邂逅
走って走って、ようやく辿り着いた分隊の待避壕は見るも無惨なことになっていた。
どうやら分隊員たちは、待避壕を出る間も無く外から手榴弾を投げ込まれたらしい。あんな狭い空間で爆発物が炸裂したらどうなるかなんて、誰でも分かる。
辺りには鼻をつく硝煙と濃い血が臭っていた。
自分の呼吸が早くなっていくのを感じる。
ガスマスクのせいで息が苦しい。思わずマスクを外して、臭いを嗅がないよう口呼吸で息を深々と吸い込む。幸い、ガスはなかったようだった。
こういった状況下では待避壕の中に入って負傷者の救護をせよというのが教範通りの対応だが、大量の死体と千切れた四肢を前にして、そうする勇気がどうしても出なかった。
膝から力が抜けて、思わず尻もちをつく。
「あっ……。あっ……」
「うるさいな」
そんな声が聞こえる。背後に気配を感じて、僕は反射的に地面へと伏せた。
スコップの刃が、ついさっき俺の首があった場所を駆け抜ける。ブンッと空気を切り裂く低い音が首筋を撫でた。
「うわっ」
僕は悲鳴を上げつつも立ち上がり、敵の方を向いて数歩下がる。
まず目に入ったのは、よく磨かれた黒の編み上げブーツだ。ふくらはぎには革製のゲートルが巻かれている。灰色の軍服は、帝国軍のそれ。
ヘルメットの下にあるその顔には、戦場に似合わない無邪気な笑みが浮かんでいた。
「あと一歩で狩れたのになぁ。残念」
この距離で戦うには、銃は長すぎる。狭い塹壕に引っかかってしまうだろう。僕はそう判断して、手に持った銃を地面に置き、腰に吊った銃剣を抜いた。よく研がれた銃剣の刃が、月光を反射して煌めく。銃剣をこうやって使うのは、徴兵されてからまだ初めてだ。
格闘の訓練なんてほとんど受けていない。僕にできるだのろうか?
彼女の輝くような金瞳に、緊張と恐怖に歪んだ僕の顔が映る。
「へぇ」
敵兵は興味深そうに声を漏らすと、使い込まれて刃こぼれしたスコップを構える。ギザギザとしたスコップの刃は、月光にギラギラ輝いていた。
まるで獣のような低い構えを見せた敵兵は、一気に飛びかかってくる。
僕は銃剣を構えて、それを受け止めた。
金属と金属が激しくぶつかり合い、火花が散る。ギンと嫌な音が鳴って、僕は思わず顔を顰める。敵兵の方は笑みを浮かべた。
「ふふ。いい腕してるね」
僕は無視する。会話をする余裕なんてない。
敵兵はさらにスコップを巧みに動かす。鋭い刃が僕の首へと突き出されたが、僕は寸前でそれをかわした。敵兵はそのままの動きでスコップを大きく振りかぶる。僕は銃剣を頭上に構えた。敵兵が全体重を乗せて放った一撃は、それを銃剣で受け止めた僕の腕に重くのしかかる。
押し切れないと見た敵兵は一歩だけ僕から距離を取ると、僕の腹に向けてスコップを突き出した。先ほどまでの打撃より、明らかに速い。
僕はこれも銃剣で受け止める。ギリギリだった。直後、そのスコップが弾かれるようにして僕の頭部へと突き出された。
寸前で首を捻る。スコップは僕の頬を深く切り裂いていった。
一連の攻撃を終えた敵兵は、後ろに飛んで間合いを取る。
実際に打ち合ったのはたった数回。
手が酷く痺れる。頬から滴る血が、軍服の襟に染み込んでいく。
見ると、僕の握り締めた銃剣の刃が少し欠けていた。体つきは小柄でしかも女性なのに、とんでもないパワーだ。
一方、敵兵の方は全く消耗していないようだった。余裕そうな笑みも一切消えていない。
僕は自分と敵兵の絶望的なまでの実力差を理解した。
これは勝てないな。
「最後ので殺せたと思ったんだけどな」
敵兵はそう言って、僕にスコップを向けた。
「名前を教えてよ。覚えておきたい」
深みのある甘い声。脳の奥を嗜虐的に舐められているような気分になって、僕は眉をひそめた。
「キリだ。キリ上等兵。陸軍第22師団所属の小銃手」
ベリルは満足げに笑う。
「私はベリル。ベリル少尉。人呼んで塹壕の幽霊。君の命を刈り取らせてくれ」
塹壕の幽霊。
聞いたことがある。
夜の闇に紛れて塹壕内へと潜伏し、司令部や武器庫などを破壊して忽然と消える、帝国軍の特殊部隊だ。
少尉という階級を見るに、おそらくこの女性はその部隊の指揮官。ならば、無事に返すわけにはいかない。僕は銃剣の柄を強く握りしめる。
恐怖がないわけじゃない。勝てるなんて思っていない。だけど敵の重要人物を前にして、軍人として引き下がるわけにはいかなかった。抵抗することもできず手榴弾で爆殺された仲間たちのためにも、何がなんでも任務を達成するしかない。
「いい目だ。君のことが気に入ったよ。ますます、その命欲しくなってきた」
ベリルは地面を蹴る。僕は地面に置いた銃を拾い上げ、銃剣と十字にして構えた。ベリルのスコップが、銃の木製ストックに深く食い込む。
「あ?」
一瞬、ベリルのスコップは重たい銃に突き刺さって固定される。
その隙を突いて、僕は即座に銃剣を突き出した。
お互いに限界まで力を出し切り、勝負は一瞬で決まった。
バシュっと何かが噴き出すような音がする。銃剣が、ベリルの片目を貫いていた。
流れ出た血が、僕の手に伝ってくる。
「いいね」
ベリルはそう言って、僕の腹部に足を叩き込んだ。
「ゲホッ」
僕は肺の空気が一気に抜けるような感触に、うめきながら数歩よろめく。思わず銃剣から手が離れる。まずい。
だが、後ろ向きに転倒しそうになった僕の体を、ベリルは素早く片腕で抱きとめた。片目を失った直後の人間とは思えない速度だ。
「君をここで殺すのは惜しいよ」
ベリルはそう言いつつ、自身の目に突き刺さった銃剣を抜いて、それを僕の首筋に当てる。
血で湿った生暖かい刃。
死が目の前に迫る。
その時、僕の胸を満たしたのは恐怖じゃなかった。
よく冷えた何かが、僕の中に染み渡っていく。
それは、殺意だった。
憎悪ではない。怒りでもない。これっぽっちの悪意も混ざらない、純粋な殺意。それは、軍人としての務めを果たすという目的に立脚した、独特な感情だった。
「僕が、お前を殺す」
「やってみなよ」
僕はベリルの足を蹴り飛ばして転ばせる。僕の首から刃が離れる。その一瞬の隙をついて、僕は彼女の額に自分の額をぶつけた。
目の裏で火花が散る。僕は軽くふらついた。
銃はない。銃剣も奪われた。もう武器と言える武器は、手榴弾しか残っていない。
こんな狭い空間で手榴弾なんて使ったら、僕だって無事じゃ済まないだろう。それでも僕は腰の手榴弾に手を伸ばした。一瞬、手が止まる。これを今起爆したら、ベリルは確実に殺せる。だけど俺も死ぬ。
本当にそれでいいのか? 覚悟を決めたはずなのに、一瞬迷ってしまった。
直後、甲高い笛の音が響く。それと同時に、三色の照明弾が味方陣地の方から打ち上げられ、辺りを煌々と照らした。
「これは……」
「撤退の合図だ。もう少し君といたかったのだけど。残念だ」
ベリルは全く残念じゃなさそうな口調で言うと、僕に笑いかけた。
「それじゃあ、しばらくお別れだ。また会おう。キリ上等兵!」
そう言い残して、ベリルは素早く塹壕を飛び出す。
手榴弾を起爆するチャンスを、僕は完全に逃した。
逃げ去っていくベリルの背中に、僕は手榴弾を投げつける。
「クソっ!」
数秒して、破裂音が鳴り響く。その一撃がベリルになんの打撃も与えられていないことは、僕が一番よく分かっていた。




