第2話 値札のついた才能
宮廷に呼ばれた翌朝、わたしが泊まっていた宿の扉を、二通の封筒が、時間をずらして扉を叩いた。
最初は夜明け直後だった。
まだ眠っていたマルガが起きる前に、わたしは自分で扉を開けた。廊下に立っていたのは、くすんだ銀糸の制服を着た若い男だった。二十歳そこそこ、顔に感情がなかった。訓練された無表情というより、そもそも感情を持つことを前提にしていないような顔だった。
「リーラ・ドナトゥス様でいらっしゃいますか」
「そうです」
「第二王子殿下、ランドルフ・ベルナルド殿下の秘書官、エドモン・ラクロワと申します。殿下より、書簡をお預かりしております」
差し出された封筒は、深い紺色だった。封蝋は王家の紋章ではなく、弦楽器を模した私印だった。
受け取って、礼をして、扉を閉めた。
封を切る前に窓の外を確認した。夜明けの王都は靄の中にある。石畳の上を早朝の荷馬車が通り過ぎていく。何も異常はない。
それから封を開けた。
書簡の文体は、予想よりずっと簡潔だった。
宮廷の書き言葉というのは一般に、回りくどい敬語と装飾的な比喩で満ちているものだと、この二年間で学んでいた。でもランドルフ王子の文章は違った。
昨日の演奏について、詳細を伺いたい。本日の午後、王宮西棟の第四サロンに来られたし。非公式の場とする。——R
以上だった。
「R」で終わる書簡を、わたしはしばらく眺めた。
非公式。つまり記録に残さない。つまり、正式な派閥勧誘の前に、個人として話したいということだ。王子は秘書官を使いながら「非公式」を演出している。一見すると矛盾しているが、たぶんこれは“切り分け”だ。——エドモン・ラクロワという名の秘書官は、おそらく殿下の私的な事務を扱う人間で、宮廷の派閥記録には見当たらない——少なくとも表向きは。
手が早い。昨日試験が終わってから、まだ十二時間も経っていない。
感心するべきか、警戒するべきか。
両方だろう、と結論づけてお湯を沸かしに行った。
二通目の封筒が届いたのは、朝食の最中だった。
マルガが起き出してきて薄いスープを作ってくれて、わたしがそれをほぼ味を感じないまま飲んでいたところへ、今度は宿の主人が部屋まで持ってきた。
「お嬢さん、届け物です。使いの方が、急ぎだと言っておりました」
封筒の色は、赤だった。
封蝋には、太陽の紋章。王太子派の色だ。
「マルガ」
「はい、お嬢様」
「昨日の試験で、わたしの他に合格した人は何人いたかしら」
「確認しておりませんでしたが……試験の規模から申し上げれば、おそらく十名前後かと」
「その十名に、今朝、こういう封筒が届いていると思う?」
マルガは少しだけ視線を落としたあと、首を横に振った。
「……少なくとも、私の知る限りでは届いていないと思います」
「そう」 わたしは短く息を吐いた。「なら、わたしだけということね」
赤い封筒の中身は、王子の紺の封筒より長かった。王太子殿下の名代として、首席補佐官のバルト・ヴィラネル卿が署名していた。文体は儀礼的で丁寧で、言いたいことを言うまでに三段落かかっていた。
要約すれば——本日夕刻、王太子殿下主催の夜会に招待する。非公式の懇親会である。ドナトゥス家の音楽的才能に、王太子殿下は深い関心をお持ちである。
非公式の夜会。
紺の封筒は「非公式の面談」。
どちらも「非公式」という言葉を使っている。どちらも、記録に残さない形で接触しようとしている。理由は同じだ——わたしがまだどこの派閥にも属していない、今日この日にしか使えない手段だから。
正式な勧誘をすれば、宮廷の記録に残る。断られたという事実も残る。そう考えると、どちらも同じ手段を取っているように見えた。だから両派閥とも、まずは非公式に引き込もうとしている。
わかりやすい。
