第四話 好きだからです。それだけです
春の舞踏会。
王城の大広間は、灯りと絹と宝石で溢れていた。
その中央に、白い大きな紙を張った画架が二つ、据えられている。
私は華月歌劇団の衣装を借り、壁際に立っていた。
誰も私を見ない。
当然だ。
玉座の間から、国王陛下と王太子殿下が現れる。
ジュリアン殿下を、私は初めて正面から見た。
――そして、息を呑んだ。
あの雪の夜、工房の入口に立っていた人。
「本日は、我が国に新しい光をもたらした画家を称える」
宮廷画家長の声が、広間に響いた。
「ヴァンドーム侯爵令嬢、オーレリア嬢。御前へ」
拍手の中、彼女は完璧な微笑みで進み出た。
銀糸の礼装に宝石の髪飾り。
――ちなみに、その意匠も私が描いたものだ。
「では、儀式に則り、御前にて一枚。題は『ジスモンダ』の唐草。あなたご自身の代表作の続きを、お描きください」
彼女の微笑みが、わずかに固まった。
「……あの、本日は、手が」
「手が?」
「昨日、扉に挟みまして。細かい線は少々……」
「では、太い線で結構」
容赦がなかった。
オーレリア様は、震える指で筆を右手で取った。
広間が静まり返ると、彼女は白い紙に線を引いた。
――ぐにゃり、と。
二本目。
ぐにゃり。
唐草にならず、渦にすらならない。
それは、絵を描いたことのない人間が引く、ただの曲がった線にざわめきが広がる。
「まあ……」
「これが、あの『ジスモンダ』の……?」
「ご、ご冗談を!わ、わたくしは大作の前でしか本領を発揮できませんの。こんな余興のような場では――」
「オーレリア嬢」
ジュリアン殿下の声が、広間を切った。
「あの宣伝画について、一つ尋ねたい」
殿下は玉座の前から降りると、彼女の肩が揺れた。
「あなたの唐草は、なぜ左から線が入り、そのまま内側へ返っている」
「……そ、それは、意匠の均衡を考えて」
「違う。あれは、左手で描く者の筆運びだ。宮廷画家長にも確認させた。線の入り方も、返し方も、すべて同じ癖が残っている」
オーレリア様は、右手に握った筆を見た。
「そしてもう一つ。私は『ジスモンダ』を、王城の私室に一枚持っている。あの唐草のいちばん奥。花と花の重なる影の中に――四つ葉が、一つ描き込まれている」
思わず口元を押さえた。
誰にも見つからないはずの、母のお守り。
「オーレリア嬢。あの四つ葉は、どこにある。指してみせよ」
彼女は、答えられなかった。
「……知らない、というのだな」
「殿下、わたくしは、わたくしは……!」
「私は探していた」
殿下は、もう彼女を見ていなかった。
「年越しの夜、灯りのついた工房で、ひとりで筆を握っていた娘を。この街の冬は灰色だから、顔を上げたときに暖かいものが目に入ればいいと言った娘を。指を青く染めた、その手を」
殿下の視線が、広間を巡る。
そして、壁際で止まり、まっすぐに私を見る。
「――そこにいるな」
広間中の視線が、いっせいに私へ集まった。
膝が震え、逃げ出したかった。
そのとき、背中を、ばん、と平手で叩かれた。
「行け」
「……サラ様」
「客が待っている。それが舞台というものだ」
私は歩き出すと、絹の海が割れる。
ささやきの中を、インクの匂いのする娘がひとり、玉座の前へ進んでいく。
二つ目の画架が、私の前に据えられた。
「――お名前を」
「ミュシャ・アルフォンスと申します。アルフォンス男爵家の、三女です」
「では、ミュシャ嬢。お描きなさい」
左手で筆を取った。
最初の線を引いた瞬間、広間から声が上がった。
線は左から入り、なめらかに返る。
渦が、生まれた。
『ジスモンダ』と同じ唐草。
迷わなかった。
頭の中には、あの雪の夜からずっと、この続きがあった。
金の背景を思い、女王の裾を思い、そこに絡む春の草花を思った。
線が線を呼び、唐草は紙の端まで走る。
そして最後に――いちばん奥の影の中に、小さな四つ葉を一つ描き、筆を置いた。
広間が静まり返った。
それから、割れるような拍手が起こると、国王陛下が初めて口を開いた。
「ヴァンドーム卿」
広間の隅で、オーレリア様の父君が真っ青になって平伏した。
「娘が他人の手を奪い、その名を騙り、王家にまで虚偽を申し立てた。それを知っていたか」
「い、いえ!陛下、私は何も……!」
「ならば、娘を止められなかった責は負え」
陛下の視線が、オーレリア様へ移った。
「オーレリア・ド・ヴァンドーム。他人の才を己のものと偽り、王家の名までも欺いた。ヴァンドーム家の宮廷画壇への出資と後援は、すべて剥奪する」
「へ、陛下、どうかご寛恕を……!」
「また、王太子妃候補としての推薦も却下する」
オーレリア様の顔が歪んだ。
「北の修道院へ行け。そこで写本を書き写し、己の手で一枚の紙を埋めることがどれほどの労苦か、その身で知るがいい」
彼女は崩れ落ち、そして最後に私を見た。
憎しみでも謝罪でもない、ただ空っぽの目で。
「……どうして、あなたは、あんなに描けるの」
少し考えて、答えた。
「好きだからです。それだけです」
工房の親方は、進み出て床に額をつけ、すべてを白状した。
陛下は、ヴァンドーム家に脅されて従ったことについては重く問わなかった。
ただし、これまで名を奪われた職人たちがいるならば、すべて記録を改め、本来の作者の名を戻せと命じた。
親方は泣いていた。
私も、少しだけ泣いた。
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