第3話 ランドルフ殿下は音楽が嫌いだ
翌朝、マルガを故郷へ帰した。
「お一人で大丈夫でございますか」と三度聞いたマルガに、「大丈夫じゃなかったら手紙を出す」とだけ答えた。それで納得してもらえたのは、マルガがわたしの嘘を見抜く人間だからだと思う。嘘をついていないから、信じた。
頼んだのは一つだけだ。
宿を出る前に渡した手紙には、地下倉庫の楽譜をすべて箱に入れ、王都へ送るよう記した。最後に、「開けないこと」と書いてから、少し考えた。それでも、その一文は消さなかった。
マルガが楽譜を開くかどうか、という問題ではない。あの人は命じられたことを守る。ただ、「開けるな」と書いたという事実が、わたし自身の中で何かを確認していた。あの地下倉庫の楽譜には、まだ形になりきっていない何かが残っている気がした。
あの楽譜が何であれ、最初に見るのは、わたしでなければならない——そんな感覚があった。根拠のない直感だが、前世でも、完成前の曲を誰かに聴かせることはなかった。そういうことだけは、妙に譲れなかった。
未完成のものは、触れられるだけで壊れる気がした。
返答の期限まで、一日あった。
宿に戻ってから、わたしは机に向かって紙を広げた。楽譜用紙ではなく、白紙だ。そこに二つの名前を書いた。
ランドルフ・ベルナルド。
王太子、アルベール・ベルナルド。
それぞれの下に、昨日わかったことを書き出していった。
ランドルフ王子——省略する人間。儀礼よりも情報を優先する男だった。昨日の演奏を「上位詠唱」と言い切ったとき、その言葉の選び方だけで知識の深さがわかった。にもかかわらず、「音楽が嫌いだ」という噂が宮廷にある、とエドモンが道すがら一言だけ教えてくれた。音楽魔法に精通しながら音楽を嫌う人間が、楽師を求める理由がまだ見えなかった。
王太子——儀礼を守る人間。組織の大きさを盾にする。ドナトゥス家の楽譜を知っていた。父が宮廷にいた時代を知っている年齢だ。楽譜への言及は、探りか、それとも取引の材料として既に算段しているのか。
二つのリストを見比べて、ペンを置いた。まだ、どちらにも傾けなかった。
情報が足りない。特に、父のことが。それでも、考え始めると妙に引きずられた。
リーラ・ドナトゥスとして生きてきた二年間で、父についてわかっていることは少ない。マルガは多くを語らなかった——語れなかったのか、語りたくなかったのかも、まだわからない。父について確かなことは少ない。宮廷にいたこと、そこから離れたこと、そして戻らなかったことだけだ。
地下倉庫の楽譜が届くのは、早くても五日後だ。
その前に返答しなければならない。
つまり、楽譜を見ないまま選ぶ必要がある——あるいは、楽譜を見るための時間を確保できる側を選ぶ、という判断基準で選ぶか。
ランドルフ王子は「音楽院への正式入学許可」を条件に出した。王都での活動基盤を作ることが前提の条件だ。マルガが楽譜を送ってくれれば、受け取るのは王都になる。
王太子派は「正式な場でゆっくり話しましょう」と言ったが、手続きは進めるつもりだった。楽譜の話をする前に、まずこちらを組織の中に取り込む手順を踏もうとしている。
どちらが楽譜を先に見るか。
そう考えた瞬間、自分でも少し呆れた。派閥選択の基準が、音楽院への入学でも身の安全でもなく、「楽譜を誰に渡さずに済むか」になっている。
前世の癖だ。
未完成のものを、他人に触らせたくない。
午後、用もないのに宿を出た。
王都は大きい。故郷の町とは比べものにならない。石畳の通りに露店が並んで、印刷されたばかりの楽譜が風に揺れて売られている。この国では、楽譜は日用品だ。料理のレシピを買うような気軽さで、人々が旋律を手に入れている。
露店の楽譜を一枚手に取った。
「眠りの子守唄・家庭用簡易版」と題されていた。楽譜の余白に、注意書きがある。本旋律の効果範囲は演奏者から半径二メートル以内。乳幼児への使用は一日一回まで推奨。
医薬品の説明書と同じ書式だ。
前世の世界で「音楽は心を豊かにする」と言っていた言語と、この世界で「使用回数は一日一回まで」と書く言語は、根本的に違う文明から来ている。どちらが正しいわけでもないが、わたしが慣れているのは前者で、この世界が要求するのは後者だ。
ここで生き残るには、後者の言語を流暢に話せなければならない。
楽譜を棚に戻して、歩き続けた。路地を曲がったところで、音が聞こえた。
