の腕をねじり上げ、肩の関節を外し、足の下に踏みつけた。

 踏みつけたまま、対峙する武士に言った。

「塚原氏のことは知らん」

「そらぞらしい嘘を……」

 そのとき、黒鷹精久郎を囲む門人の後ろで声がした。

「お待ちなさい」

 若い女の声である。

 門人の人垣が割れ、塚原駿郎の娘、塚原千秋が現れた。

 塚原駿郎の娘、つまりは道場主の娘である。

 江戸紫の小袖に袴、という姿から匂いがたっている。

 切れ長の目が鋭い。

 塚原千秋が聞いた。

「あなたが……黒鷹……」

 黒鷹精久郎が答えた。

「……精久郎」

 塚原千秋は、黒鷹精久郎に対峙する武士に言った。

「東上様、お引きなさい」

 対峙する武士、東上晋太郎が答えた。

「しかし、お嬢様……」

「私にお任せなさい」

 黒鷹精久郎に向かって、続ける。

「黒鷹様、どうぞ、お入り下さい」

 心配顔の東上晋太郎や門人に背を向けて、塚原千秋は、中へと入っていった。

 その後を、黒鷹精久郎が続く。


 黒鷹精久郎が通されたのは、表向の客室であった。

 公用の客人や、入門志願者などと面談する部屋である。

 黒鷹精久郎は、塚原千秋と対座した。

 部屋の外に、門人たちが身構えているのが、もちろん、分かる。

 塚原千秋が、切り出した。

「父から、お名前は聞いております」

「そのお父上が、亡くなられたとか」

「ご存じないのですか?」

 黒鷹精久郎は、黙ったまま、頷いた。

「本当に?」

 黒鷹精久郎は、黙って、塚原千秋と目を合わせたままである。

 塚原千秋が、悲しげに言った。

「失礼しました。……増上寺で殺されました……」

「大山氏を斬ったのは私。試合です。だが、お父上のことは知らない」

「……父は、矢で射られました……」

 塚原千秋は、目を伏せた。

 悲しみをこらえている。

 武士の娘だから涙はみせない。

 黒鷹精久郎が言った。

「十年前、大山氏と勝負をすることが決まったとき、お父上、塚原氏は……」

 塚原千秋が、顔を上げて、話を聞く。

「試合に勝った者に尼子秘帳を下さると約束なさいました」

「聞いております」

「本日は、それを頂戴に参りました」

 塚原千秋は、黒鷹精久郎の目を見て言った。

「塚原道場の四天王の中でも抜きん出た大山様を倒された……」

 黒鷹精久郎は、目を見返した。

「……大変な腕前でいらっしゃる」

 黒鷹精久郎は、何も言わない。

「尼子秘帳をお持ちになるのに、相応しい……」

 塚原千秋が、立ち上がって、言った。

「どうぞ、こちらへ」

 黒鷹精久郎も立ち上がり、塚原千秋に続いた。

 部屋の外に群がっていた門人たちを、かき分けるようにして塚原千秋が進む。

 その後を、黒鷹精久郎が続く。

 二人は廊下を回り込み、屋敷の裏へと行った。

 渡り廊下がある。

 渡り廊下を進みながら、黒鷹精久郎は周囲を見渡した。

 広い庭には白い石が敷き詰められている。

 塀の近くには、びっしりと柊が植えられている。

 渡り廊下の先は蔵であった。

 塚原千秋は懐から鍵を取り出した。

 頑丈な作りの錠に鍵を入れて開ける。

 塚原千秋は蔵の扉を開けて、黒鷹精久郎に言った。

「どうぞ」

 塚原千秋は、黒鷹精久郎を蔵の中へ案内した。

 蔵の中には、刀、槍、長刀、鎧櫃など、武具が綺麗に整理されてならんでいた。

 奥に千両箱があり、その脇に箪笥があった。

 塚原千秋は、鍵で箪笥を開き文箱を取り出した。

 文箱を開ける。

「あっ」

「どうされた?」

「尼子秘帳が……ありません……」

 塚原千秋は独り言をいった。

「おかしい……これは、どういうこと……」

 黒鷹精久郎が聞いた。

「尼子秘帳がないのか?」

「はい」

「まさか……」

「私は武士の娘です」

「本当に、ごぞんじないのか?」

 塚原千秋は、しっかりと黒鷹精久郎の目を見た。

 黒鷹精久郎は、その目を見返して言った。

「失礼した」

 軽く会釈をして続けた。

「ここに入れる者は?」

「塚原家の者、つまり父と私だけです」

「門人ですらも入れない?」

「はい。どんなに古参でも……」

「例外はない?」

「特別な場合は、塚原家立ち会いの下に入りますでしょう」

