再会
前線の歩兵分隊に配属されて数日、大隊長の言っていた大規模攻勢は、僕が想像していたよりもずっと早く開始された。前線にまで出てきた中隊長が笛を吹き、兵士たちが梯子を伝って一斉に塹壕を飛び出していく。僕も着剣した銃を抱えてそれに続いた。
軋む梯子を登って塹壕の外に躍り出ると、視界が一気に開ける。
硝煙で白く濁った青空。駆ける鳥。
荒廃した平野に点々と立つ廃墟。
鉄条網と土嚢。
敵陣に並べられた機関銃の火点が瞬き、兵士たちが血煙を散らしながら薙ぎ払われていく。
こんな光景が、攻勢が行われている全ての前線、累計百キロメートル近い広大な範囲で繰り広げられているという事実は、狂気としか言いようがない。
僕のすぐ側にも弾丸は飛んでくる。頭上を駆け抜ける弾丸に、僕は慌てて地面の弾痕に飛び込んだ。双方の砲兵たちにより、戦場は穴だらけになっている。隠れる場所には事欠かない。
弾丸が僕のすぐ上を駆け抜けて、背筋を撫でるような飛翔音に僕は震え上がる。
怖い。だが進まなければならない。進まなければこの恐怖は永遠に続く。
弾幕が僕の方から離れたのを確認した僕は立ち上がって、再び走り出した。
やがて先頭の方を進んでいた兵士たちが敵塹壕に到達し、塹壕内での掃討戦に移行する。遠距離からは圧倒的な防御力を発揮する塹壕だが、一度でも肉薄すればその防御力は半減する。
肉薄した友軍の戦車が、塹壕内に機関銃弾をばら撒いていた。
敵の方から飛んでくる機関銃の弾幕が弱まった。僕も、先頭の兵士たちに続いて敵の塹壕へと飛び込む。
転がる骸のほとんどは敵のものだ。友軍部隊は塹壕の入り組んだ交通壕を駆け抜けて、さらに先へと進んだようで、この辺りでは既に戦闘の音も少なかった。
「進め!」
分隊長は号令を飛ばす。今回の攻勢は、敵の後方に存在する鉄道基地の制圧を企図して行われている。複数の攻撃部隊が連携して敵鉄道基地を包囲するというかなり綿密な作戦になっており、停滞は許されない。もし一つの部隊でも遅れれば、作戦そのものが失敗する可能性すらあった。
だからこそ、成功すれば敵の前線に大穴を開けることができる。
僕は銃から銃剣を取り外して、銃本体は背中に背負い銃剣を構える。狭い塹壕内では全長一メートルを超える銃より、むしろこちらの方が有利だ。
狭い塹壕内をゆっくりと進んでいく。
既に先頭を進んでいる部隊はだいぶ先に行っている。この辺りに残っているのは、彼らの撃ち漏らした少数の部隊だけだ。大きな戦闘になるような事態はないだろう。
だが、その油断が命取りだった。
俺の前を進んでいた兵士が、突然音もなく崩れ落ちる。彼の額はぱっくりと避けていた。
「やぁ。また会ったね」
なぜか記憶に残る、深みのある甘い声。
ベリルの声。
「敵兵か!」
僕の少し後ろにいた軍曹が、拳銃を抜きつつベリルに近づく。
「両手を挙げて地面に膝をつけ。今すぐにだ」
「嫌だね」
直後、ベリルは拳銃を構えた軍曹の手を蹴り上げた。
「うぐっ」
痛みにうめき声をあげた軍曹の喉笛を、スコップの刃が深々と切り裂く。
鮮血が、噴水のように噴き出た。
「ここは僕が! 皆さんは先へ進んでください!」
僕はスコップを構えたベリルへと飛びかかりながら、後ろにいるであろう仲間達にそう怒号を飛ばした。
「はははっ。そうこなくっちゃねぇ。キリ君」
渾身の力を振り絞って銃剣を突き出す。それをあっけなく回避するベリル。だが、ここまでは想定通りだ。僕は銃剣を突き出した勢いのままベリルの体に体当たりをした。僕とベリルはそのままもつれあいつつ、すぐ近くにあった迫撃砲陣地へと転げ落ちる。
円形に掘削された塹壕の中央には迫撃砲が置かれ、周囲に木箱が並べられた迫撃砲陣地の中で、僕とベリルは睨み合う。外から、友軍部隊が次々と前進していく足音が聞こえてきた。