ピアノではない。この世界にピアノはまだない——クラヴサンより少し柔らかい音がする楽器で、わたしはまだ名前を覚えていない弦鍵盤楽器だ。弾いているのは子供で、窓から音が漏れていた。
音階の練習をしている。ドレミファソラシド、ドシラソファミレド。機械的に、正確に、何の感情もなく。
上手い、とは言えない。でも正確だ。
ふと思い出したのは、自分が最初にピアノを習い始めた頃のことだった。澪として生きていた最初の記憶の一つ——三歳か四歳で、先生に「もっと感情を込めて」と言われるたびに、感情とは何かがわからなかった。音符を正確に弾けば良いのではないかと思っていた。感情は後から、技術の上に乗せるものだと、ずいぶん長い間、思い込んでいた。
いつから逆になったのだろう。
技術を感情の代わりに使うようになったのは。
子供の音階練習が止まった。窓が閉まった。静寂が戻った。わたしの指が、無意識に空中で続きをなぞっていた。
気づいて、手を握り込む。
わたしは来た道を引き返した。
宿へ戻る途中で、エドモン・ラクロワに会った。偶然ではない。この男が偶然を装う人間ではないことは、昨日で理解している。
「散歩でございますか」
「そうです」
「殿下が、もしご都合がよければ本日もう一度お時間をいただけないかと」
返答期限は明日だ。前倒しの接触は、何かが動いたか、あるいは王太子派の動きが早かったかだ。
「何時でしょうか」
「今から、でも」
「わかりました」
エドモンと並んで歩きながら、わたしは昨日と同じ西棟への道を頭の中で確認した。宮廷の地理は昨日一度歩いただけだが、方向感覚は前世から良い方だった——ツアー先の慣れない都市で、地図なしに会場へ戻れたくらいには。
「昨日、殿下が音楽が嫌いだとおっしゃっていましたね」とわたしは言った。
エドモンが半歩分、歩調を乱した。小さな乱れだったが、わかった。
「わたしが申し上げたのでございますか」
「道すがら、一言だけ」
「……失言でございました」
「いいえ」とわたしは言った。「情報のつもりでおっしゃったのでしょう。昨日の段階では、わたしに受け取る準備がなかっただけです」
エドモンは何も言わなかった。でも歩調は戻った。
「殿下が音楽を嫌いになったのはいつ頃のことですか」
「……それは、殿下に直接お伺いいただく方が」
「そうします」
第四サロンで、今日はクラヴサンの蓋が開いていた。
昨日は閉じていた。細かいことだが、確認した。ランドルフ王子が先に来ていて、鍵盤の前に立っていた——弾こうとしていたわけではなく、見ていた、という姿勢だった。わたしが入ってきた気配で振り返った。今日は一拍ではなく、すぐに。
「急に呼び出して悪い」
「いいえ。用事もありませんでしたので」
「正直だな、相変わらず」
「非公式の場だとうかがっていましたので」
昨日と同じ言葉を繰り返した。王子は短く息を吐いた。笑いではなかったが、笑いに近いものだった。
「兄上の夜会で、父の楽譜の話をしたか?」
「されました」
「内容は?」
「記録に残っていない楽譜があると聞いている、とだけ。詳細は正式な場で、とおっしゃっていました」
王子の顔が、微かに変わった。表情が変わったのではなく、表情の奥にある何かが変わった。
「兄上が、ドナトゥス家の楽譜を知っているとは思っていなかった」と彼は言った。獨り言に近い声だったが、わたしに聞かせる意図があった。「あなたへの接触が、楽譜目的である可能性がある」
「わたしもそう考えています」
「その楽譜を、もう見たか」
「いいえ。まだ実家に」
「取り寄せる手配は」
「しました。五日ほどで届くかと」
王子はクラヴサンから離れて、窓の方へ歩いた。中庭の噴水を見ている。昨日と同じ姿勢だ。考えるとき、視線を外す人間なのかもしれない。
「ドナトゥス家の先代は」と彼は言った、「わたしが八歳のとき、宮廷を去った。わたしは詳細を知らない。ただ、去る直前に、あの方の演奏を一度だけ聴いたことがある」
動かなかった。
「どんな演奏でした?」
「怖かった」「翌日、侍従の一人が理由もなく泣き出したのを覚えている」
短い答えだった。
「怖い、というのは」
「聴いていると、自分の感情がどこか遠いところへ持っていかれるような感覚があった。体は椅子に座ったままなのに、自分がどこにいるかわからなくなる。あの感覚を——」王子は少し止まった。「わたしは以来、音楽が苦手だ」
苦手。嫌い、ではなく、苦手。
言葉の選び方に、何かが宿っていた。
