第一部 尼子秘帳 十
塚原道場の道場主であった塚原駿郎の先祖は、塚原卜伝の従兄弟である。
鹿島神宮の神官に関わる豪農であった。
塚原家は、半農の地方豪族として戦国時代を生き抜いた。
徳川家光の頃、塚原家の次男が江戸へ出て、道場を開いた。
これが、塚原道場の始まりである。
したがって歴史は古い。
塚原道場塚原家の一族の墓所は、市谷牛込の法輪寺である。
御手先組や根来百人組が住む区画に法輪寺がある。
塚原道場の道場主塚原駿郎が殺されてから七日目。
塚原駿郎の娘塚原千秋と、四天王の一人、東上晋太郎が、法輪寺へ来た。
道場主塚原駿郎の遺体は、仮埋葬されていた。
いずれ、塚原道場として正式な葬儀を行わなければならない。
しかし、黒鷹精久郎が四天王の二人まで斬ったので、道場は騒然としていた。
もちろん、正式な試合なので文句を言うことはできない。
だが、平静ではいられない。
騒然とした雰囲気なのである。
それで、葬儀の日取りをかなり先に延ばさざるを得まい、ということを相談に来たのであった。
塚原千秋と東上晋太郎は、墓所の前で話した。
東上晋太郎が言った。
「千秋殿。我らの婚礼のことですが」
「何でしょう?」
「先生が亡くなられたので、一年、先に延ばすことに決めましたが」
「はい」
「さらに、もう一年ほど、延ばしていただけませんか」
「なぜですか?」
「旅に出たいと思います。あの黒鷹精久郎が現れて、私の技量の至らなさが分かりました」
「そうですか?」
「このままでは、とても、塚原道場を引き継ぐことはできません」
「それで、武者修行の旅へ?」
「はい。われらが流派の開祖、塚原卜伝をまねて、修行の旅に出たいと思います」
「そうですね。分かりました。そういうことなら、二年でも三年でも待ちます」
「ありがとうございます」
「でも、一つだけ、約束して下さい」
「それはもちろん、帰ってまいります。旅の空で、別な女と、など……」
「そんなことでは、ありません。父の仇討ちです」
「あ」
「父の仇、必ず討つつもりです。東上様、武者修行で技量を磨き、仇討ちの手助けをしてください」
「もちろんです」
塚原千秋は、笑顔になった。
そして真顔になり、言った。
「新当流免許皆伝の証たる尼子秘帳は、塚原家から出てしまいました」
「残念です」
「その代わり、塚原道場を引き継ぐ免許皆伝の証として、仇討ちの手伝いをすること」
「そのお約束、必ず……」
「武士の面目にかけて?」
「はい」
二人は歩き去った。
林立する墓の間から黒鷹精久郎現れた。
今の話を聞いていたのである。
その日の夜のことである。
日本堤の料理屋『名月』に、萩家の江戸家老、吉田吉次郎が座っていた。
脇に用人がおり、下座に若い侍が座っている。
この前と同じ顔ぶれである。
江戸家老は、下座の侍の話に耳を傾けている。
話が終わると、江戸家老は、考えて、そして言った。
「話からすると、その、黒鷹精久郎とやら、尋常ではないな。
思い違いをしていた」
用人が頷いた。
江戸家老が続ける。
「一度目的を決めたら、それを果たすまでは、絶対にあきらめない。休みもとらない」
用人が聞いた。
「如何、いたします?」
「頑固者は、倒すしかない」
「では、また?」
「やろう。御府内からどこかへおびき出して。
どうやっておびき出すか、だが」
江戸家老は考えた。
江戸家老は、下座の侍に声をかけた。
「おい。西野」
下座の侍、つまり西野金四郎が答えた。
「は?」
「あ奴、四天王の三人に、試合の事を誰かに話さなかったか、と聞いたのだな」
「はい」
「そして、誰にも話してない、と返事を聞いた……」
用人が聞いた。
「その返事を真に受けましたでしょうか?」
「そう簡単には、信用しまい。
だが、だからといって……」
江戸家老は、考えながら言った。
「ううむ。黒鷹精久郎が手がかりとするのは、西野と東上しかいない……」
用人が、言った。
「こちらから手を打ちますか?
