鳥の舞、或いはノーチラス号
一方その頃、元第二盟主のヴェン・アルクドルクはというと、第三盟主コクーランの領地に幽閉されていた。
草木も映える初夏の昼下がり、ヴェンは窓の向こうを飛び回る二羽の鳥を眺めていた。追いつ追われつ切り揉み飛行、上へ下への曲芸は、彼の傷付いた精神そのものだ。
ベッドから動けないヴェンにとって、それを眺めることは読書以外の娯楽だった。彼はあの鳥がどうして追いかけっこをしてるのか理解できずにいた。しかし、彼はこの時間になると読んでいた本を置いて、今か今かと鳥たちの舞を楽しみに待つのだった。
この舞は毎日見られるわけではない。どうしてか、彼の機嫌が悪いときに決まって現れるのだった。近頃はコクーランの顔を思い出す度に現れては、その荒々しい舞を見せてくれるのだった。
彼の機嫌はこの舞を見ると、いつのまにか鎮まっていることが多い。自身が追いかける方の鳥になってコクーランを追いかける妄想をする。そうすると自然と苛立つ心が収まっていくのだ。
ヴェンは身も心も疲れ果てていた。それこそ、政界という言葉を聞いただけで、手が痙攣してくるほどに。故に彼の部屋には仕事を思い出させるようなものは何一つとして置いていない。この部屋はコクーランが療養のためにと与えてくれた部屋だ。
部屋には彼の寝るベッドと物書き机、一脚の椅子と、壁一面の本棚があった。ベッドの左横向かいに本棚があり、左手に鳥の舞を見ることの出来る窓がある。ベッドの横にある物書き机の上には一つのロケットが置かれていた。
ヴェンの朝は早い。悪夢にうなされて、目が覚めるのである。見る夢は、決まって娘のエリシャが身の毛もよだつ化け物に殺される夢か、その化け物に犯される夢だ。ヴェンはそれを傍観しており、何故か動けない。
その夢を見るようになったのはエリシャが処刑されてからである。それから早二ヶ月が経った。未だに墓参りにも行けていない。何度も行かせてくれと頼んだが、自身の容態を理由に医者から止められている。それでもヴェンは粘った。夜更けに何度脱走したのかわからない。その度に見つかり、ここへ戻される。そして、諦めろと言われるのだった。
ヴェンはコクーランが自身を生かす理由をおおよそ察していた。恐らくヴェンの所属していた東部同盟の中の裏切り者をコントロールするために生かしているのだ。もし彼を殺してしまうと、引退したとはいえ、生きているだけで影響力を持つ元盟主なのだ、首輪の無くなった猛犬をどうやって静めれば良いのだろうか。
ヴェンは自殺することも考えた。しかし、何らかの魔術がかけられているのか、どれもが失敗に終わった。あまりの悔しさに一晩に二度も枕カバーを取り替えた。
今でこそ落ち着いているように見えるが、それは窓の外にあの鳥を見つけたからだ。ヴェンの精神は鳥の舞によって何度救われたかわからない。
まだ涼しい風が部屋に入ってくる。もう少し経つとこれが不快なものに変わるだろう。窓の外に広がる山々とその稜線を別つ境界線には手が届きそうにない。山間の襞を川が走り、その麓では多くの農民たちが農作業をしていた。
ヴェンのいるコクーランの屋敷は小高い丘の上に建っているので、遠くの農民までよく見えた。無論よく見えたと言いしも、その姿は点となり男女を判別することすら叶わない。
ヴェンははっとして窓の向こうに鳥たちを探したが、その姿はいつのまにか消え失せていた。苛立たしさも消えている。彼は深呼吸をして読みかけの本を手に取った。
今読んでいる本は、エリシャの小さい頃によく読み聞かせていた『海底二万マイル』という小説だ。これは二百年前出現した第二次ダンジョン群から回収された技術のうちの一つであり、この本が出土したダンジョンからは、様々な『かがく』なるものが日常に溢れた世界での物語が出土した。
今では、貴族ならば読まなければならないダンジョンの向こう側を知る貴重な文献として、活版印刷にて量産して普及している。
もう少しでネモ船長が鯨なる生き物たちを血祭りにあげる場面に入る。ヴェンはこの場面を読むと訳もなく涙が止まらなくなるのだった。
