第三部 阿吽仁王 七
永禄八年。
室町幕府、第十三代将軍の足利義輝は非業の死をとげた。
その場を逃れた側女は、越後の国へと下ったのであった。
胸には、足利義輝の形見である小刀吽仁王丸を、抱いていた。
側女は、越後で、尼寺の西月寺に入り、そこで一生を終わったのであった。
吽仁王丸は、その来歴を記した側女の手紙とともに、遺品として、西月寺の蔵に納まったのである。
中原では、織田信長が出て、豊臣秀吉が、その後を襲った。
その後、徳川家康は、豊臣家を滅ぼし、とうとう天下を盗ったのである。
越後の国では、上杉氏から、蔵王堂氏、高田氏そして長岡氏と変遷した。
だが、西月寺は、まるで時世時節の外にあるように、存在し続けたのである。
そして、二百年の時が経過して、寛政の時代となった。
蔵を整理していた西月寺の住職は、古ぼけた小刀と手紙を発見したのであった。
同心の芥川行蔵は、連続した辻斬りのことを、黒鷹精久郎に話した。
最初の犠牲者は、大樹勇造。
信濃国堀家の侍である。
六本木赤坂溜池で斬られたのであった。
次の犠牲者は、中森勘助。
旗本である。
芥川行蔵が言った。
「中森勘助は、刀ではなく、槍で突かれたのですが」
内藤新宿千駄ヶ谷で、槍で突かれたのであった。
三人目の犠牲者は、下林新左衛門。
美濃国戸田家の侍である。
永田町外桜田で斬られたのであった。
黒鷹精久郎が、聞いた。
「場所が別々、一人は槍。
その三件の辻斬りに、関連があるのか?」
「あるのですよ」
芥川行蔵が、説明した。
最初の二人の場合では、殺された武士の小刀が、分解されていた。
つまり、目釘、鍔、柄それに刀身が、死体の周りに散乱していたのであった。
三人目の下林新左衛門では、小刀が分解され、刀身がなくなっていた。
芥川行蔵が、言った。
「辻斬りの下手人は、小刀を捜していたようです。
わざわざ分解して、銘を見ていたのでしょう」
黒鷹精久郎が、言った。
「三人目で、捜していた小刀が見つかった、というわけか」
「そうです。その小刀が吽仁王丸というのです」
「なぜ、盗られた小刀の名前が吽仁王丸だと、分かった」
芥川行蔵が、説明した。
殺された下林新左衛門の長姉が、越後の国長岡家にある尼寺の西月寺の住職になっている。
長姉が、蔵を整理していて、古ぼけた小刀を発見した。
一緒に見つけた手紙を読んで、その小刀吽仁王丸の来歴が分かった。
長姉は、吽仁王丸を、弟の下林新左衛門に譲り渡した。
下林新左衛門は、伝説が付いている鎌倉時代の小刀が手に入り、喜び、自分の差し料とした。
芥川行蔵が続けた。
「こうしたことを、下林新左衛門が、同輩たちに話していたので、辻斬りで盗られた小刀が、吽仁王丸だと分かったのです」
芥川行蔵は、刀屋を回り、阿仁王丸と吽仁王丸の伝説のことを、聞き出した。
どの刀屋も、同じような伝説の話しか知らず、それ以上詳しいことは分からなかったのである。
それで、芥川行蔵は、黒鷹精久郎ならば、この伝説をもっと詳しく知っているかもしれない、と思い、訪ねてきたのであった。
黒鷹精久郎が、聞いた。
「下林新左衛門が、同輩に話したのは、何時だ?」
「二十日前だということです」
「下林新左衛門の家、つまり、戸田家の者たちは、全員が、吽仁王丸を手に入れたことを知っているのだな?」
「全員、ということはないでしょう。
下林新左衛門の同輩と、近くにいる上役、使用人、話を聞いた者が、また話をした、としても、全部合わせて、せいぜい半数」
「それは、そうだな。
すぐに全員に伝わるような、大きな話題ではない」
黒鷹精久郎は、考え込んだ。
芥川行蔵が、聞いた。
「何か、あったのですか」
黒鷹精久郎は、大刀阿仁王丸のことを知り、市川真間浅茅村へ行ったが、そこで、阿仁王丸強奪に巻き込まれたことを、話した。
芥川行蔵が、驚いて、言った。
「そうだったのですか」
黒鷹精久郎が、聞いた。
「最初の辻斬りは、私が、市川真間浅茅村へ、行った日だな?」
「そうです。
大刀阿仁王丸のことを知った者が、同時に、大刀阿仁王丸の強奪と、小刀吽仁王丸の探索を始めたようですね」
「私も、そう思ったのだが、何か、おかしい」
「は?」
「江戸に、武士は何人いる?」
「あ、そうか。小刀吽仁王丸が見つかるまで辻斬りをしていたら、何人、武士を斬ることになるやら。
無理ですね」
芥川行蔵は、考えながら、続けた。
「待てよ。
運良く、三人目の辻斬りで小刀吽仁王丸を見つけたとしても、どうやって、小刀吽仁王丸のことを知ったのだろう」
「そう。
それも気にかかる。
たとえ、阿仁王丸と吽仁王丸の伝説を、前から知っていたとしても、今になって、辻斬りをして探し始めた、というのは……」
「何か、おかしいですね」
黒鷹精久郎は、痺れ薬の南蛮象狩のことを薬種屋小松屋仁右衛門から聞き出した、ということを説明し、続けた。
「小松屋仁右衛門は、美濃国戸田家の者に南蛮象狩を売った、と言った」
「辻斬りの方」
「そう。
その痺れ薬が、大刀阿仁王丸の強奪に使われた」
「でも、大刀阿仁王丸のことを知っているのは、本多道場関係の者だけ」
「辻斬りの方と本多道場の方、両方に、繋がりがない」
黒鷹精久郎が、本多道場で見学をしていた四人の侍の名前を書いた書付を出して、言った。
「この四人と美濃国戸田家、どこかに繋がりがあるはずだ」
芥川行蔵が、四人の名前を、睨んだ。
黒鷹精久郎は、窓から竹藪を見ながら、考え込んでいる。
芥川行蔵が、言った。
「この名前、覚えがある」
「どれだ?」
芥川行蔵は、右岡貫太郎、の名前を指さしていた。
芥川行蔵が続けた。
「右岡貫太郎。
こやつ、確か、赤柄組の一人です」
「赤柄組?」
「無頼の組です」
芥川行蔵は、次のように説明した。
最近、旗本や御家人たちのなかで、無頼化した者たちが、何人も出てきている。
徒党を組んで暴れ回るので、問題になっている。
奉行所も取り締まるのだが、なかなか根絶出来ない。
そうした無頼の徒の組の一つが、赤柄組なのであった。
「赤柄組?」
「昔の、白柄組の真似ですよ」
江戸の初期、旗本奴と呼ばれる、旗本の無頼の徒が横行した。
その中でも有名なのが、白柄組の水野十郎左衛門である。
侠客幡随院長兵衛との喧嘩は、有名になり、後世まで残った。
その白柄組を真似て、赤柄組という名前を付けた、というのである。
芥川行蔵が、言った。
「赤柄組の首領は、三岸鎌之助。
剣術が強く、自分を、剣の達人だと思っている」
「ほほう。それは、おもしろい」
「それで、赤柄組の者たちに、先生、と呼ばせています。
弟子を持つ剣術の達人を、気取っているのです」
黒鷹精久郎は、浅茅村で、意識を無くす直前、「先生、ありました」という声を聞いたのを、思い出した。
芥川行蔵が、続けた。
「首領の三岸鎌之助は、刀剣収集に夢中になっている、と聞いたことがあります」
黒鷹精久郎が、言った。
「大刀阿仁王丸強奪は、そいつの仕業だな」
「間違いないでしょうね」
芥川行蔵が、続けた。
「辻斬りも、赤柄組?
大刀阿仁王丸と同時に、小刀吽仁王丸も探し始めたのかな?」
「それはおかしい、と先ほど言った」
「そうなんですよ。
辻斬りの方が、分からない」
「分かった、と思う」
「分かりましたか?」
黒鷹精久郎が、言った。
「辻斬りだと考えるから、おかしくなる。
最初から、下林新左衛門だけを殺すのが目的だとしたら、どうだ?」
「残りの二人は?」
「刀を探しての辻斬り、と見せかけたのだ」
「ははあ、なるほど」
「下林新左衛門が小刀吽仁王丸を手に入れたことを知った者が、それに事寄せて、殺した」
「誰だか知らないが、上手いことを考えたものだな」
「策士だな」
「では、大刀阿仁王丸の方と、小刀吽仁王丸の方とは、全然、別なことですか」
「それは違う。
小刀吽仁王丸の方の痺れ薬が、大刀阿仁王丸の方で、使われている」
「そうですね。やはり、どこかで繋がりがある」
「これは、貴公に、調べて貰う必要があるな」
黒鷹精久郎は、次のことを、指摘した。
下林新左衛門には、殺したいと思うほどの敵がいる。
一方、半年前に、美濃国戸田家侍が、痺れ薬を買った。
それから半年の間、下林新左衛門は生きていたのだから、痺れ薬は、下林新左衛門のためではない。
痺れ薬には他の目的があったのだ。
黒鷹精久郎が、言った。
「つまり、美濃国戸田家には、何か、揉め事があるのではないかな」
「下林新左衛門の一派と、それに敵対する一派で争いがあり、御家は、安泰ではない、ということですね」
「そう思う」
「分かりました。
調べてみます」
「頼む。
それを調べれば、大刀阿仁王丸の方との繋がりも、分かるだろう」