わかりやすいのは、こちらが有利だということだろう。
「どうなさいますか」とマルガが静かに聞いた。
老いた侍女は、動揺している様子がなかった。マルガはリーラ・ドナトゥスの父の代から仕えていて、没落も見てきて、その上でまだここにいる人間だ。動じないのは強さなのか、もう驚く感情が擦り切れてしまったのか、わたしにはまだわからない。
「両方に返事をするわ」
「……両方、でございますか」
「午後に第二王子殿下の面談に伺う。夕刻の夜会には——参加します、と返事をしつつ、開始時刻に少し遅れる。その旨を丁重に伝えて」
マルガの目が微かに細くなった。感情を表に出さない人だが、この目の動きは「お嬢様は何かを考えておられる」という認識の動きだと、二年間でわかるようになっていた。
「遅れる理由は」
「体調管理の不備、とでも言っておいて。昨日の試験で緊張しすぎた、くらいが適当ね」
「かしこまりました」少し間があった。「……お嬢様は、どちらの派閥に与するおつもりでしょうか」
「まだ決めていない」
それは本当のことだった。
どちらを選ぶかより、どちらを選ばないかを決める前に、まず両方の内側を少し見ておく必要があった。商談は情報戦だ。これは前世でも変わらない。レコード会社と交渉するときも、発注元と条件を詰めるときも、相手の手札を見てから自分の手を出すのが鉄則だった。
ここでも同じことをするだけだ。
王宮の西棟は、東棟の煌びやかさとは対照的に、落ち着いた石造りの廊下が続いていた。
窓から見える中庭には噴水があって、その水音だけが静寂の中に響いていた。案内役のエドモン・ラクロワは歩きながら一言も喋らなかった。わたしも喋らなかった。沈黙は苦手じゃない——むしろ音のない空間で何かを考えるのが、元来の習慣だ。
第四サロンは、想像より小さな部屋だった。
長椅子が二つと、小さな卓と、隅にクラヴサンが一台。窓は中庭に面していて、光が穏やかに入っている。誰かが定期的に使っている部屋の匂いがした。
ランドルフ王子は、すでに来ていた。
昨日と同じ、濃紺の上着。今日は金糸の刺繍がない分、余計に簡素に見えた。窓の方を向いて立っていて、わたしが入ってきても振り返るのに一拍かかった。考え事をしていたか、気配に鈍い人か、あるいは演出か。
「来たか」
「お召しいただきましたので」
「座れ」
礼儀的な前置きを省略した会話だった。わたしは長椅子の端に腰かけた。王子は反対側に座った。卓の上に、茶が二客置かれた。エドモンが音もなく消えた。
室内に、わたしと王子だけが残った。
「昨日の曲だ」と王子は言った。「何という曲だ」
「題はまだありません。作りかけのものでしたので」
「作りかけ」
「はい。正確には——前世、という言い方が正しいかどうかわかりませんが——転生前に書いていた曲の続きです」
言ってから、少し驚いた。転生について、初対面に近い相手にこれほどあっさり話したのは初めてだった。何かがそうさせたのか、あるいは単純に昨日の演奏がそのことと切り離せなかったのか。
でも王子は驚かなかった。
「この国では、転生者は珍しくない」と彼は言った。「前の人生の記憶を持って生まれてくる者が、音楽院にも何人かいる」
「知りませんでした」
「地方にいれば、そういうものかもしれない」
彼はティーカップを持ったが、飲まなかった。少し間を置いて、こちらを見た。
「前の世界では音楽を?」
「はい。作曲家でした」
「この世界の音楽魔法との違いは、どう見ている?」
するどい質問だった。挨拶でも値踏みでもない、実質的な問いだ。昨日の演奏に対して本当に知的な好奇心を持っている人間の問いだった。
「この世界の音楽魔法は、最初から“何を起こすか”が決まっている構造です」
「構造?」王子が初めて言葉を挟んだ。