この場面はネモ船長の素性を推し量ることの出来る貴重な場面である。ヴェンはネモ船長と自身を重ね合わせている。そして、反抗することの出来ない自らを嘆いていた。
ヴェンにはノーチラス号が必要なのだ。鯨を殺す力が必要なのだ。そして刑死したエリシャ、病死した妻のアイシャの墓参りに行くのだ。
日が山背に隠れる頃、ヴェンは『海底二万マイル』を読み終わった。大きく溜め息を吐き、本を物書き机の上へ置いた。枕元にある呼び鈴を鳴らし使用人に窓を閉めさせ、魔術の灯りを点けた。
部屋から出ていく使用人の姿を見送りヴェンは再び溜め息を吐いた。使用人は黒の一族だった。
窓の外を見れば、山間の襞には夜が身を横たえ、徐々にその範囲を広げている。稜線と夕空の境目が段々とあやふやになり、真っ黒な木々が空へ溶けていった。
魔術の街灯が網目状に広がり、それは凪いだ湖畔のように天上の星々と会い見え、揺れ動く。走る馬車も流星となって、煌めく星の海へ漕ぎ出した。
ヴェンはもう一度呼び鈴を鳴らした。暫くして夕食が銀製の台車に乗せられて運ばれてきた。今晩の夕食は煮込み魚をメインに卵のスープ、柔らかい白パン、果実の盛り合わせだった。
決して多くはない量だが、病人にはそれでも食べきれるか怪しい量だ。ヴェンはそれでも食べ切った。これを残すのはコクーランに負けた気がするのだ。
三度目の呼び鈴を鳴らし、使用人に食器を下げさせようと待っていると、普段よりも長い時間が経過した。ヴェンがもう一度呼び鈴を鳴らそうと手を上げると扉が開いて使用人とコクーランが現れた。
自身を陥れた首魁であるコクーランを前にしても、ヴェンは物怖じはしない。コクーランはヴェンの食後に決まって使用人と共に現れた。食器を持った使用人を返して、彼はベッドの前の椅子に腰掛けた。
「今日も本を読んでいたのですか?」
「…………」
「海底二万マイルですか?」
「…………」
「それも良いですが、こちらなんてどうでしょう? 言葉が身に沁みますよ」
コクーランは紐で纏められた一冊の本を差し出した。それには古代ダンジョン文字で『新古今和歌集―第四十八版』とかかれていた。
ヴェンはその本を黙って受け取り、机の上に無造作に放り投げた。コクーランはそれを眺めながら頬杖をつく。
「まだ口が利けませんか……」
ヴェンは心労による後遺症で失語症になっていた。言葉を発しようとしても喉が支えてその先が続かない。どうしても話そうものならえづいてしまい咳き込んでしまうのだ。
であるからして会話の手段は筆談になる。コクーランは使用人に持ってこさせた小さな黒板をヴェンに渡した。彼は黒板を引ったくると、黒板に挟まっていた白墨で『失せろ』とロール語で書いて見せた。
「まだ、私と話をしてくれませんか?」
『失せろ』『外道』
「まだまだ道のりは長いですね。わかりました。出直してきます」
コクーランは机に置かれた『新古今和歌集』取り上げようとした。すると、ヴェンが黒板を机に叩き付けた。そこには『それは置いていけ』と書かれている。コクーランは苦笑した。
「まずは一歩ですね。しかし、対話出来るようになるには何時迄かかるのでしょうか」
今日はこのくらいだろう、とコクーランは引き上げることにした。初めてまともな対話が出来たと言える。まさかあの本に興味を示すとは彼も予想外だった。
コクーランは扉を半分程開けて体を半身だけ廊下に出すと、ヴェンの方を振り返って言った。
「そうそう、エリシャ嬢が亡くなってから明日で二ヶ月が経ちますが、私とヘイレン公の二人で追悼式を催そうと思っています。貴方もご出席なさいますか?」
それを聞いたヴェンは激高した。黒板を思い切りコクーランに投げ付ける。当のコクーランはそれを扉を閉めて外に出ることで防いだ。
「また、気が変わったら教えてください。御席は用意させてあります」
扉越しにコクーランは告げると、外に待機させていた黒の一族の使用人に自身の黒板を持たせ、優雅に自身の寝室へ歩いていった。
残されたヴェンは、窓の外から見える夜景で気を紛らわすことにした。夜も帳を下ろすこの時刻にも関わらず、眼下の町は一際明るく輝いていた。
夜には鳥は来なかった。




