第三話「百十円の理由」
奏綴神社には、蝉しかいなかった。
夏の午後。
木々に囲まれた境内は街より少し涼しい。
風が吹くたび、葉の擦れる音が静かに響く。
天沼智史は石段に腰掛けながら、ぼんやりと境内を見回した。
本殿は小さい。
古い。
掃除はある程度されてはいるが、ところどころ年季を感じる。
石灯籠には苔。
柱にはひび。
正直、放っておけばそのうち自然に飲まれそうな神社だった。
「……で?」
「なんじゃ」
すぐ隣。
奏さまが当然のように座っている。
黒髪を揺らしながら、麦茶を飲んでいた。
どこから出した。
「いや、“なんじゃ”じゃなくて」
「む」
「なんで百十円なんです?」
奏さまは真顔で答えた。
「百円では足りぬからじゃ」
「雑!!」
境内にツッコミが響く。
蝉は元気だった。
奏さまは呆れたようにため息を吐く。
「お主、百円で何が買えると思っておる」
「いやまぁ……百円ショップとか」
「今や百円では足りぬであろう」
「急に現実!!」
「税がある」
「嫌な生々しさだなぁ!」
奏さまは麦茶を一口飲み、妙に真面目な顔で頷いた。
「故に百十円」
「そこ連動するんだ……」
「人の世の流れに神も合わせねばならぬ」
「順応しすぎなんだよなこの神様……」
奏さまはふふん、と少し得意げだった。
「昨今は百二十円も検討しておる」
「値上げ予告やめてください」
「物価高なのでな」
「神社に景気ニュース持ち込まないで!?」
風が吹く。
鈴が小さく鳴った。
奏さまは空を見上げながら、どこか他人事みたいに言う。
「神社運営も楽ではない」
「神様って運営とか言うんですね……」
「言うぞ」
「夢が壊れるなぁ」
「現実を見よ」
「神様が一番現実的なのなんなんだ……」
智史は麦茶を受け取った。
普通に冷えていた。
神様なのに妙に生活感がある。
「……でも実際」
智史は境内を見回す。
「維持するの大変そうですね」
「うむ」
奏さまはあっさり頷いた。
「木も、屋根も、石も。放っておけば朽ちる」
その声は静かだった。
「神社というのは、誰かが気にかけねば消える場所じゃ」
蝉の声が少し遠くなる。
風が、古い拝殿の屋根を撫でた。
「…………」
智史は黙って境内を見る。
確かに、少し寂れている。
だが、不思議と嫌な感じはしなかった。
むしろ落ち着く。
静かで。
古くて。
少しだけ時間から置いていかれたみたいで。
「昔はもう少し人が来たのじゃ」
奏さまがぽつりと言う。
「へぇ」
「祭りの日などは賑やかだった」
「今は?」
「見ての通りじゃ」
誰もいない。
蝉だけ。
夏の風だけ。
「……よく残ってますね」
智史がそう言うと。
奏さまは少しだけ笑った。
「神はしぶといぞ」
冗談っぽい口調。
でも、その目だけは少し優しかった。
「忘れられても、そう簡単には消えぬ」
智史は、なんとなく自分のスマホを見た。
投稿した曲。
再生数。
増えない登録者。
数字だけ見れば、もうとっくにやめていてもおかしくない。
それでも続けている。
誰に言われたわけでもなく。
「……まぁ」
智史は苦笑した。
「なんとなく分かる気はします」
「ほう?」
「誰も来なくても、そこにある場所ってありますし」
奏さまは少しだけ目を細めた。
風が吹く。
長い黒髪が揺れる。
「だからお主はここに来たのかもしれぬな」
「…………」
その言葉に。
智史は少しだけ言葉を失った。
奏さまは、本当に時々こういう顔をする。
全部見透かしたみたいな。
神様みたいな顔を。
「……なんか今ちょっといい話っぽかったですね」
「うむ」
「珍しく神様っぽかった」
「失礼な」
奏さまは不満そうに眉を寄せる。
そして当然のように言った。
「だから百十円」
「結局そこか!!」
「維持費じゃ」
「感動を請求に使うな!」
「お主、話の流れを理解しておらぬな」
「理解したくないですよそんな流れ!」
奏さまは呆れたようにため息を吐いた。
「まったく……」
「なんですか」
「百十円でこの癒やし空間を維持できるなら安いものであろう」
「サブスクみたいに言うな!!」
境内に、智史のツッコミが響いた。
そして奏さまは。
やっぱり少し楽しそうに笑っていた。