「はい。眠らせる、士気を上げる……効果が先にあり、音はそれに従います」
「では前の世界は?」
「音が先でした。効果は結果です」
王子は少しだけ目を細めた。「つまり、制御ではなく発生か」
王子の指が、膝の上でわずかに動いた。昨日と同じ、テンポを刻む動きだったが、今日は「退屈」ではなく「思考している」動きだった。
「だから制御されていない」
「はい」わたしは少し目を細めた。「お気づきでしたか」
王子はすぐには答えなかった。
「昨日のは上位詠唱に近い」短く、そう言った。
「感情共鳴が起きていた。聴衆の感情が引きずられる形だ」
「……危険なものですか」
「使い方次第だ」王子は一拍間をおいて。「問題はそこではない」
「では?」
「自覚していないことだ」
静寂があった。
中庭の噴水の音が聞こえた。
「……処罰の対象になりますか」
「ならない」即座に答えた。
「意図的でないことは明白だ。また、昨日の場で問題は起きていない。ただ」と彼は続けた、「今後、意図せず上位詠唱を行った場合、教会音楽院の管轄が介入する。あそこは、魔法の無許可使用には敏感だ」
それが情報の提供なのか、牽制なのか、あるいは保護の申し出の前置きなのか。
三つ全部だろう、と思った。
「殿下は」とわたしは聞いた。「わたしに何を望んでいらっしゃいますか」
回りくどい前置きを省いて聞いた。王子が省略する人間なら、こちらも合わせる方が話が早い。
「率直だな」
「非公式の場とおっしゃいましたので」
彼は少し間を置いた。表情が変わらないまま、何かを検討しているのがわかった。
「わたしの派閥には現在、楽師が三人いる。全員、技術は確かだ。ただ——」
「制御された音楽しか作れない」
言ってから、少し出過ぎたかと思った。でも王子は眉ひとつ動かさなかった。
「そうだ」と彼は言った。「王位継承争いは、遠からず最終局面に入る。その過程で、宮廷の感情の流れを変える必要がある場面が来る。設計された音楽では動かせない感情が、ある。昨日おまえが動かしたような——」
「わかりました」とわたしは遮った。
遮ってから、一呼吸置いた。
「条件を伺えますか」
ランドルフ王子は、初めて、かすかに笑った。昨日の「興味」とも違う。もう少し個人的な、人間に近い表情だった。
「ドナトゥス家の名誉回復。王都に屋敷を一軒。専属楽師としての生活保障。それと——」一拍あった、「音楽院への正式入学許可。上位詠唱の資格取得を、派閥が支援する」
最後の条件が、全部の中で最も重かった。
魔法の体系を正式に学ぶ機会。制御できていない自分の能力を、きちんと解析する場。これはわたしが最も必要としていたものだった。
こちらの優先順位を、見抜かれている。
「検討する時間をいただけますか」と言った。「いつまでに」
「……三日」
「二日だ」
「承知しました」
立ち上がって礼をした。王子も立った。見送りはエドモンがするのだろうと思っていたら、王子自身が扉まで歩いてきた。
扉のところで、彼は一度だけ振り返るように言った。
「ひとつ、個人的な質問だ」
「はい」
「昨日の曲を——おまえは誰のために書いた?」
予想していない質問だった。
「いいえ」と答えた。「自分のために書いていました。それが唯一の問題でした」
王子は何も言わなかった。でもその沈黙は、昨日の退屈とは違う色をしていた。
王太子派の夜会に、わたしは四十分遅れて到着した。
会場は王宮東棟の大サロン。シャンデリアが三十本、壁には金箔の装飾、床は鏡張り。これが「非公式の懇親会」なら、公式はどうなるのかと思った。
入室した瞬間、視線が集まった。遅れてきた新入りへの視線と、昨日の試験の話を聞いた者の視線が混ざっている。値踏みの密度が高い部屋だった。
