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別れと出立

 ヴェン・アルクドルクは静かに眠っていた。ベッドに横になり、胸に海底二万マイルを開きながら永遠の眠りについていた。ふと、部屋を見渡せば、爆発の余波なのかベッドの横の窓が開いており、その淵には二羽の鳥が停まっている。窓が割れていることを除いて部屋には日常の風景を切り貼りしたような光景があった。

 俺はヴェンが持っている本を手に取った。彼の読んでいたページは、鯨の群れをノーチラス号が蹴散らす場面であった。その付近の紙質が他の箇所と比べて傷んでることから、ヴェンはこの場面を気に入っていたようだ。

 ヴェンの顔はやつれて憔悴し切っている。彼がどれだけの重責を負っていたか見てとれた。俺はヴェンに寄り添うエリシャの正面に立った。と言えども、俺はスライムなのでベッドの枕元に乗っかっただけだが。

 エリシャは泣いていた。静かに泣いていた。嗚咽を噛み殺し、溢れる涙を見せまいと必死に拭い、垂れる鼻水を懸命にすすり、泣いていた。この場に俺が掛けるべき言葉はない。俺は何も言わずに彼女の頭を撫でた。


「……ありがとう、ネモ。私、泣いてなんかいないわ」


「嘘だ」


「いえ、本当よ」


「…………」


「泣いてなんかいないわ」


「君がそう言うのなら……」


 エリシャは顔を上げた。その顔は涙に濡れていた。


「……ね?」


「そうだな。泣いていない」


 エリシャは、冷たくなっているヴェンの手を取り上げて頬につける。


「もし……もし、俺がエリシャの父さんを生き返らせることが出来る、って言ったらどうする?」


「……そんなの父さんが望まないわ……それに、ネモの言う生き返らせるは、元通りになる訳じゃないんでしょ?」


「うん。元通りにはならない。体の機能が完全に停止している以上、骨格すらも俺の力で造り直さなくてはならない。だから……人間と呼ぶこともできない」


「そんなの悲しいわ。それこそ私は泣くわよ。大声で泣くわよ」


「それは悲し過ぎるな」


「でしょう? だから父さんを生き返らせるなんてことは言わないで頂戴」


 エリシャはヴェンの手に握られた海底二万マイルを手に取った。それをぱらぱらと捲り、あるページで止まる。


「懐かしいわ。これ、寝る前にいつも父さんに読み聞かせてもらっていたの……父さんは優しい人だったわ」


「知ってる。エリシャを見ればわかる」


「……もう! こんなときにお世辞は止めて」


「お世辞じゃないが」


 本を置いてエリシャが立ち上がった。窓の淵にいた二羽の鳥が空に飛び立った。


「どうするんだ?」


「どうするって何を?」


「言い辛いが、君の父さんは助けられなかった。俺たちに残されたのは敵だけだ。こうなってしまった以上、仕方のないことだけれど、これから先の人生は途徹もない苦難の道だと思う。何か案が……」


「そんなものはないわ。けれど、今行きたい場所はあるわ」


「何処?」


「隣の大陸よ」


 隣の大陸は人類の支配する領域ではない。数多くの魔族が闊歩する人類未踏の領域なのだ。その領域に行くということは則ち死を意味する。

 人間と魔族の種族的優位性は揺るがない。魔素という空気中の八割を占める物質を主として体が構成されている生物と、魔素を殆ど取り込めない体の人間。この世界でどちらが有利かは話すべくもない。


「エリシャ、君は正気か?」


「私はいつでも正気よ。そう言われることを承知で提案したの」


「だが、君は人間だぞ」


「あら、私にはあなたの体の一部が入っているのよ。半分は人間じゃないわ」


「変な言い方は止めてくれ……。まあ、確かに事実だけれども。だが……!」


「くどいわ。私は決めたの。こうなった以上どこまで行けるのか確かめてみたいのよ」


 心なしかエリシャが頼もしく見える。これが成長――とでも言うのだろうか。俺にはそう映った。始めの頃に見せた手弱女振りは何処へやら……。眼前の少女は、力強い生きる意志に溢れた一株の若木であった。

 


 

