第4話 わたしはすでに、禁じ手を使っていた
音楽院の入学手続きは、書類が多かった。
前世でも、事務仕事は嫌いではなかった。音楽出版の契約書や著作権の申請書類を、マネージャーに任せず自分で読む習慣があったから、細かい文字を追うことへの抵抗はない。ただ、この世界の法律文書は修飾語が多すぎる。同じ意味のことを三回言い換え、それでも何かを補うように余白に注釈を加える。
窓口の事務官は四十代の男性で、ランドルフ王子の紹介状を受け取ったとき、表情が微かに固まった。
「殿下の……ご紹介、でございますか」
「はい」
「失礼ですが、ドナトゥス家の、とございますが」
「父がここに在籍していたかどうかは、わかりません。ご確認が必要であれば、調べていただいて構いません」 「いえ」と彼は言った。少し早く。「問題ございません」
問題ございません、と言う人間の顔には二種類ある。本当に問題がないときと、問題があることを知っている上で問題がないことにしようとしているときだ。この事務官の顔は後者だった。
父の名前は、ここでも何かを動かす。まだ中身を見ていない楽譜の箱が、故郷からこちらへ向かっている。
正式な入学は翌週からだが、聴講という形で初日から授業に参加することを許可された。これもランドルフ王子の手配だった。
案内された教室は、石造りの小さな部屋で、天井が高く、壁に楽譜が額装して飾られていた。生徒は七名。わたしを入れて八名になる。年齢は十代後半から二十代前半が多い。みな音楽貴族の子弟か、地方の有力家系の出身らしく、着ているものの質が揃っていた。
わたしが入ったとき、室内の視線が集まった。昨日の夜会でも感じた種類の視線——値踏みと、好奇と、警戒が混ざったもの。試験での「上位詠唱」の話は、すでに院内に広まっていると見ていい。
教師は白髪の女性だった。六十代か、あるいはもっと上か。背筋が真っ直ぐで、声が若い。
「ドナトゥス嬢」と彼女は言った。出席を取る前に、名前を呼んだ。「イゾルデ・カーツと申します。今期の詠唱魔法理論を担当しています。入学前の聴講を許可しましたが、条件が一つあります」
「はい」
「授業中、楽器に触れないこと。演奏も詠唱も、許可するまでしないこと」室内が静かになった。他の生徒たちも、この条件が通常ではないと気づいている。
「理由を伺えますか」
「入学試験での演奏を、わたしも確認しました」カーツ先生は真っ直ぐこちらを見た。「あなたは現時点で、自分が何をしているか理解できていない状態で上位詠唱を発動しています。それは、制御不能な状態で刃物を握っているのと同じです」
「.....承知しました」
返事は即座にした。これは交渉する場面ではない、と判断したからだ。カーツ先生の言っていることは正確だった。前世の知識があることと、この世界の魔法を制御できることは別の話だ。それはすでに自分でも気づいていた。
「結構」と彼女は言って、出席を取り始めた。
最初の授業は、音楽魔法の基礎分類だった。
黒板に、先生が図を書いた。
詠唱魔法の三層構造
第一層:旋律詠唱
→ 感情の方向性を操作する。最も基礎的。
→ 効果範囲:演奏者を中心に半径五メートル。
→ 資格:不要。ただし意図的使用は申告義務あり。
第二層:和声詠唱
→ 複数の感情を同時に操作し、特定の状態へ誘導する。
→ 効果範囲:演奏者を中心に半径二十メートル。
→ 資格:第三級楽師資格以上。
第三層:共鳴詠唱
→ 聴衆の感情を演奏者の感情と同調させる。
→ 効果範囲:音が届く限り。
→ 資格:王宮楽師免許(最上位)。
書き写しながら、わたしは事実を整理していた。指先が少し冷たかった。
入学試験でわたしがやったことを、ランドルフ王子は、それを「感情共鳴の強制」と呼んだ。第三層と分類されるものだと、後から知った。王宮楽師免許が必要な、最上位の魔法。それを、意図せず、資格なしでやった。
「質問を」と隣の席の男子生徒が手を上げた。「第三層の共鳴詠唱は、意図しない発動があり得るのですか」
わたしのことを指しているのは明白だったが、直接は言わなかった。礼儀があるのか、あるいは巻き込まれたくないのか。
「理論上は稀です。ただし、発動の結果によっては事後的に詠唱と認定されます。」とカーツ先生は答えた。「旋律と和声が特定の条件を満たしたとき、演奏者の意図に関わらず第三層効果が発現することがあります。条件は三つ——演奏者が強い感情状態にあること、楽曲の構造が共鳴詠唱の形式と一致していること、そして」
先生が一拍置いた。
「演奏者自身が、その感情を処理しきれていないこと」
教室が静かになった。
わたしは手元のノートを見た。インクが紙に滲んでいた。筆圧が上がっていたらしい。
演奏者自身が、その感情を処理しきれていないこと。
入学試験の直前、わたしは何を考えていたか。あの退屈そうな顔を見た。それに、弾きたかった。理由はそれだけだと思っていた。でも——「弾きたかった」という衝動の中に、もっと別の何かがあったとしたら。
Cのフラットから始まる曲は、死の直前に書いていたものだ。前の体では完成しなかった。転生してから二年かけて書き直した。その曲をあの場で弾いたのは、確かに「あの顔に聴かせたかった」という衝動があったからだ。
でもその衝動の下に、もっと深いところに——未完成のまま死んだことへの、何か。
処理しきれていない感情。
「ドナトゥス嬢」
カーツ先生が呼んだ。
「はい」
「手元のノートをもう少し丁寧に扱いなさい。紙が勿体ない」
「……失礼しました」
昼の休憩は中庭で取った。