首席補佐官のバルト・ヴィラネル卿が近づいてきた。五十代、小太りで笑顔が上手な人間だった。笑顔が上手な人間は、だいたい笑顔が仮面である。
「お待ちしておりましたよ、ドナトゥス嬢。少々お体の具合が優れなかったとか」
「ご心配をおかけして申し訳ございません。今は問題ありません」
「それは何より。王太子殿下も、大変楽しみにされておいでです」
「光栄でございます」
社交の言語というのは、意味を持たない音の羅列だ。互いに意味のないことを言い合いながら、本当の情報を別のところで交換する。この構造は、前世の業界と変わらない。打ち合わせで「素晴らしいですね」と言い合いながら、目の動きで値踏みし合う、あの感じ。
王太子殿下は、会場の奥の一段高い場所にいた。
三十代前半。ランドルフ王子より十歳ほど年上で、体格もいい。正妃の子というだけあって、外見に「正統性」が宿っているように見えた——いや、宿っているように「見せている」のかもしれない。
「ドナトゥス嬢」と王太子は声をかけた。「昨日の演奏は、素晴らしかった。宮廷中の話題ですよ」
「過分なお言葉でございます」
「謙遜はよしてください。わたしは正直な人間が好きでね」
「では正直に申し上げますが」とわたしは言った、「殿下のお耳に届いた話題の内容が、賞賛なのか懸念なのか、まだわかりかねております」
王太子が目を細めた。笑みが、少し変わった。
「両方だ」と彼は言った。
それから彼は声を低くした。
「ドナトゥス家の血に、今まで気づかなかったのが惜しかった。あなたのお父上は、わたしがまだ幼い頃に宮廷を離れられた。もう少し早く知っていれば、こうして遅れてお招きすることにならなかった」
「父のことを、ご存じでしたか」
「名前だけは」彼は少し間を置いた。「ドナトゥス家の楽譜は、宮廷の記録には残っていない」王太子はそう言ってから、少しだけ間を置いた。「それなのに、“存在していることだけは皆が知っている”」
地下倉庫の楽譜の山が、頭の中に浮かんだ。
「古い楽譜が、いくらか」
「興味深い」王太子は言った。「ぜひ一度、ゆっくりお話をしましょう。正式な場で」
正式な場。つまり、記録に残る形で。
ランドルフ王子が「二日以内」の返答を求めているのに対して、王太子は「正式な場」への誘導を次の手に使った。どちらも、囲い込みの手法としては正しい。
でも、その手法の違いが、それぞれの人間の違いを語っていた。
夜会の帰り、馬車の中でわたしは窓の外を見ていた。
夜の王都は昼と別の顔をしている。石畳に落ちる松明の光が、水たまりの中で揺れていた。
二つの選択肢が頭の中にある。正しい判断をしているはずだった。なのに、どちらにも決めきれない違和感だけが残っていた。
第二王子派——ランドルフ王子。条件は良い。本人が聡明で、情報を戦略的に開示する。王位継承順位は劣るが、本人の政治力は侮れない。何より、昨日のあの「退屈」の正体が、まだわかっていない。
王太子派——正統な後継者。組織として大きく、安定している。ただし、父の楽譜への言及が引っかかった。ドナトゥス家の「記録に残っていない楽譜」に興味があるということは——それが単なる歴史的好奇心ではない可能性がある。
マルガが言った言葉を思い出した。
お父上は、宮廷を離れた。
離れた、ではなく、追われた、なのではないか。
「マルガ」
「はい、お嬢様」
「父の楽譜を、帰省したときに整理したことはある?」
「……いいえ。旦那様が生前、あの部屋には誰も入れませんでしたので」
入れなかった。
誰も。
わたしは窓から目を離した。夜の王都が馬車の後ろへ流れていく。
どちらの派閥を選ぶか、は一旦置く。
その考えに至った瞬間、頭の奥で一瞬だけ、まだ一度も聴いたことのない和音が鳴った気がした。
先にあの地下倉庫を見ておく必要がある。