「だが、その特別な場合は、これまでになかった?」

「はい」

「こちらの庭、石を敷き詰め、歩けば音がするようにしてある」

 黒鷹精久郎が続けた。

「塀の内側には忍び返しの柊」

「武士の家は城です」

 黒鷹精久郎が続けた。

「この頑丈な蔵。外から忍び込むのは、先ず無理。入れたとしても」

 黒鷹精久郎は、千両箱を指さして続けた。

「あれに手をつけずに、古ぼけた巻物だけを盗むのも、おかしな話」

「つまり……」

「ここに入れる者は?」

「つまり……父が持ち出したと……」

 黒鷹精久郎は頷いて、言った。

「増上寺で勝った者に、その場で下さるつもりだったようだ……」

 黒鷹精久郎が続けた。

「気を利かせて、大山氏の葬式が終わってから貰いに行く、と言ったのだが……」

「増上寺で、誰かが奪ったというのですか?」

「試合の後、妙な気配を感じた。誰かが見ていたのだろう」

「なぜ奪ったのでしょう」

 黒鷹精久郎は、塚原千秋を見た。

 塚原千秋が言った。

「尼子秘帳は新当流の免許皆伝の書」

「さよう」

「剣の技量を磨き上げれば尼子秘帳を持つ資格がありましょう。でも」

「でも?」

「尼子秘帳を持っていても剣の技量が磨かれるわけではありません」

「そうです」

「単なる、古ぼけた巻物を、なぜ奪ったのでしょう。殺してまで」

 黒鷹精久郎は、それに答えず、別なことを言った。

「大山氏が私と試合をすることを知っていたのは、誰です?」

 塚原千秋は蔵を出た。

 渡り廊下の先には、門人たちが、心配そうに、こちらを見ている。

 塚原千秋が呼びかけた。

「東上様」

「は?」

「こちらへ、いらして下さい」

 塚原千秋に続いて、東上晋太郎が蔵に入ってきた。

 塚原千秋が東上晋太郎に聞く。

「大山様が、この黒鷹様と試合をすることを知っていたのは誰です」

「塚原道場の四天王の残り三人、つまり、後藤、西野、それに私です」

 東上晋太郎は、黒鷹精久郎を睨んでから続けた。

「先生が、我々四人を集められて、『この大山が、十年前の約定により、試合をすることになった』と言われました」

 塚原千秋が、つけ足した。

「立ち会いは父のみ。他の者は、来てはならない、ということですね」

「はい」

 黒鷹精久郎が聞いた。

「そのとき、勝った者に尼子秘帳を伝える、と話されたのか?」

 東上晋太郎が黒鷹精久郎を睨んだ。

 塚原千秋が言った。

「東上様、答えて下さい」

 東上晋太郎が、黒鷹精久郎に言った。

「そうだ」

 黒鷹精久郎が、さらに聞いた。

「その事を、おぬし、誰かに話したか?」

「剣術の試合に関わる神聖な話。人に話すはずがなかろう」

「分かった」

 黒鷹精久郎が塚原千秋に聞いた。

「塚原氏の事件を調べている同心の名は」

「確か……芥川行蔵とか。黒鷹様、お聞きしますが」

「うん?」

「黒鷹様は、尼子秘帳のことを、古ぼけた巻物とおっしゃいました」

「さよう」

「古ぼけた巻物が、そんなに欲しいのですか」

「私のものです」

「免許皆伝の巻物だから?」

「私のものです」

「もう一つ、お聞きします」

「何?」

「父が、大山様と長崎に行ったとき、あなたに出会ったのですね?」

「さよう」

「そこで父は、あなたに一の太刀を伝授した、と聞いております」

「そして、大山氏と試合をする約定をいたした。技量を磨き、十年後に対決すると」

「あなたは、ほんの短い期間とはいえ、父に教えを受けた」

「それが?」

「父は、あなたの剣術の師匠。師匠の仇を討とうとは思わないのですか」

 黒鷹精久郎は、質問に質問で答えた。

「父親の仇討ちをするおつもりか?」

「もちろんです。尋常な試合ならともかく、矢で射る卑怯者。許せません」

「戦いに、卑怯も何もありますまい」

 塚原千秋が、驚いた顔で黒鷹精久郎を見た。

 黒鷹精久郎は、軽く別れの会釈をして、出て行った。


 東上晋太郎が塚原千秋に聞いた。

「いったい、これはどういう事ですか?」

「皆に、道場へ集まるように言って下さい。説明します」



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