ケモ耳?
エリシャの魔術は俺に凄まじい衝撃を与えた。固定概念が覆った。水が坂を登り、雨が空に降る。雪は熱く、日が冷たい。季節が冬から始まり、春で終わった。
俺は敬虔な科学教徒である。観測と実験で裏付けされたものしか信じない。しかし、本日を以て俺は科学教を改宗することにした。世界教に入信することにした。
世界はとてつもなく広い。近世以前の地球平坦説などは虚仮にしろ。馬鹿にしろ。侮蔑しろ。近世以後の地球球体説も同様だ。世界を表すのに形など必要ない。ただ、広い、だけでいい。そうすれば、誰もが納得する。俺も納得した。
虚飾はするな。過飾もするな。そんなものは鶏に鶏冠、鸚鵡に羽根飾りだ。ありのままの広さだ。それを受け入れろ。
俺の体を、機巧核を造った科学者の連中は何を思うのだろうか。吃驚するだろう、驚嘆するだろう。猜疑し、詮索するかもしれない。端から馬鹿にする学者もいそうだ。
だが、そんな奴らなど恐るるにたらない。現実にあるのだ。現世に現出された魔術を誰が信じまいと言うのか。科学教徒ならば、受け入れろ。それが教義のはずだ。
俺の感動は言葉を尽くして飾り立てても足りないものだった。
「……大丈夫?」
「……ん? ああ! 大丈夫だよ。すっごく驚いただけだ」
どうやら俺は放心していたらしい。宜なるかな。誰がこれを責められようか。
「ところで、魔法陣の札は何処から出したの?」
「あれは私の服に縫い付けてあるのよ。何時でも使えるようにね。後六枚もあるから一枚くらい大丈夫よ」
成る程縫い付けてあったのか。それなら納得だ。
「魔法の方が凄いけど、魔術も捨てたものじゃないでしょ。ネモはその魔法が使えるんだから、私なんかよりももっと凄いことが出来るのよ」
「魔法か……」
俺はとんでもない世界に来てしまった。魔法があれば有象無象の科学技術など要らないのではないか? 魔力で灯を灯し、肉を焼く。部屋を暖め、風呂を沸かす。夏はその逆をすればいい。
発電所も要らない。石油も石炭も必要としない。公害もない。科学は環境を犠牲に発展してきたが、魔法はそれらの犠牲なく、科学以上に発展できそうだ。俺は生唾を飲み込んだ(比喩だぞ)。
「でも、ネモは異世界の魔族だから魔法は使えるでしょう? というか何回も使っていたじゃない。何を驚いているのよ」
「だから俺は魔族じゃあない。俺はロボットだ」
「ロボットっていう魔族なんでしょ?」
「違う。ロボットはロボットだ。魔法は使えない。何度も変身していたのは、そういう機能が俺にはあるからだ」
「そうだったの? 私てっきり魔法なのかと……ごめんなさい」
エリシャが頭を下げた。俺はそこまでさせるつもりはなかったので、慌ててそれを止める。顔を上げた彼女はふわりと笑った。
それを見て、俺は後ろ頭を掻きたくなった。掻く手がないので、身を震わせることしか出来なかったが。
「兎に角、俺はそんなことは気にしていない。ただ俺に魔法のいろはを期待しないことだ。寧ろ俺が学びたいくらいだよ」
「じゃあ早速しましょう? 魔法と魔術は大きくは違わないはずだから教えられると思うわ」
俺はエリシャに促されるまま、ベッドを抜け出した。そして、昨日退かしたままだったスペースに立たされた。一方で彼女は、退かした椅子に腰かけて、先生のように振る舞っていた。片目を瞑り、腕と足を組んでいる。
「ネモ君、まずは少しだけでいいので魔力を放出してみてください」
「こうか?」
「そうです。それから、あの掛け布団に、壊れろ、と念じてください」
壊れろ!
すると、驚いたことに掛け布団が一文字に切り裂かれた。思わず俺はエリシャの方を見てしまう。彼女も嬉しそうな顔で俺を見ていた。
「出来た!」
「凄いわ! 一回で出来るなんて思ってなかったのよ。それもワイバーンの魔力を取り込んだからかしら?」
恐らくというより十中八九それだ。最初に取り込んだインプの魔力量ではとてもじゃないが出来ない。
その後、俺は小一時間魔法の練習をしていた。掛け布団を細切れになるまで切り裂き、破壊する練習を積んだ。最後はエリシャが破壊を巻き戻して元の掛け布団にする。
丁度そのとき、掃除のお婆さんが俺たちの部屋をノックした。
「そろそろいいかね? 部屋の掃除をしたいんだが。未だヤり足りないなら休憩ということで、延長も出来るがね」
「ヤり足りない?」
「休憩?」
一瞬何のことだかわからなかったが、エリシャの紅潮する顔を見て合点がいった俺は、一瞬で昨日チェックインしたときの男に変身した。後朝感を出すために上半身は裸にしてある。そして、個室のドアを半分ほど開けて顔を出すと、お婆さんはムスっとした顔をしていた。
「延長かい? 朝からお盛んだね」
「いやいや、そういう訳じゃないさ。何せ夜は張り切ったからな。疲れて今まで眠っていたんだよ。あんたの声が目覚ましになったくらいさ」
「そりゃ良かった。じゃあさっさと服を着てチェックアウトしな。私が掃除できないじゃない」
「そんなに汚していないから安心しな。精々汗をかいたシーツを交換するだけだぜ?」
「変な病気を持っているかもしれないだろう。部屋全体を消毒するんだよ」
俺は肩を竦めた。取り付く島もない。早々に冗談は諦めて料理屋に向かうことにした。
料理屋には朝だというのに大盛りの料理が幾つもあった。俺とエリシャはその中でも量の少ないパンとスープを注文した。程なくして運ばれてきた料理は決して美味しいと言えるものではなかったが、不味いとも言えない味わいだった。
スープにパンを浸して食べるのが作法らしい。エリシャはそれを一口また一口と口に運んでいく。いい食べっぷりだ。俺もその真似をして次々に口に放り込んでいった。
俺は燃料として有機物を摂取する必要がある。有機物なら何でもいいのでその辺に生えている草木でも良かったのだが、如何せんそれは見映えが悪い。だからパンとスープだった。
スライムみたいな精霊が草を食んでいたとて誰も気にしないだろうって? いやいや、俺が気にする。姿は違えど俺には人間としてのプライドというものがあるのだ。そう簡単に捨てるわけにはいかない。
俺たちは朝食を取り終えるとすぐに食堂を出た。
俺の頭は昨日の手配書のことで占められていた。昨日の出来事がその日の内に手配書が出回るのは驚異的だ。そもそも、この世界は見たところ十九世紀末期くらいの文明度ではなかったのか?
魔術の存在で一部の技術は俺のいた世界に匹敵するが、通信技術もその類いなのだろうか? 信じたくないという気持ちが半面、現状を見れば信じざるを得ない気持ちが勝っている。
奇妙なのは、手配書の人相書きこそ手書きだったことだ。十九世紀末期には記録写真家たちがいたわけで、ダンジョンの特性を考えれば写真技術がもたらされてもいいはずなのだが……。
それはまた今度の機会にしよう。今すべきなのはエリシャの姿を隠すことだ。俺は少し慢心しすぎた。早くても二三日は要するだろうと高を括っていた。
向かいから、手配書を配っている新聞配達の少年が走ってきた。その手には手配書の紙束を、肩から下げる鞄の中には厚めの朝刊が一部だけ入っている。
「エリシャ」
「ん? 何?」
「これを被った方がいい」
「うわわっ、ローブ? 今は冬じゃないのよ?」
俺はナノマシンで作ったフード付きのローブをエリシャの頭から被せた。
「少し思いが我慢してくれ。この街を出るまでの辛抱だ」
「どうしたの? もしかしてもう追っ手が?」
俺は目の前に来た少年に向かって手を挙げた。
