表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
五線譜の檻  作者: 黛 文彦
第一楽章:檻は黄金でできている
1/3

第1話 五線譜の檻

 死ぬ瞬間に聴いた音楽は、自分が書いたものだった。


 それが少しおかしかった。最後に聴く音楽くらい、せめて他人の曲がよかった。でも三十二年間、わたしの耳に住みついていたのはいつも自分の書きかけの断片で、だから死ぬときも当然のようにそれが鳴った。半音沈んだ主音。未解決の転調。そこから先を書く時間が、もうないのに。あと八小節だけでよかった。締切でも依頼でもなく、本当に終わるのは初めてだった。


 録音スタジオの床は冷たかった。ヘッドフォンを外す手が途中で止まった。それだけで、終わった。


 ——だから、目覚めたとき最初に確認したのは、指が動くかどうかだった。


 動いた。


 次に確認したのは音だ。どこかで弦楽器が鳴っている。弓の圧が均一でない。開放弦の倍音に少し濁りがある。チューニングは……少し低い。Aが四百三十五ヘルツ前後か。古いピッチだ。現代じゃない。


 それから初めて、自分が見知らぬ天井を見上げていることに気がついた。


 名前はリーラ・ドナトゥスになっていた。


 リーラ・ドナトゥス。 十七歳。没落音楽貴族の遺女。両親はすでに他界。屋敷という名の廃屋に、老いた侍女のマルガが一人。財産の代わりに残されたのは、地下倉庫に眠る大量の楽譜と、村では誰も調律できなくなった古いクラヴサンだけ。高音域だけ少し痩せた音がする、妙な楽器だった。


 初めて異変を見たのは、マルガが台所で子守唄を歌ったときだった。煮立っていた鍋の泡が、旋律に合わせるみたいに静かに収まった。


 偶然だと思った。 二度目までは。


 前世——東京で作曲家をしていた工藤澪としての記憶——はすべて残っている。音楽理論も、編曲技術も、心理音響の知識も、二十代でプロになってから死ぬまでの十年間でかき集めたすべてが、このやたらと白い肌の少女の頭の中に詰まっている。 ただ、リーラとして生きた十七年の記憶も、消えたわけではなかった。他人の人生を、内側から思い出しているみたいだった。


 問題は、この国では音楽が魔法だということだった。


 最初は比喩だと思った。「音楽は人の心を動かす」という、どこにでもある詩的な表現だと。でも違った。この世界のベルカント王国では、特定の旋律と歌詞の組み合わせが、文字通り物理的な力を持つ。眠りを誘う子守唄は本当に意識を刈り取るし、士気高揚の行進曲は、兵士たちから痛みへの恐怖を薄れさせる。王の戴冠式で演奏される荘厳曲には、その場にいる全員の忠誠心を一時的に底上げする効果があり、それは法的な誓約と同等の効力を持つとされている。


 音楽が魔法なら、作曲家は魔法使いだ。


 そしてわたしは、死ぬ直前まで、それを職業にしていた。


 王都への道は三日かかった。


 徒歩ではない——ありがたいことにマルガが街の馬借から小さな辻馬車を手配してくれた——が、舗装のない街道でこの小柄な体は揺れるたびに悲鳴を上げた。リーラの体は、前の体より随分華奢だ。手首の細さが、ピアノを弾くには少し心もとない。クラヴサンで三ヶ月ほど鍛え直したが、それでもまだ足りない気がする。


「お嬢様、顔色が優れませんが」「考え事をしていたの」「またでございますか」


 窓の外には刈り入れの終わった麦畑が続いている。遠くに王都の尖塔が見え始めていた。


 楽師登用試験。王宮附属音楽院が三年に一度開催する、公式の楽師採用試験だ。合格すれば王宮専属楽師の称号と生活保障が与えられ、その代わり、優秀な楽師は例外なく王家に囲われる。この世界で音楽家として生きていく上で、最も正規のルートがこれだった。音楽は、この国では才能である前に資源だった。


 受験を決めたのは、理由が三つある。


 一つ目は金。没落貴族には収入がない。二つ目は地位。ドナトゥス家の名前には、もはや社会的な力がない。三つ目は——これが本当の理由だが——この世界の音楽魔法の体系を、正式に学びたかった。


 前世の知識がある。でもそれは現代音楽の知識だ。この世界の音楽魔法の構造をきちんと理解しないうちは、わたしは理論化も応用もできない。——正直、理解できないものを聴くのは気持ちが悪い。試験に合格して宮廷に入ることは、研究室への入室許可証を得ることと同義だった。


 感情は手段だ。少なくとも、澪だった頃のわたしはそう信じていた。CMの発注元、レコード会社のA&R、プロデューサー、配信プラットフォームのアルゴリズム——あの頃だって、わたしは誰かのために曲を書き続けていた。求められる感情を、求められる形に整えて、渡す。それで金をもらう。そういう仕事だった。——求められる感情を書き続けているうちに、自分のための音楽が、どんなものだったか思い出せなくなった。


 ここでも同じことをすれば、生きていける。


 それだけのことだ、と思っていた。


 登用試験の会場は王都の中心にある「大音楽院」だった。


 三百年前に建てられたというその建物は、天井に向かって弦楽器の形をした窓が並び、床には五線譜の模様が石畳で描かれていた。徹底している。悪趣味なほどに、音楽が国家の中心に据えられていた。


