身代わりの術
さて、そろそろ事のカラクリについて話そう。どうしてエリシャが処刑され、俺はその救出をしなかったのか。留置所にいたとき、裁判のときなど確かに俺の力を以てすれば彼女を助けるのは容易いはずだ。
ワイバーンに乗って白馬ならぬ騎竜の王子としてエリシャを助けに行けば、連合国中……ひいては大陸中の話題になり、一躍時の人になること間違いない。無論、それは悪評を轟かすことになるわけだが……それでも彼女を謀殺しようとしていた連中は歯噛みして悔しがるだろう。
そうしなかったのは偏に俺たちは自身の存在を消したかったからだ。エリシャが大量殺人鬼の汚名を着せられ、更に彼女の父親が憂き目に遭っている。それを打破するためには、どちらかの要素を排除しなくては成功は見込めない。
憲兵たちを金魚の糞の様に引き連れて行っても邪魔にしかならないのは目に見えているわけだし、仮に父親を救出してしまえば、俺たちを追っていた憲兵と父親についている憲兵が集合し、二倍の戦力を相手にしなくてはならない。
言ってしまえば、大勢の敵を相手にするのは面倒だから、処刑されたことにしてマークを外し、影で暗躍するヒーローになってしまおう、という訳なのだ。勿論、この場合のヒーローとは俺たちの言い分であり、向こう方からすれば俺たちはただの犯罪者、いや連続殺人犯になる。
だが、ヒーローというものは正義の味方と言い換えることが出来るように、誰かがこれを正義だと確信すればそれが正義となり、すなわちヒーローとなる。
わかりやすく言うと宗教戦争がこれに近い。お互いが自身の信仰こそが正しい、と思い込んでいるばっかりに相手を非難し、傷付け征服しようとする。両者にあるのは利害関係ではなく、確信犯的な正義感なのだ。
であるからして、俺たちと向こう方には対話をする術がない。俺たちは自身の信ずる正義を遂行し、向こうは向こうで信ずる正義を遂行している。
これらの戦いは余程のことがない限り和平というものは存在しない。そもそも和平などしてしまえば、それは自身の正義の喪失に繋がり、相手の正義を享受するという結果が残る。故に、俺たちはエリシャの父親を助けるまでは止まらないし、向こうも俺たちを完全に抹殺するまで止まらないだろう。
俺は既に引き返せないのは知っていたし、引き返す気もなかった。エリシャの困難は俺の困難であったし、彼女の災難は俺の災難なのだ。
それが俺の責任だと自負している。エリシャを生かしたこと、それすなわち修羅の道であると。一度振り払ったならば、これから先彼女の死を望む某かが振り下ろす刃を弾いて行かねばならない。でなければ、俺自身を許せない。
腹立たしいが、今ごろエリシャを処刑したと思い込んでいる連中は、のうのうとふかふかのソファの上でふんぞり返っているだろう。これで、彼女の父親の手綱を取ったと鼻を高くしている筈だ。
しかし、そうは問屋が卸さない。俺はあえて森の浅い場所に仮の居を構え、あえて定住し、あえて捕まるように少しずつ情報を流した。
ナノマシンを常にばらまき、既にあらかたの情報は掴んでいる。
思い知らせてやるのだ。
お前たちが腰かけているソファに毒針は仕掛けられていないか?
お前たちが飲んでいるワインに毒は入っていないか?
お前たちのベッドに天井から鋭いナイフが吊るされていないか?
お前たちの乗る馬車に細工はされていないか?
連中にきついお灸を据えてやろう。脂ぎった体はさぞかし燃えるだろう。それこそ、体すべてを燃やし尽くすかもしれない。今にも消えかかったろうそくは儚げで美しい。ならば、連中も最期は綺麗に燃え尽きるかもしれない。