「少年! 新聞を一部くれないか?」
「半銅貨一枚だぜ」
「生憎銅貨一枚しか持っていない。お釣りを忘れるなよ?」
煤けた顔の少年は鞄から半銅貨一枚を取り出すと新聞と一緒に手渡した。
「今日はよく新聞が売れたんだ。いつもの半分の時間で全部売れちまった」
「大事件でもあったのか?」
俺は努めて平静を装いながら聞いた。さりげなくエリシャを後ろに庇い、それを察した彼女はフードを深く被り直す。
「おじさん知らないのかい? 昨日ダンジョン攻略中の軍内で同胞殺しがあったんだよ」
「君の持っている手配書に尋ね人が? 一枚もらおう」
「おっと……それはまず朝刊を見てからだ。先に見ちまったら面白くないだろ?」
「それもそうだな」
俺は朝刊を開いた。
「『ダンジョン攻略中の凶行! 第二盟主ヴェン・アルクドルク伯爵令嬢が同胞十三人を殺害!?』。……大した大事件だ」
ふざけているのか? 十三人を殺害したのはドラ司令の片手銃であって、エリシャではない。彼女は気を失っていたのだから殺せるはずもないのだ。
汚い。流石ドラ司令、汚い。
きっとこれを仕掛けたのは、ドラ司令を含むもっと高い地位の人間ではなかろうか。例えばエリシャの父さんを憎からず思っている人間とか……。
俺は事の重大性を再認識した。これは戦争だ。アルクドルク親子と連合国の戦争なのだ。そうと決まれば話は早い。俺がすべきなのはエリシャを守ること。もしエリシャの前に国が立ちはだかるというならば、見事それを撃破しよう。
俺が熟考していると、不意に少年がひょいと後ろのエリシャを覗き込んだ。
「初夏だってのにそんな分厚いローブなんか着て暑くないのかい? 見ていてこっちまで暑くなってくるぜ?」
「…………」
「質問しているんだぜ? 質問されたらきちんと答えないと」
「……」
エリシャは俯いたまま動かない。俺は開かれた朝刊をそのままに、一先ずエリシャの動向を待つことにした。
「まさかだけど……」
エリシャが俺の服の裾を小さく握った。それは彼女からの救難信号だった。俺は朝刊を閉じてエリシャの震える手を握り返した。
「この女性がエリシャ嬢だと?」
「だって見るからに怪しいじゃないか。初夏だって言うのにフード付きローブなんて被っているし、背丈も同じくらいだし」
「なるほど……少年。君は俺の妻を、同胞を十三人も殺した前代未聞で史上最悪の悪逆だと言うんだな?」
「……え?」
後ろから素頓狂な声が聞こえたが無視しよう。
「い、いや……そこまでは言ってないけど……」
「だが、同じことだろう? 君は俺の大事な妻を犯人かもしれないと疑った」
背中を小さく小突かれた気がしたがそれも無視しよう。
「もしかしたら……と思っただけだよ。そんな本気にするなって。な?」
「いいや、俺は気にする。大事な大事な妻の名誉が汚されたということは、つまり俺の名誉も汚されたことと同義だ」
今度は脇腹を二回小突かれた。
「悪かったって。俺が悪かったよ。だから落ち着けって」
「少年……今から君に証拠を見せてやる。妻がエリシャ嬢ではないっていう証拠をな」
「……ちょっ!?」
エリシャが俺を止めようとしたがもう遅い。それを半身になることで躱した俺は、彼女のフードを脱がせた。
一輪の可憐な花が咲いた。
艶やかな赤髪が溢れ落ち、その美しい顔が白日の元に晒される。潤んだ瞳が、長い睫毛が、すらりと通った鼻筋が、にぃっと覗く長い犬歯が……!
そして、髪の毛を割って頭頂部から生えた二つのケモ耳が、ぴょこぴょことその存在を知らしめるが如く飛び跳ねた。
そこには獣人化した一人の女性がいた。思わず撫でくり回したくなるようなふわふわの体毛が顔を覆い、風が吹くと仄かに石鹸の臭いがした。
俺はエリシャの髪の毛に指を入れ、優しく鋤いた。細やかに動く一対の耳が立ったり垂れたりするのを見るのは存外楽しかった。
「ああっー! そ、そ、その姿は――!」




