脱出
エリシャが帰ってきた。髑髏の面を被り、男物の燕尾服の背の裾をはらりと巻き上げ、キキョウのベッドに腰掛けた。いつもの癖で足を組む。
「遅かったね。どうしてフィロを生かしたんだ?」
「……私の勝手よ――っていうかどうしたのよその姿は」
「いい加減フィロの姿を借りるのも悪いと思ってね。自分で造ってみた」
「……本当に何でもありなのね」
「あ、あの……そちらは……?」
キキョウが俺の裾を掴んだ。話の途切れるのを待ってから声をかけてくる辺り、エリシャを怖がっていることが窺える。それもそうだ。俺だって彼女だと知っていなかったのなら、不安になる。
「エリシャだよ」
「ええ!? エ、エリシャ様ですか!?」
「そうよ。私よ」
エリシャは仮面を外した。零れた赤い髪が肩の前に垂れた。彼女はそれを後ろへ遣り、首元を手で扇いだ。
「吃驚した?」
「はい……とても」
安心したのかキキョウは俺の裾を離した。そして、床に膝と手を付き、深々と頭を下げる。それは俗に土下座と言われるものだった。一瞬の空白の後、キキョウが口を開いた。
「この度はこの下僕めの為にして頂いた数々のご厚意、誠にありがとうございます。下僕めは感無量にて御座います。一生掛かってもご恩を返したい所存です。しかし、この下僕めはお二方に助けられる理由もなく、困惑しているのもまた事実にて……」
キキョウは唾を飲み込んだ。次の言葉が繋げないようである。
「……故にその厚意は……う、受けるに値しないと――!」
そうして何拍か溜めると、一息に言い切った。指先は細かに震え、床に頭を擦り付けたその姿はあまりにも憐れであった。俺は彼女の卑屈さの根底あるものを知らない。だが、一言に奴隷だからと言い切ってしまうのは良くない気がした。
この卑屈さはキキョウ本来のものではあるまい。きっとどこかで植え付けられたものだ。昼間の俺たちとのやり取りを見るに、それは断言できる。ただ、それを聞こうにも一度顔を上げてもらわねば気分が悪い。俺はキキョウを起こそうと手を伸ばした。が、それよりも先にエリシャが彼女の肩に手を置いた。キキョウが顔を上げる。
「貴女……勘違いしているわ。私は貴女を助けに来たわけじゃあないの」
「えっ?」
「貴女を奪いに来たのよ」
キキョウは益々困惑した顔になった。むべなるかな、彼女の心情をこれほど読みやすいと思ったことはない。顔色も紅潮し、視線も泳ぎ、自分でも気が付いていないのか服の裾を握りしめている。端的に言えば、キキョウはエリシャに惚れたのである。
「え、ええっ!? あの、それは――!」
「そのままの意味よ」
「ですが――! エリシャ様にはネモ様が――!」
「どうしてそこでネモの名前が出てくるの? ネモも合意の上よ」
口をぱくぱくとさせ、しどろもどろに俺を見たりエリシャを見たりと忙しそうだ。
「ご、合意とは!?」
「そんなもの今はどうでもいいの。兎に角、貴女に拒否権はないということよ」
男装したエリシャが言うと様になる。不意にも俺は認めざるを得なかった。たとえ俺が言ってもキキョウをここまで揺れ動かすのは無理であろう。キキョウは完全に堕ちていた。
それが、恋愛的な意味であるのかはわからない。だが、キキョウの顔を見るに恋する乙女の顔であることは間違いない。一瞬にして芽生えた百合百合しい空気に居たたまれなくなった俺は、咳払いをした。
「あ、ああー。話の腰を折って悪いが、この豚野郎はどうする?」
俺は床に転がる豚野郎を足で小突いた。小さく呻いた……名前は何と言ったか――まあいい、豚野郎がよろよろと起き上がった。エリシャは今まで存在に気がついていなかったようで、汚物を見るような目を向ける。
「うわあ、何この汚いの」
「キキョウの元主人だ」
殊更俺は『元』を強調した。キキョウはまだ心の整理がつかないのか複雑な眼差しを向けている。
「じゃあどうする? 殺す?」
「……エリシャって最近容赦ないよな」
「そんなことないわよ。私は十分慈悲深いわ」
俺は首を竦めた。横を見ればキキョウも目をぱちくりさせ、何か嘆願するような眼差しを向けている。キキョウの言いたいことも何となくわかる。酷い主人だが、一応は養ってもらっていた身だ。命だけは見逃して欲しいとでも言いたげな……これは何と言うのだったか――。
『ストックホルム症候群ですね。彼女は軽度のストックホルム症候群を発症していると思われます』
治療法は?
