不穏な気配
荒廃した大地に、黄緑の霧が漂っている。
立ち枯れた木々や月光を反射する水溜まり、崩れた建物、焦げた戦車の骸、軍服を着た兵士達の遺体、硝煙の白い煙、照明弾の輝き。
そういったものが組み合わさって、戦場の風景は作られる。
僕は、その風景が幻想的であることを知っていた。血と泥濘の戦場で、月夜の風景は数少ない美しいものの一つだろう。だけど、今はそれを見ることができず、ただ泥と汗と硝煙の匂いがこもった待避壕の中で震えているだけだ。
激しい発砲音は、どこからも聞こえない。突撃する兵士たちの勇ましい叫び声も。
その代わりに、地響きのような砲撃の音だけがずっと聞こえ続けている。
急に地面が揺れ、天井から土塊がパラパラと落ちてくる。
至近距離に砲弾が落ちたようだ。完全な暗闇の中にある地下壕で、死の恐怖に押しつぶされそうになっている兵士たちのうめき声があちこちから響いた。僕が今いる待避壕は分隊に当てがわれているもので、現在は十名ほどが潜んでいる。
狭苦しい空間は、兵士たちの緊張と恐怖で満ちていた。
「キリ上等兵」
「はい」
分隊長から名前を呼ばれた僕は、砲撃とうめき声にかき消されないよう大きな声で返事をした。
ごそごそと音がして、暗闇の中からぬっと男の顔が浮かび上がってくる。
砂埃と泥で汚れ、ひどく疲れた様子のゴツゴツとした顔立ち。ゲルド軍曹だ。彼は僕の所属する分隊で分隊長をやっている。
「伝令を頼む。小隊本部まで行って情報取ってこい」
砲撃はまだ続いている。
だが戦場は広いためか、僕たちの隠れる待避壕の近くに落ちる砲弾は意外と少なかった。
僕の今いる待避壕は、上部を木の板と土嚢で覆っている。流石に砲弾の直撃を受ければ全滅だが、飛び散る破片や衝撃波からは守ってくれる。そして砲撃において最も被害が多いのは、弾頭の直撃ではなく破片と衝撃波だ。
伝令に行くということは、破片や衝撃波に生身の体を直接晒されることを意味する。塹壕の中を通るとはいえ、待避壕にいるときよりは危険性が跳ね上がる。
「どんな情報を取ってくればいいんですか?」
「行けば分かる。早く行ってこい」
ゲルド軍曹はぶっきらぼうに言った。
待避壕から出たくなかったが、命令された以上は従うしかない。僕は地面に置いた銃を持ち上げて背嚢を背負いヘルメットを被って、四つん這いになりつつ出入口の方を目指す。
「ガスマスクを着けておけ」
僕の背中に軍曹が命じた。確かに、敵の砲撃にはガス弾が混じっている可能性もある。風通しのよい野外に散布された化学兵器で死ぬことは少ないが、当然、吸えばただじゃ済まない。
「はい」
僕は肩から下げたガスマスク用のポーチからゴム製のガスマスクを取り出し被る。やや曇ったガラスのレンズに僕の視野はかなり制限された。ついでに息苦しい。鼻腔をゴムの濃い匂いが撫でた。
中腰になりつつ狭い出入口を抜けると、目の前には木の板で補強された黒土の壁が広がる。塹壕の深さは二メートル。僕の身長は165センチだ。立って歩いても頭が塹壕から飛び出ることはない。狭苦しい地下壕から出たというのに塹壕内では視界が開けることもなく、閉塞感はあまり変わらなかった。
パニックに陥った新兵が狙撃手に身を晒すと分かっていながら塹壕を飛び出す気持ちも、よく理解できる。
塹壕に縁取られた狭い空で、銀色の月が静かに輝いていた。
僕は軍靴で湿った地面を踏みしめ、小隊本部を目指す。
前線付近の塹壕はアリの巣のように入り組んでいたが、ところどころが砲撃により崩れていた。前線付近の塹壕は奪ったり奪い返されたりして、今のところは我が連合王国軍が占領している。
