15
あっという間の出来事は記憶に残らないというけれど。その言葉を噛みしめるように気付くと僕はリンさんの家、それもリビングのソファーに腰掛けて、目の前で跪いたリンさんがいるというシチュエーションに驚いた。
こ、これってどういう状況?
僕は視線を合わせる事が出来ず俯いたままジッと床を眺めている。何を話していいのか分からず、それでも話すべき事は決まっているという不可思議な現象に驚き、戸惑っていた。
「倫太郎…。お前どうして俺を避けた?」
「さ、避けてなんて…。」
「避けてただろう?急に寄り付かなくなって。前に会わなくなった時とは違う。連絡も何もかも一斉を断っただろう。どうしてだ?」
リンさんはその理由を知っているだろうに、僕の口から言わせたいのだろうか。
リンさんのお父さんが事故に遭った時に配達していた自転車が僕の物で。それは僕の母がその日に頼んだもので。そのせいで事故にあってリンさんのお父さんが亡くなった。
そんな悲しい連鎖を僕の口から言わないとならないのだろうか。そう思ったらリンさんに責められているようで僕の瞳からは涙が零れた。
音も立てず落ちる涙は僕の膝に置いた手を濡らし、僕は慌てて涙を拭った。
「ふっ…」
閉じた口の隙間から零れた声は静けさの中で大きく響き、リンさんはその声に後悔するように僕を下から見上げて頬に手を伸ばした。
「泣かなくていい。怒っているわけじゃないんだ。」
「で、でもっ…。」
「倫太郎はお前の母さんから俺の父親との事、聞いたんだろう?」
伸ばされた手は包み込むように僕の頬全体を包み、親指の腹で目の下を優しく撫ぜた。その仕草が切なくて、僕の涙腺はまた緩む。
「お前が気に止む事はないんだ。全ては偶然でしかない事だし、俺の父親もお前の母親も、どちらも悪い事なんてない。」
「でも…母さんが頼まなければ…。リ、リンさんのお父さんだって…。」
「それは違う。あの日、お前に自転車を届けようと望んだのはお前の母さんだけじゃない。俺の父親だってそうだ。」
「そんなの…お客さんから頼まれたら嫌なんて言えないでしょう…。ただそれだけの事だよ…。」
リンさんが言ってくれる言葉は僕の罪悪感が少しでも軽くなるように。そう願っての言葉にしか聞こえなかった。
「リンさんだって…僕に会うの辛いでしょう?僕の事許せないでしょう?そう思われてる人に、これ以上は会いにはいけないよ…。」
問われた問いに答えた事になるだろうか。
僕の存在自体がリンさんにとって苦しい思い出と結びついているんだと思ったら傍にはいられない。
なのに、僕の言葉を聞いたリンさんは片手で撫ぜていた指をピタリと止めると、今度は両手で僕の両頬を掴み膝立ちになって視線を合わせた。
「俺が…俺がそんな事を望んだと思うのか…。倫太郎と会えない事を…。倫太郎の存在を否定するような事を…望んだと思うのか。」
その視線の強さに僕の身体が竦む。決して背けられない力強い瞳が僕の目の前にはあった。
「親父だって望んで事故に遭った訳じゃない。でもお気に入りの子に自転車を届けるために出掛けたんだ。それは親父の願いでもあった。事故に遭ったのは酷く痛ましい出来事で、避けられたかも知れない。それでも親父が死んで無念だと思ったのはお前があの自転車に乗っている姿を実際に見れなかった事じゃないのかと思う。」
「そ、そんなっ。どうしてっ。どうしてそんなっ事っ、…言えるのさっ。」
途切れ途切れに言葉にすると、リンさんは徐に僕を立たせ、手を引いて何処かへ連れて行こうとした。
「なっ、なにっ…。」
ひと言もしゃべらず連れて行かれたのはリンさんの寝室だった。ポイッとベッドに投げ出されて、僕の身体が跳ねる。
リンさんはそんな僕には目をくれず、部屋の片隅に置かれたダッシュボードを開けると、中から何かを取り出して僕の下へ戻ってきた。
「なに?」
スッと差し出されたのは一枚にハガキ。何度も手に取った痕が分かるかのように端がヨロヨロとよれていて年月を感じさせる。
「見てみろ。」
目を落とすとそこには子どもらしい字で『自てん車ののりかたを教えてくれてありがとう』と書かれた文字と、青い自転車に乗った男の子の絵が描かれていた。お世辞にも上手と言えるような文字でも絵でもないけれど、紙面からは嬉しいという気持ちが溢れ出るかのように明るく、楽し気な様子が伝わってくる絵だった。
「裏も見て見ろ。」
ひっくり返すと宛先はこのお店。差出人はーーーー
『かじ りんたろう』
「……僕だ…。」
「ああ、お前だ。お前からの手紙だ。」
「なっ、何でっ。僕、そんな手紙出したなんて…。」