尼子秘帳の手がかりを掴んだ、というようなことを西野に言わせて……」
西野金四郎が言った。
「もちろん拙者が動きますが、しかし、黒鷹も馬鹿ではございません。
釣り上げるには、餌と分からない餌が必要かと存じますが」
江戸家老が、重々しく言った。
「急いては事をし損じる、と言う。おい、西野」
「は?」
「二日ほどやる。
何か策を考えよ」
「かしこまりました」
用人が聞いた。
「でも、その間に黒鷹が何かをしたら?」
西野金四郎が言った。
「その時は、かえって好都合。
黒鷹の動きを使わせていただきます」
江戸家老が、この場の結論を出すように、言った。
「よかろう」
新吉原の往還は、山谷堀を舟でするのが粋とされている。
浅草寺との間の田地を通るのは、野暮というものであろう。
しかし、人目を忍ぶには、この道の方がよい。
それで、西野金四郎は田地の中の道を帰りかけていた。
雑木の間から、黒鷹精久郎が現れた。
西野金四郎の前に立ち、言った。
「聞きたいことがある」
西野金四郎が言った。
「誰にも話してない、と答えたではないか」
「そんなことではない。尼子秘帳の置き場所を聞いているのだ」
「知らん」
「先ほどの密談、聞かせて貰った」
西野金四郎は、一瞬、うろたえた。
だが、すぐに気を取り直して、言った。
「それなら分かるだろう。御家老が持っている。
置き場所は知らない。
私は御家老の手下にすぎない」
「だが、おぬしは策士だ。
置き場所はここ、と読んでいるはずだ」
西野金四郎は、黙ったままである。
黒鷹精久郎が言った。
「言わないなら、頷くだけでもいいぞ」
黒鷹精久郎が刀を抜いた。
西野金四郎は、戦う意志も見せず、立ったままである。
黒鷹精久郎が言った。
「先ず、主家の上屋敷や中屋敷ではない。
今度の事、家命ではあるまい。
十人ほどの侍が弓矢を持って江戸の町を動く。
家として、そんなことを許すはずはないからな。
江戸家老吉田吉次郎の独断。
あの十人の侍も江戸家老の腹心。
今、萩家では、嫡子をめぐって御家騒動が起きている。
江戸家老が独断で陰謀を企てたのだろう。
ああ、おぬしが、実は萩家の家臣であることは、分かっている。
同心の芥川行蔵に調べてもらった」
黒鷹精久郎が刀を振った。
西野金四郎の袴帯が斬られた。
袴が落ちる。
腰の大小も落ちた。
黒鷹精久郎が話を続けた。
「江戸家老吉田吉次郎の独断なら、家の屋敷には、尼子秘帳を置けない。
では、何処だ?
江戸家老の持ち家だろう。
おい、持ち家は幾つある?」
西野金四郎は、恐怖に震える声で答えた。
「江戸に四つ」
「増上寺にいちばん近いのは?」
「尾張町。
町屋を買い取って、謀に使っている」
西野金四郎は、町屋の場所を、詳しく教えた。
「なるほど。それで、尼子秘帳は、家の中のどこにある?」
「知らない」
黒鷹精久郎が刀を振った。
西野金四郎の腹が、薄く斬られた。
血が服に滲んで来る。
黒鷹精久郎が言った。
「おぬしは策士。
保身のため、隠し場所は調べてあるはずだ」
「分かった、言う、言う。
床の間だ。
床柱の中が隠し場所になっている」
「その町屋に住んでいる者は?」
黒鷹精久郎は、その町屋に、侍が一人、小者が二人、住んでいることを聞き出した。
黒鷹精久郎が言った。
「他に聞いておくことはないな?」
「ない、全て話した」
「よし」
黒鷹精久郎は、無造作に西野金四郎の右腕を斬り落とした。
黒鷹精久郎は、その足で、尾張町の町屋へ行った。
侍と小者二人を縛り上げ、尼子秘帳を床柱から取り出した。
黒鷹精久郎は、縛り上げた侍に言った。
「私の物を取り返した、と吉田吉次郎に言え」