歩いていると、ところどころに木箱や重機関銃が設置されていた。その中には砲撃で破壊されたものもある。砲撃は毎晩のように行われている。破壊された装備品は回収して後送するのが基本だが、放置されることも多かった。
時折近くに落ちる砲弾に怯えつつ進んで、僕は十分ほどで小隊本部にたどり着いた。
直線距離では大したことがないが、入り組んだ塹壕内ではなかなか移動も難しい。
小隊本部は砲撃を避けて地下に設置されており、僕の暮らす待避壕よりは多少広々とした地下壕に、無線機と有線通信用の受話器、それに机とタイプライターが置かれていた。
「失礼します」
僕はそう声をかけつつ、小隊本部に入る。
本部には小隊長と小隊先任軍曹、それに伝令がいた。
小隊長は黒い布を巻き付けて光が漏れないようにした照明器具を頼りにタイプライターを叩いており、小隊先任軍曹は部屋の隅であぐらをかいている。伝令は寝ているようだった。
ガタガタと鳴る無骨なタイプライターのタイピング音は、近くで聞くと結構うるさい。
小隊本部の全員が、僕らと同じく土で汚れたカーキ色の軍服を着ている。彼らも、日々塹壕構築や戦闘に駆り出されているのだ。
「第二分隊のキリ上等兵です。分隊長より、情報を取ってくるように言われました」
少し声を張り上げて、僕は小隊長に声をかけた。
「ああ。そうか」
小隊長は頷いてタイプライターから一時的に手を離すと、僕に封筒を押し付けた。
僕はそれを両手で受け取る。
「これを分隊長に渡してくれ。開けるなよ」
その時、小隊長はふと何かに気付いた様子で少し外を見る。
「砲撃が止んだな……。奇襲に気をつけるよう、分隊長に伝えておいてくれ」
僕も耳をそばだてる。
確かに、ずっと鳴り続けていた砲撃の音がすっかり消えていた。耳が慣れてしまい気付かなかった。
辺りは、砲撃のうるさかった先程とは打って変わり、不気味な静寂で満たされている。戦場では、うるさいより静かな方が怖い。
「了解」
僕はその封筒を軍服のポケットに押し込んで、小隊本部を後にした。早く待避壕に戻って分隊と合流したい。先ほど通った道を小走りで進む。
それは、小隊本部を出て一分としないタイミングに起こった。
塹壕の中に一人の兵士が飛び込んでくる。
灰色の軍服に丸みを帯びたヘルメット。その二つが示すのは帝国兵。
つまり敵だ。
僕は銃を構える。
狭い塹壕内で、歩兵用の長い銃は扱いづらい。一方、敵兵は騎兵などが用いる短めの銃に、拳銃も持っていた。体つきも僕よりがっしりしている。普通に戦えば僕が負けるだろう。
だが、向こうは二メートルの高さから塹壕の底へと飛び込んだ直後で、まだ立ち上がってはいない。
今なら勝てる。
相手も慌てたように銃を構えようとしたが、こちらの方が少し早かった。
かちりと引き金を引く感触が指に伝わって、直後、やかましい発砲音と痛いほどの衝撃が肩を蹴る。
慌てて構えて放たれた弾丸は、敵兵の腹部に命中した。
「うぐっ」
敵兵は体をのけぞらせる。僕は素早く銃のボルトを操作して次弾を装填し、もう一度、今度はよく狙って引き金を引いた。
弾丸は敵兵の頭部に命中する。
トドメを刺された敵兵は、そのまま塹壕の泥に突っ伏し動かなくなった。
敵襲だ。
急いで誰かに伝えないと。
僕は倒れた敵兵を無視して走り出す。ふと気づくと、塹壕陣地の中では発砲音や手榴弾の爆発音、それに兵士の悲鳴があちこちで響いていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
第一話ということもあって若干テンポが遅いとは思いますが、次回からもう少しテンポを早くするので、気長に読んでいただけると幸いです。