そう言って、以前交通教室で戸部さんが言っていた言葉を思い出した。
『君は凄く嬉しかったみたいで後でお礼状が届いたってアイツが言ってたよ。そんな子いなかったから凄く嬉しいってさ。』
目の前にあるのはその時の手紙だ、と分かる。
本当にお礼状を書いていた…。それだけで自分がどれだけ嬉しかったのか分かる。
「…俺は憶えているよ。親父に『同じ”リン”って名前の子がいて自転車に乗れるようになった顔が凄く可愛かった。あんな笑顔の子どもをもっと増やしてやりたい』って何度も聞かされたからな。」
「え…。」
「そんな親父の顔が凄く楽しそうで、その話しを聞かされる度に何だかこっちもそんな気分になってきてな。ここで生きていくのも悪くないんじゃないかって思うようになって行ったんだ。」
「な、なに言って…。」
「それまで、外にばっかり目を向けていた俺に、この街に…この店に、目を向けるきっかけをくれたのは間違いなくお前なんだ。俺は今それに感謝している。」
リンさんはそう言って俺に優しく微笑んだ。
「ありがとな…倫太郎。」
その言葉は僕を慰める為でも、宥める為のものでもなく。まごうことなきリンさんの心からの言葉だった。
ああ、僕はリンさんにとって悲しい思い出の象徴じゃなかったんだ。
そう思ったら再び涙が溢れた。
「ああっ、泣かせるためにこの手紙を見せたわけじゃないのにっ。泣くなって、な、倫太郎っ。」
焦って僕を宥めるリンさんは見た事のない姿で、僕はほんの少し甘い痛みを享受した。
「最初はそれだけだったんだ。俺の小さな恩人、みたいに思ってた。それが一度新聞配達で見かけたら気になってな。街に用事で出掛けると探すようになった。」
問い掛けるように先を促すとリンさんは照れたような顔をする。
「パンクしている姿を見た時、思わず声をかけた。お前の前には現れない方がいいって思っていたのにな。お前のバイトの事は知っていたから、パンクを軽く考えている姿を見てついカッとなった。あの時は悪かったな。」
そう言えばあの時、リンさんは応急処置だと言っていた。また修理が必要になる前に店に来い、と言ってくれたのも僕のバイトを知っていたからなのだろう。
「あの時から…僕だって分かってたの?」
「ああ、ずっと見てたからな。お前が青い自転車に乗って同じ道を何度も通り過ぎていたのも知っているし、大変な思いで朝早くから新聞配達をしているのも知っていた。」
そんな昔から…と思ったら少し気恥ずかしい。
「それが毎日ここに顔を出すお前を見ていたら可愛くてしょうがなくなった。俺の腕の中に閉じ込めて、ずっと撫でまわしてやりたくなった。」
リンさんは僕の肩をトンと押すと、僕の身体は柔らかいベッドが受け止めた。
「こんな気持ちは迷惑か?俺がお前を大事にしたいと思う気持ちはお前にとって迷惑だとしか感じないか?」
「え?え?」
リンさんの両腕に挟まれるような格好でただリンさんをジッと見上げるしかない僕は、金縛りにあったようになおも熱い視線で僕を見るリンさんをただ見つめ続ける事しか出来ずにいた。
「俺の気持ちを少しでも嬉しいと思ってくれるなら…俺はこれからもお前を可愛がりたい。」
「あ、あのっ、リンさんっ。」
「どうだ、倫太郎?急かし過ぎてるか?」
「あ、ぼ、僕っ。」
「お前が気が向いた時にこの店に来てくれるだけでもいい…。だから…俺から離れていく事だけは止めてくれ…。好きだ…好きなんだ、倫太郎が…。」
「…リンさん…。」
熱いリンさんからの告白に顔がボウっと熱くなる。それでも何処か不安気なリンさんの瞳に僕は喘ぐように息を吸って気持ちを伝える。
「そんなのっ毎日来ちゃうじゃん。」
「倫太郎…それって。」
「僕だってリンさんが好きなんだよ。リンさんの仕事している姿をずっと見ていたいんだ。」
「倫太郎っ。」
感極まったようにガバッと僕の上に覆いかぶさったリンさんは「ぐえっ」と重さで呻いた僕の上から慌てて除けると、僕の手を引いて身体を起こし改めて僕の身体を抱き締めた。
「本当だな。本当に俺の事、好きなんだな。」
「もうっ、本当だよ。リンさん…ちゃんと聞いてたでしょ?」
「何回聞いても嬉しいもんは嬉しいんだよ。…だから、何度も言えよ、倫太郎。俺のことが好きだって…。」
そんな風にちょっと照れたように僕に伝える不器用なリンさんに、僕は少しだけ笑って、
「リンさんの事が大好きだよ…。」
と耳元で囁いた。
伝えた言葉の返事は愛しさの詰まった優しいキスで。
「俺も…倫太郎が好きだ。」
という心の籠った恋人からの愛の告白もセットで受け取った僕はそのまま幸せな気持ちで目を閉じた。