 俺たちはヴェンを運び出して埋葬することにした。予め造っておいたスライムのナノマシンにヴェンを入れ、俺自身はエリシャの肩に乗って屋敷を出る。屋敷の外でワイバーンの姿に変身すると、エリシャとヴェンを包んだナノマシンを背中に乗せ、アルクドルク領へ飛び立った。

 今頃になって隣町からの援軍が駆け付けたようだ。屋敷の立つ丘の下に続々と集結し始めていた。気が付けば、辺りの日が落ちていく時間になっている。屋敷から見える山の麓の集落には、既に明かりが灯っていた。雲をめがけて上昇し雲上にでると、真っ赤に燃えた日の入りが見えた。

 東には一番星輝き、西には日の残り火が空に残っている。それもなくなり天上が星に埋め尽くされる頃、俺たちはアルクドルク領に到着した。

 俺たちの姿を見た人々の驚きようと言ったら……。既にワイバーンの出現は皆の知る所なのか、口々に領主様領主様と騒ぎ逃げていく。それらを無視して、エリシャの住む屋敷に降り立った。

 待ち構えている兵たちを俺の魔力で退け、エリシャが背中から降りた。


「エリシャ……様?」


 兵たちに動揺が広がり、誰もが信じられないと、一種の畏怖のようなものに取りつかれたのか、誰も言葉を発しない。


「ただいま。皆元気にしてた? 最近は色々あったけどどうかしら? ジェシュはまたバカをしていないでしょうね? ミントは食器の位置を覚えられたかしら? タチ、私の馬の手入れは万全? ライムは今日くらい仕事の手を抜いてもいいのよ?」


 すると、屋敷の方から兵を割って現れる人影があった。


「エ、エリシャ様? 本当に? わ、わた、私はてっきり……」


「久し振りミント。地獄から帰ってきたわ」


「地獄……からですか。それに後ろのワイバーンは一体……?」


 ミントと呼ばれた使用人が恐る恐る俺を見た。


「ネモのこと? 私の命の恩人よ。決してあなたたちには危害は加えないわ。――ちょっと! 皆怖がっているじゃない! 元の姿に戻りなさいよ!」


 エリシャが小声で耳打ちをする。俺は溜め息をついてスライムの姿に変身した。


「これでいいか?」


「し、喋った!? スライムが喋った!?」


「魔族……らしいからな俺は。喋りもする」


「今日来たのは他でもないわ。父さんを連れ帰ってきたの。だからあなたたちで丁寧に埋葬して上げて頂戴」


 俺は後ろにあるナノマシンを前に運び、棺桶のように上部を開いた。その中にはヴェン・アルクドルクが安らかに眠っていた。


「そ、そんな! ご主人様!? こ、こんなお姿になられて……」


 ざわざわと周囲がざわめき立つ。小声だが俺にはヴェンの死を嘆く声が聞こえてきた。


「ご主人様はコクーラン様の領地で療養していたのではなかったのですか?」


 勇気ある兵士の一人がエリシャに質問した。


「話すと長くなるから手短に言うわ。コクーランは私が殺してきたわ。父さんを殺したからよ」


「……エ、エリシャ様が殺したのですか?」


「そうよ」


 従者たちはエリシャの変容ぶりに驚いていた。だが、彼らの言いたいこともわからないでもない。それまでの気品ある佇まいから、今はさばさばとした、いや、粗暴といっても差し支えない立ち振舞いに変わっているのだ。


「だからあなたちに葬儀をお願いしたいの。私は世間では大量殺人鬼のお尋ね者。何時までもここにはいられないわ」


「当ては、当てはあるのですか?」


「ないわよ。でも私にはネモがいる。それだけで十分よ」


 エリシャが俺を拾い上げた。俺は精一杯胸を反らせる。


「わかりました。ご主人様の葬儀は私たちが責任を持って執り行います。その代わり、また帰ってきてください……ここがエリシャ様の家なのですから」


「勿論よ。もっと力を付けたら帰ってくるわ。そのときまできちんと屋敷を保ちなさいよ?」


「「畏まりました。ご主人様!」」


 こうしてエリシャと俺は彼女の実家を離れた。

 この日、各地にワイバーンの目撃情報が寄せられ、連合国議会は事態の収拾に徹夜で臨んだらしい。可哀想だとは思うが、だからといって何かをしてやる義理もない。是非とも頑張って欲しいところだ。

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