どうやら僕がベリルを排除したのは成功だったらしい。もし彼女があのままあそこに留まっていたら、間違いなく僕の部隊は前進を阻害され、さらに数名の犠牲者が出ていただろう。
問題があるとすれば、実質的に僕が仲間から置いていかれたということだろうか。銃剣を握る手にじんわりと汗が滲んだ。
僕は銃剣の切先をベリルに向ける。
よく見ると、彼女は片目に眼帯を巻いている。以前戦った時はギリギリで退けることができた。そして今回、向こうには片目がない。人間は両目で遠近感を測る。
もしかしたら勝てるかもしれない。
「二人きりになれたね」
ベリルはそう言ってスコップから血を払うと、肩に構える。その姿はまるで、美しい死神のようだった。
「なぜこんな場所に?」
僕は聞く。ベリルの指揮する戦場の幽霊は、疑いようのない精鋭だ。攻撃任務特化の精鋭である以上は防衛戦に投入されるとは思えないし、何よりも任務開始直前以外で、こんな前線にいるとは思えない。
「分からないな。上層部の考えていることは。私たちが出たところで、この戦況を打開できるわけじゃない。君たちの攻勢で、私の部下は全員が死亡か行方不明だ。あれほど練度の高い部隊は、もう二度と作れないよ」
ベリルはその顔に浮かべた笑みを、少しだけ寂しげなものに変える。斬首作戦を遂行できる部隊は稀だ。どうやら彼女たちの部隊は、決壊しつつある帝国の前線を維持するため投入されたようだ。確かに彼らは塹壕戦のエキスパートだが、防衛戦では、ただ圧倒的な物量にすり潰されるだけだ。
いい情報を入手できた。戦場の幽霊は壊滅した。この情報を司令部に伝えれば、斬首作戦対策のために動かせなかった精鋭を動かせるようになり、戦局がより我が国の有利に傾くきっかけとなる可能性すらあった。
「君が笑うなんて珍しいね」
ふと気付くと、僕はうっすらと笑っていた。
「もしかして、塹壕の幽霊が壊滅したという情報がそんなに嬉しかったのかな?」
僕の顔から笑みが消える。
直後、ベリルが地面を蹴った。
以前よりずっと速い。
僕はギリギリで地面を後ろに蹴りつつ銃剣を構え、彼女が振るうスコップの刃を受け止めた。金属と金属がぶつかり合い、火花が散る。
「戦闘中に無駄な情報収集なんてつれないなぁ。もっと私に集中してよ」
「うるさい!」
僕は銃剣を握る手に力を入れて、ベリルを押し返す。ベリルの重心はあっけなく崩れた。
ありえない。
体力で僕より勝るベリルが、純粋な力負けで敗れるはずがない。
僕はその瞬間、自分が致命的なほどに判断力を喪失していたことを理解した。ベリルは片手でスコップを持つと、その柄を僕の脇腹に叩き込んだ。
肋に激痛が走る。僕は数歩よろめいて、地面に膝をついた。
「あー。今の当たり方的に、ヒビ入っちゃったかもね」
ベリルは申し訳なさそうな口調で言う。
立たなければ。そう思って足に力を入れているのに、痛みで体全体が痺れたようになってうまく動けない。呼吸が苦しい。目の前に敵がいる。戦わなければ死ぬ。痛い。痛い。痛い。顔に汗が滴る。視界が徐々に狭まってくる。心臓が激しく拍動する。
「落ち着きなよ。ゆっくり呼吸して落ち着かないと」
ベリルは、僕の傍に膝をついて僕の背中をさすっていた。
「や、やめろ」
僕は彼女から距離を取ろうと動く。直後、全身に激痛が走った。
「あが!」
「今は動いちゃダメだよ。傷が悪化する」
ベリルは僕の顔を覗き込むと、優しげに微笑んだ。
先ほどまでの苛烈な戦闘が嘘みたいで、まるで戦友から励まされているかのような気分になってくる。ぞっとしない。
ベリルはポケットから鎮痛剤を取り出して、僕の太ももに注射する。
徐々に、張り詰めていた意識が和らいできた。鎮痛剤の副作用だろうか、意識が遠のく。
「少し寝るといい。安心するといい。私は無防備な相手を殺さない主義だ」
抵抗できない。
僕はそのまま意識を失った。




