強欲のエリシャ
ネモから撤退の合図があった。
エリシャは眼下に広がる暴虐の嵐の跡を満足げに眺め、溜め息を吐いた。倒れ伏す兵たちに、果たして息のある者はいるのだろうか? それは彼女自身も知らない。何分、彼女は細かいことを気にする性格ではない。一か零か、表か裏か、白か黒か、というようにはっきりと分けたがる性格でもない。だから、兵たちが死んでいようが生きていようがそんなものはどうでもいい。
動くもの一つない屋敷をぐるりと見渡し、エリシャはネモの元へ向かおうとした――ふと、視界の端に動くものを捉えた。彼女が不思議に思い近付いてみると、そこには、ネモから渡された人物リスの中で見かけたフィロがいた。彼は胸部を負傷していた。傷の具合を見るに、長くは持たないだろう。
「ごほっ……うぅ……僕を殺しに来たのか」
「…………」
「……人間風情には口も聞けないのか」
「…………」
「……うぅ……お前の目的は何だ? ……どうしてここへ来た」
「…………私が欲しいと思ったからよ」
エリシャはネモから作戦中に誰とも話してはいけないと言われていた。だが、彼女はその禁を破ってフィロの問いに答えた。
「……欲しいって何をだ?」
「……黒の一族のキキョウちゃんよ」
「キキョウ……どうして彼女を?」
「あなた知らないの? 彼女、拷問を受けていたのよ?」
「ごほっ……ごほっ……そんな、まさか」
「だから助けてあげたのよ」
「……僕らを皆殺しにして?」
「そんな気は無いわよ。私は陽動だもの。ただここで暴れていればいいだけ。今ごろ私の仲間がキキョウを救出した頃よ」
エリシャは腕を組んだ。フィロとかいう男はどうせすぐに死ぬ。少しの時間潰しだ。それに、この男はネモが姿を借りていた男でもある。どんな男なのか少しだけ知りたくなったのだ。
「……変わった魔族だな……人間を助けるなど聞いたこともない」
「…………」
「……はぁ、はぁ……うぐっ……最近、精霊たちの動きが活発になっているのもお前たちのせいか?」
「……一部はそうかもね」
「……これもやはりダンジョンの影響か……また沢山の国が滅ぶ」
この世界では二百年毎に世界中のあちこちにダンジョンが出現する。ダンジョンにはそれぞれ一種類の技術が宝として隠されており、この世界はその宝を発掘することで繁栄してきた。第一次ダンジョン群では火縄銃を始めとした武器や三種類の文字を使い分けて書かれた珍しい物語などが大量に発掘された。第二次ダンジョン群では人間でも扱える魔術が発掘された。
その度にそれまであった国々は滅び、勃興し、群雄割拠を繰り返している。ロールスト連合国が連合という形を取っているのも、国が滅びてもそれぞれの領主が存続できるようにしているからだ。
フィロが顔を上げた。こうして見ているとネモとほとんど見分けがつかない。エリシャは思わず目を逸らす。
「キキョウちゃんはどんな子なの?」
「……とってもいい子さ。些細なことに気が回るし、真面目でおしとやかで……ごほっ、ごふっ……黒の一族なのが勿体ないくらいだ……それに隠し事がとても上手だ」
「確かに上手だったわね。私のネモは騙せなかったけれど……」
「……ははは……うぅ……僕はもう死ぬみたいだ……君がキキョウを助けに来たというのなら彼女は君に任せよう……声を聞いた限りでは女性のようだし、そう酷いことにはなるまい……」
エリシャは仮面の奥からフィロをしっかと見下ろした。目算でもあと五分も持つまい。ゆっくりと流れ出す赤い泉が、彼の胸から寄り掛かる岩に落ち、温い血溜まりを作る。短く荒い息が彼のタイムリミットの如く時を刻む。
残った蜘蛛がエリシャの周りに集まってきた。ネモが心配しているらしい。不意に、彼女は蜘蛛の一匹を掴むとフィロの口に放り込んだ。蜘蛛たちは一瞬固まったが、彼女の意図を汲み取ると我先にと口と傷口に殺到した。
「貴族にも貴方のような人もいるのね。キキョウちゃんは貴方の遊び性を心配していたけれど、この分なら大丈夫かしら? だから、私からの贈り物よ。しっかり養生しなさい」
「があぁ……! な、何をしている……! 殺すのなら早く殺せ!」
「逆よ。生かすのよ。貴方を私が生かすの」
「うぐぅ……! あ、熱い! 体が熱い!」
「じゃあ私は行くわ。体を大事にしなさいね」
エリシャはネモの元へ向かった。残されたフィロは虚ろな瞳で彼女の後ろ姿を眺めていた。薄れ行く意識の中、遂にフィロは倒れた。体の内から聞こえる、聞きなれない言語が子守唄のように彼を眠らせた。