『軽度ならばある程度のカウンセリングで大丈夫でしょう。ですが、ふとしたことで拷問の記憶がフラッシュバックする恐れがあるので、PTSDの治療も同時にすることを薦めます』
ならば丁度いいな。キキョウは百合の気があるから、エリシャがいい依存先になりそうだ。
『ストックホルム症候群は依存癖がある人が発症しやすいですので、新たな依存先を用意するのも良い考えかと思います。ですが……』
ですが、何だ? 続きを聞かせろ。
『キキョウ様は同性愛者に見えますが、その本質は違うと推測します』
へえ、根拠は?
『それを言うのは野暮というものです』
……そうか。ならいい。別に根掘り葉掘り聞くのもどうかと思うし、このようにキキョウのことを探るのは先入観が先行してしまい、よくない。
ふと見れば、エリシャは焼き鏝を手に振りかぶっているではないか。おいおい、本当に殺す気なのかよ。ふうむ、キキョウの嘆願もあることだし、止めることも吝かではない。だが、この豚野郎は死ぬべき人間だ。彼の行った行為を鑑みれば即刻処刑でいい。
果たしてそれはエリシャにやらせていいものだろうか。今後のキキョウの治療のことを考えると、エリシャにはキキョウの依存先になって欲しい。それをエリシャが豚野郎を殺すことで台無しにはしてしまわないか。であるならば――。
「俺が殺そう」
俺はエリシャから焼き鏝を奪うと、返事も待たずに豚野郎の頭をかち割った。零れる脳漿、飛び散る血液、崩れ落ちる体は肉塊となった。
エリシャがやや不満そうな顔をしているのはいいとして、俺はキキョウと向かい合った。
「悪いな。やっぱりムカついたから殺してしまった」
「……仕方のないことです。この人は私に沢山酷いことをしてきました。その報いと考えれば……」
「辛そうだな。殺さないで欲しかったのか?」
「……」
キキョウが顔を背けた。俺はわざと意地の悪い聞き方をした。
「私がやりたかったんだけど」
後ろから静かな殺気を感じ振り返ると、エリシャが冷たい笑みを浮かべている。ん? いつからエリシャちゃんはこんな冷血漢になってしまったのでしょうか。
「キキョウちゃんを虐める奴だから私が殺したかったんだけど」
「――悪い。殴りたいならほら、今なら動かないから当てやすいぞ」
俺は血の滴る焼き鏝をエリシャに差し出したが、彼女は受け取らなかった。あろうことに俺と距離を取り始めるではないか。俺が何を言ったというのだろう。
「ネモって時々酷いこと言うよね」
エリシャにだけは言われたくないのだが、キキョウも若干下がり始めているということは、俺はやはりおかしなことを言ったのだろう。よくわからないが。
『恐らく、当てやすいの下りでしょう。普通の人間ならば死体に鞭打つ行為を良しとはしません』
いや、あれは冗談だって。
『ですが、エリシャ様が受け取ろうとしても、マスターは止めなかったでしょう』
……否定はしない。
遠くの方から金属音の擦れる音が聞こえてきた。どうやら、敵の誰かが呼んだ援軍が到着したらしい。俺は気まずい空気を断ち切るように、窓まで行くと望遠機能で音の出所を眺めた。距離は五百メートル。重装歩兵の奥に戦闘魔術師と弓兵が隊列を組んで迫ってきている。数は二百五十だ。
「エリシャ」
「逃げるわよ」
「で、ですが……!」
「キキョウちゃんに拒否権はないよ」
「だとさ」
「そんなあ」
俺はワイバーンの姿になると二人を背中に乗せて飛び上がった。
援軍は突然のワイバーン出現に驚いたようで、一斉に臨戦態勢に入ると、戦闘魔術師たちが遠距離攻撃魔術の準備を始めだした。無論そのようなちんけな魔術で俺を落とすことは出来ない。魔術を放ったとしても、俺に届く前に俺の纏う魔力に掻きけされるのがオチだ。
「中々展開が早いな。遠距離攻撃魔術をもう構築したのか」
「あれは大丈夫なんですか!? もし当たったりしたら……」
「心配無用よ。攻撃が届くことはないわ」
眼下では展開された魔法陣が幾つも俺に照準を合わせている。まあ、好きにさせておこう。
直後、一斉に魔術が放たれた。精度も中々のようで三割ほどが俺の体を捉えている。が、先述の通り俺に効くものではない。ワイバーンの体を手に入れた俺に攻撃を当てたければ、戦略兵器でもなければ無理だろう。魔術は俺の体に届かずに途中で霧散した。
眼下の兵士たちの慌てようは凄まじいものであったが、俺は気にも止めず雲に向けて高度を上げた。
こうして俺たちは堂々と脱出に成功した。この事件は後にコクーラン邸襲撃事件として対魔物戦の教訓となるのだが、それを知る者はいなかった。