 受験者は約四十名。貴族の子弟から平民の才能まで混在しているが、全員の眼が似たような色をしている。緊張、あるいは野心、あるいはその両方。


 試験は二部構成だった。


 前半は楽典の筆記試験。後半は課題曲の演奏と即興試験。課題曲は当日指定される。


 筆記は問題なく終わった。この世界の音楽理論の記法は前世と異なるが、根底にある和声の原則は変わらない。むしろこの世界の理論書は、ある種の現象を「魔法だから」の一言で処理している部分が多く、現代音楽理論の観点からすると説明不足な箇所が多かった。解けない問題はない。むしろ解釈次第では、別解になりうる問題が三問あった。一問は、たぶん採点で揉める。


 後半の演奏試験が始まる前に、審査員席を確認した。


 五名が座っている。中央が院長らしき老人。その右隣に、見るからに「貴族の代理人」という顔をした壮年の男が二人。そして左側——。


 わたしの視線が止まった。


 二十代前半、だろうか。濃紺の上着に、金糸の刺繍が控えめに入っている。控えめに、というのがむしろ品格を主張している。顔立ちは整っている——いや、整っているというより、骨格が美しい。前世でいうなら、カメラ映えする顔だった。


 問題はその表情だった。


 退屈そうだった。


 隠してもいない。膝の上で組んだ手の指先が、微かにテンポを刻んでいる。曲を待っている指ではなかった。期待することをやめた人間の、退屈なテンポだった。試験会場の全員が全力を尽くそうとしている部屋の中で、一人だけ別の時間を生きているような顔をしていた。


 ——ああ。この顔、知っている。


 テレビ局の試写会に呼ばれたとき、隣に座った著名な批評家がしていた顔だ。百曲聴いて百曲に失望し続けた人間の顔。——音楽評論家に、たまにこういう人種がいる。「どうせまた同じものだろう」という倦怠を、礼儀として隠すことすら忘れた顔。


 名前は後で確認した。ランドルフ・ベルナルド第二王子殿下。王位継承順位は二番目。母親が第二妃のため、正妃の子である第一王子に後れをとっているが、本人の政治的影響力は劣らないとされている。


 わたしの番号が呼ばれた。


 課題曲は「王国讃歌・第三番」だった。


 難易度は標準。落とすための曲ではなく、基礎技術を測るための曲だ。この曲を完璧に弾けば合格ラインは超える。派閥の貴族に引き抜かれるかは別として。


 クラヴサンの前に座った。


 鍵盤に触れる前に、もう一度、あの第二王子を見た。


 指が、テンポを刻むのをやめていた。わたしを見ていた。初めて審査員の顔をしていた——というより、初めて何かに興味を持った顔をしていた。何故か。


 わかった。わたしが課題曲の楽譜を、台の横に置いたからだ。


 演奏する気がない、という意思表示として受け取られたのだろう。実際その通りだったが。


 指を鍵盤に乗せた。少しだけ、汗で滑った。


 弾いたのは課題曲ではない。


 前世で——澪として——書きかけのまま死んだ曲だ。Cのフラットから始まる。未解決だった転調を、この二年間で解決した。完成させることができたのは転生してからだった。前の体では間に合わなかったから。


 音が、部屋の中に広がった。高音は硝子みたいに薄く、低音は沈みきらない雨雲みたいに尾を引いた。


 この世界の物理法則に従えば、これは音楽魔法の詠唱になりうる。でもわたしは意図して何かを操作しようとしたわけじゃなかった。ただ、弾きたかった。あの退屈そうな顔に、これを聴かせたかった。倦怠の向こうに何かが見えるかどうか、確かめたかった。


 理由はそれだけだ。


 それだけのはずだった。


 演奏が終わっても、誰もすぐには息をしなかった。咳払いひとつ落ちなかった。


 四十名の受験者も、五名の審査員も、壁際に立っていた楽師たちも——全員が、何かから覚めるような顔をしていた。わたしだけが、まだ現実の側に立っていた。


 第二王子が、口を開いた。


「名を」


 審査員が試験中に受験者へ話しかけることは、規則違反だった。でも誰も止めなかった。


「リーラ・ドナトゥスと申します」「ドナトゥス」彼は繰り返した。「没落した音楽家の家だな」「はい。没落しておりますが、音楽だけは残っておりました」


 沈黙があった。


「いまの曲は何だ」


「作曲中の自作曲です。試験課題曲の代わりに演奏したことはお詫び申し上げます。ただ——」わたしは少し考えてから続けた。「王国讃歌を上手に弾ける人間は、この会場に少なくとも十名はおりました。わたしが同じものを弾いても、何もお伝えできないと判断いたしました」


 第二王子の顔に、初めて、何かが浮かんだ。


 笑み、というより——興味、だった。


「規則違反です」右席の審査官が即座に言った。「課題曲未演奏は失格条項に抵触する」


「審査委員長」と彼は老人に向かって言った。「この者を、合格にしてください」


 老院長が眉を動かした。「殿下、試験の規則によれば——」


「課題曲を弾いていない、ことは知っています。それでも」彼はわたしを見たまま言った。「あの旋律は、この国で初めて聴く構造をしていた。聴いた者を動かした。それは採点基準の根幹を満たしていると解釈します」


 合格が告げられた。


 わたしは礼をしながら、内心で静かに確認していた。


 今の演奏は、意図していなかった。でもあの旋律が人を動かしたのは事実だ。ということは——前世の作曲知識が、すでにこの世界の音楽魔法として機能している。完全に制御できていない状態で、わたしはすでに詠唱をしていた。


 知識が、想定より危険なかたちで使える。


 そしてたったいま、第二王子派の貴族二名が、こちらを値踏みするような目で見ていた。


 五線譜の床の上に立って、わたしは思った。


 さて。この五線譜の檻で、誰に使われようか。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