「それで?」とわたしは言った。「昨日のわたしの演奏は」
「似ていた」
沈黙。
「にもかかわらず、合格させてくださった」
「似てた。でも違った」彼は窓から振り返った。「あの方の演奏は、聴く者を外へ引きずり出すような力があった。昨日の君の演奏は——内側へ向かっていた。聴いている者が、自分の中へ還っていくような」
「……殿下は」
「何だ?」
「音楽を、よく聴いていらっしゃいますね。苦手だとおっしゃるのに」
今度の沈黙は、長かった。否定する言葉を探しているようにも見えた。
「聴かざるを得ない立場なんだ」とだけ、彼は言った。
その答えには、もう一枚裏がある、とわたしは思った。でも今日は聞かなかった。情報というのは、一度に全部引き出そうとすると相手の防御を硬化させる。ここまでで十分だ。
「返答を、今日もらえるか」と王子は言った。
「明日が期限だったかと、急かされているとは感じませんが、理由を伺えますか」
「王太子派が明日、正式な勧誘状を送るらしい。正式な勧誘が届いた後では、断る際に君の立場が難しくなる」
「それは、わたしへの配慮ですか」
「そうだ」即座に言った。「取引相手としての配慮でもある」
取引相手。
派閥員でも臣下でもなく、取引相手。
この人は、少なくとも今この瞬間、わたしを道具として扱っていない。道具に対して「立場が難しくなる」という心配はしない。
脳の別の部分が冷静に整理しているのと並行して、別の何かが動いていた。父の演奏の話。八歳の王子が感じた恐怖。それが二十年以上経ってもまだ、このクラヴサンの蓋を閉じさせている。
それを知ってしまったら、計算だけでは動けなくなる。
「一つ、確認させてください」とわたしは言った。
「もちろん」
「殿下は、わたしに父と同じことをさせたいわけではないですね」
王子は答えるまでに間を置いた。それは検討の間ではなく、正確に言葉を選ぶ間だった。
「君の父上が何をしたかを、わたしは知らない。ただ——あの演奏は、誰かに命令されてするものではなかったと思っている。昨日の演奏も、同じだった」彼は真っ直ぐこちらを見た。「命令された音楽は、昨日のような効果を出せない。それを理解した上で、あなたを招いている」
「……承知しました」
「返答は?」
少しだけ、息を置いた。「はい。殿下の派閥に加わります」
決め手は条件ではなかった。
命令された音楽は、昨日のような効果を出せない——そう言った人間が、わたしに命令で曲を書かせることはないだろうという、根拠のない確信だった。根拠がないのは承知している。でも、前世でも、本当に良い依頼ほど「好きにやってください」から始まった。その経験則が、今もまだわたしの中で動いている。
感傷だ、とわかっていた。でもたまには感傷で動いても、いいかもしれない。
正式な書類の取り交わしは翌日に行われる、ということになった。
帰り際、エドモンではなくランドルフ王子自身が廊下まで送ってきた。昨日と同じだ。習慣なのか、その都度の意図なのかはわからない。
石廊下を並んで歩きながら、王子が言った。
「一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「音楽が嫌いな理由を聞かなかったのは、なぜだ?」
わたしは少し考えた。
「苦手、とおっしゃっていたので」
「同じことだ」
「違います」とわたしは言った。「嫌いというのは、拒絶の言葉です。苦手というのは、まだ諦めていない言葉です」王子は、その言葉を聞いて初めて目を伏せた。
王子は何も言わなかった。
廊下の窓から、夕暮れの中庭が見えた。噴水が橙色の光の中で光っていた。
「クラヴサンの蓋が開いていましたね」とわたしは言った。
「……気づいたか」
「はい」
「特に意味はない」
「そうですか」
嘘だとわかったが、指摘しなかった。指摘しないことが、今日の最後の配慮だと思ったから。
西棟の出口で別れた。外はもう夕暮れで、王都の尖塔が朱く染まっていた。歩きながら、わたしは自分の胸の中を確認した。
何かがある。感情と呼んでいいのか、演奏前の緊張と似た何かなのか、判断がつかない。
ただ——昨日より、少し、世界の音がよく聴こえる気がした。それが少し怖い、とも思った。
それが良いことかどうかは、まだわからない。この力の代償は、人を遠ざけることだ。
近づいてしまったなら、逆のことが起きているということだ。
それが何を意味するのか、今夜はまだ考えないことにした。




