第五話 舞台は、客に見せてこそだ!
舞踏会の喧騒を抜け、私はバルコニーへ出ると、春の夜風はまだ少し冷たかった。
「……逃げるのが早い」
「殿下」
振り向いて礼をしようとした私を、ジュリアン殿下は手で制した。
「あの夜のことを、覚えているか」
「……覚えています。ずっと」
「私は、あの夜から探していた」
殿下は手すりに肘をつき、灯りの散る王都を見下ろした。
「灰色の街に、顔を上げたときの暖かさを配ろうとした者がいる。――それは本来、王がやるべきことだ。だが私はそれを、絵筆一本で先にやってのけた娘を見た」
「そんな、私はただ……」
「探した。三か月、探したんだ」
殿下は苦笑した。
「工房まで行った。あの女が『私です』と言った。だが、年越しの夜に私と話したことを覚えていなかった。唐草のことを尋ねても、まともに答えられなかった」
私は黙って聞いていた。
「その時点で、偽物だとは思った。だが、私が疑っているだけでは足りなかった」
殿下の表情が変わった。
「ヴァンドーム家は、長年にわたり宮廷画壇へ多額の金を出している。私が証拠もなく『侯爵令嬢は偽物だ』と言えば、今度は本物のお前が、王太子に取り入って侯爵令嬢を陥れた女にされる」
思わず顔を上げた。
「だから、誰の目にも分かる形で証明させる必要があった。宮廷画家長に筆跡を調べさせ、サラ・ベルナデットにも話を通した」
「……サラ様も?」
「あの方は、私より先に怒っていた。『私の看板絵師を泥棒扱いするなら、王城の舞台に乗り込んでやる』と言われた」
「……言いそうです」
「だろう?」
それはもう、容易に想像できてしまい、笑みが零れると、釣られるように殿下も笑う。
それから、その笑みが少しだけ消えた。
「だが、遅かった。お前が職を失い、絵を焼かれたことを、私はもっと早く止めるべきだった。証拠を揃えることばかり考えていた。――すまなかった」
「や、やめてください、殿下!頭をお上げください!」
「では、代わりに聞いてくれ」
殿下は顔を上げ、青く染まった私の手を取った。
粗い、荒れた指を。
「ミュシャ・アルフォンス。この手を、私にくれないか」
「……あの、殿下。私は男爵家の三女で、インクの匂いがして、指はもう一生青いままです」
「知っている」
「絵を描いていると、食事も忘れます。徹夜もします。妃としては、たぶん最悪です」
「それも知っている」
夜風が頬を撫でた。
殿下のその表情は、あの雪の夜と同じ、静かな笑い方だった。
「私が欲しいのは、飾りの妃ではない。この国の壁という壁を、金色に変えられる人だ。――隣で、描き続けてほしい」
涙が自然と溢れてきた。
工房を追い出された夜にも出なかった涙が、こんな時に出るのかと思いながら、みっともなく泣いた。
「……無茶です」
「そうか」
「無茶ですけど」
殿下の手を握り返した。
「……やらせてください」
バルコニーの下から、盛大な拍手が上がり、見下ろす。
深紅の外套を纏った女王が、華月歌劇団の団員たちを引き連れて仁王立ちしていた。
「よく言った、ミュシャ!!それでこそ私の看板絵師だ!!」
「さ、サラ様、聞いてらしたんですか!?」
「舞台は、客に見せてこそだ!」
殿下が声を上げて笑うのを見て、私も笑った。
気がつけば、涙は引っ込んでいた。
リュミエール王国の王都は、やがて「壁が美しい街」と呼ばれるようになった。
劇場の宣伝画。
季節の祭りの掲示。
薬屋の看板。
街角の時計塔の装飾。
それらは、金と青と、灰がかった薔薇色の唐草で飾られている。
冬の朝、うつむいて歩く人が、ふと顔を上げると、そこに暖かいものが見えるように。
その意匠を統べるのは、王太子妃ミュシャ・ド・リュミエール。
貴族たちは今でも時々、こう囁く。
「妃殿下の指は、なぜ青いのか」と。
その問いに、王太子殿下はいつも、たいへん機嫌よく答えるのだそうだ。
「顔料が落ちないからだ。――私の妃は、今も現役の絵師だからな」
ちなみに、王城の私室には、いまも一枚の古い宣伝画が飾られている。
金の背景。
棕櫚の葉。
左へ巻く唐草。
そのいちばん奥の、影の中に。
誰にも見えないほど小さな四つ葉が、ひとつ。
最後までお付き合いありがとうございました。
ミュシャよりもサラの方が書いていてめちゃくちゃ楽しかったです!
サラ主人公で1本書きたくなるほどに…!
サラのお話も読みたいと思っていただけたら、ブックマーク、★★★★★、よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ





