第三話 黙ってやれ、ミュシャ!!
破綻は、春の訪れとともにやってきた。
王太子殿下が、直々に工房を訪れたのだ。
私は裏の作業場で版を洗っていた。
だから顔は見ていない、ただ表から声が聞こえた。
「――『ジスモンダ』を描いた者に会いたい」
「まあ、殿下。わたくしですわ」
オーレリア様の声。
「……本当に、あなたが?」
「もちろんですわ。あの絵は、雪の夜に一晩で描き上げましたの」
しばらく、何も聞こえなかった。
「あの夜、工房にいたのはあなたか」
「ええ、もちろん」
私は、洗い桶に手を突っ込んだまま動けなかった。
――出て行って、違うと言えばよかったのだ。
でも、そうすれば工房は潰れ、二十人が路頭に迷う。
そして誰が、貧乏男爵の三女の言葉を信じるだろう。
侯爵令嬢と、インクまみれの下働き……答えは決まっている。
桶の水を見つめたまま、ただ黙っていた。
何も言えないまま、やがて足音が遠ざかっていった。
その晩、オーレリア様がひとりで工房へ戻ってきた。
「あなた、殿下の前に出てこなかったわね」
「……はい」
「賢明よ。でも、賢明すぎるのも困るの」
彼女は私の作業台へ歩み寄った。
そして机の上の下絵を――夏の祝祭のために三か月かけて描いた、百枚の草花の意匠を――無造作にかき集め、暖炉へ投げ入れた。
「あっ……!何を!!」
火が、いっせいに燃え上がっていく。
絵の具のせいだろうか。
見たこともない色の炎へ変わるのを、呆然と見ることしかできない。
「殿下は、あなたの手を探しているそうよ。指の青い手をね」
炎に照らされたその顔は、初めてはっきりと怯えていた。
「……だからあなたはもう、描いてはだめ。あなたの絵がこの世に一枚でもあるかぎり、わたくしは安心して眠れないもの」
「そんな……」
「工房は解体させるわ。王都から出ておいき。――二度と筆を持つのも許しませんわ、ミュシャ・アルフォンス」
燃える紙を見ていた。
金色の唐草が、灰になっていくのを。
止めることも、泣くこともできず、ただ体の芯が抜け落ちていくような感覚だけがあった。
その夜、私は荷物ひとつを抱えて、工房を出た。
春だというのに、街は灰色だった。
あの日、私が「顔を上げたときに暖かいものを」と思って描いた壁には、もう何も貼られていなかった。
三日後。
私は場末の宿の三階で、寝台に転がっていた。
金はもうすぐ尽きる。
実家へ帰れば、父は「傷がついた娘」と言って嫁ぎ先を探すだろう。
私は天井の染みを数えていた。
その天井が、突然揺れた。
――正確には、扉が蹴り開けられたのだ。
「見つけたぞ、この馬鹿画家がぁ!!」
「さ、サラ様!?」
深紅の外套を大きく翻した舞台の女王。
彼女は宿の粗末な床を靴で踏み鳴らし、私の襟首をつかんで引き起こした。
「三日だ!三日も探させおって!劇場の看板を勝手に降りるとは何事か!」
「だ、だって、私はもう描いてはいけないと」
「誰が決めた」
「……侯爵令嬢が」
「侯爵令嬢が何だ」
彼女は鼻で笑った。
「私は華月歌劇団の座長だ。私の舞台で、私の顔を、私の名を、あの絵で国中に売ったのは誰だ。お前だろう。それを他人の手柄にされて、のうのうと寝ているのか?」
「……でも、証拠がありません。誰も信じません」
「証拠?」
「証拠ならある。お前の手の中に」
サラ様は身を屈め、私の目を覗き込んだ。
私は自分の指を見た。
「お前は、その場で描ける。あの女は描けない。それ以上に分かりやすいものがあるか?」
息が詰まった。
「五日後、王城で春の舞踏会がある。宮廷画家長の名において、『御前制作』が行われることになった」
「ごぜん……せいさく?」
「王と王太子の御前で、絵師が筆を執る。宮廷に古くから残る儀式だ。今年の主役は、もちろん――『ジスモンダの画家』とやらだ」
サラ様は、にやりと笑った。
役者の笑みだった。
「私が座長として推挙した。宮廷画家長も乗った。逃げられんぞ、あの女は」
震える手を見た。
三日間、何も握っていなかった手には、青い染みだけがまだ残っていた。
「……サラ様」
「なんだ」
「筆を、貸していただけますか」
「はっ!」
彼女は高らかに笑うと、外套の内から一本の筆を投げてよこした。
「言ったはずだ。――黙ってやれ、ミュシャ!!」
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