王宮附属音楽院の中庭は、大音楽院より小さいが手入れが行き届いていた。石のベンチがあって、蔦が壁を這っていた。わたしは持参したパンを食べながら、午前中の授業内容を復習していた。
「隣、座っていい?」
声をかけてきたのは、午前中の授業で質問をした男子生徒だった。茶色い髪で、眼鏡をかけている。背が高い。わたしより二つか三つ年上に見えた。
「どうぞ」
彼は隣に座って、わたしと同じようにパンを出した。しばらく、互いに黙って食べた。沈黙を気にしない人間だ、と思った。
「マティアス・フォルテ」と彼は言った。「フォルテ伯爵家の次男です。よろしく」
「リーラ・ドナトゥス」
「知ってる。試験の話、院中に広まってるから」彼は特に感情のない声で言った。悪意も好奇心も薄い、ただ事実を述べる声だ。「あの演奏を聴いたわけじゃないけど、上位詠唱が出たのは本当?」
「そのようです」
「意図せず」
「はい」
「それは」と彼は少し考えてから言った、「怖くなかった?」
「怖い、というのは」
「自分が何をしているかわからない状態で、人に影響を与えていたということが」
予想していない角度の質問だった。値踏みでも警戒でも羨望でもなく、純粋に怖くなかったか、と聞いている。
「怖かったかどうか、あまり考えていませんでした」とわたしは答えた。「それよりも、どういう構造で起きたかを先に考えていました」
「ああ」彼は少し頷いた。「作曲家気質だ」
「気質というより、習慣です」
「うちの父も似たタイプ。感情より分析が先に動く。音楽家としては珍しい」彼はパンをかじった。「ぼくは逆で、分析が全然できない。感情はわかるけど、理論がいつまでも苦手で。だからカーツ先生の授業が一番ぼんやりする」
「さっき質問していましたが」
「あれは先生に気づいてもらうための質問。意味を理解したわけじゃない」
正直な人間だ。自分の弱点を、二回目に会った相手に普通に話す。
「フォルテ家は音楽貴族ですか」
「そう。祖父の代から。でも兄が優秀すぎて、ぼくは院に来てやっと自分の場所を見つけた感じ。音楽院は成績より感性を重視するから、次男でも生きやすい」彼はこちらを見た。「ドナトゥス家は?」
「没落しています」
「知ってる。でも、先代は有名だったらしい。ぼくが生まれる前の話だけど、うちの父が何度か演奏を聴いたと言っていた」
「どんな演奏だったか、聞いたことは」
「感情が自分のものじゃなくなる感覚だった、と言っていた」
静寂。
ランドルフ王子と同じ言葉だ。
「怖い、というのは」わたしはもう一度同じ問いを繰り返した。
「感情を、どこかに持っていかれるような感覚だったらしい。聴いているうちに、自分の感情なのか、演奏者の感情なのか、わからなくなる。父は、あの演奏の後しばらく、自分が自分じゃないような気がしたと言っていた」
共鳴詠唱。
第三層。王宮楽師免許が必要な、最上位の魔法。
父は——制御してやっていた、のか。
「父は」とわたしは聞いた。「王宮楽師免許を持っていましたか」
「それは知らない。でも」マティアスは少し考えてから言った、「そのくらいの資格がなければ、宮廷で演奏できなかったはずだから、持っていたんじゃない?」
持っていた。それでも宮廷を去った。あるいは、追われた。
「ありがとうございます」
「何が?」
「いろいろと」
マティアスは少し首を傾けたが、それ以上は聞かなかった。この人間はたぶん、人の境界線を踏まない。天性なのか習慣なのか、どちらでもいいが、付き合いやすい種類の人間だとわかった。
午後の授業は実技だった。
ただし、わたしは楽器に触れない約束がある。教室の端の席で、他の生徒の演奏を聴きながら記録する、という形で参加した。
課題は「第一層詠唱の定形演習」——怒りを鎮める旋律と、注意力を高める旋律を、それぞれ楽譜通りに演奏すること。
七名が順番に弾いた。
聴きながら、わたしは分析していた。ノートには、簡潔に「鎮静型」「覚醒型」とだけ書き、少し線を引いてから閉じた。
つまり、この世界の音楽魔法は——音楽心理学の原則を「魔法」として体系化したものだ。
前世の世界では、「音楽が感情に与える影響」は科学的に研究されていたが、物理的な効果として扱われてはいなかった。ただし、この世界ではその影響が“再現可能な現象”として成立している点が決定的に異なる。この世界では、同じ原則が「魔法の詠唱」として法的に規制されている。根底にある仕組みは同じで、そのことに、おそらくこの世界の誰も気づいていない。
規制は、「詠唱として定義された旋律」にしか適用されない。
それ以外の音は、最初から存在しないものとして扱われていた。でも、詠唱として定義されていない旋律が——偶然に、あるいは意図的に——同じ効果を出したとき、それは規制の対象になるのか。
入学試験の演奏は、前者だった。詠唱として定義されていない旋律が、同じ効果を出した。
カーツ先生が「刃物を持ち歩いている」と言ったのは正確だ。でも、その刃物の切れ味が規制の枠組み外から来ているとしたら、問題は単なる資格の有無では済まない。
「ドナトゥス嬢」
カーツ先生がこちらへ来た。他の生徒が演奏している間、わたしの記録ノートを覗き込んだ。
しばらく無言で読んでいた。
「これを、今日の授業で書きましたか」
「はい」
「楽譜ではなく、分析です」
「旋律の構造と、効果の相関関係を。自分の理解のために」
先生はノートをもう少し読んだ。それから顔を上げた。
「放課後、残りなさい」
声の温度が変わっていた。怒りではない。もっと別の何かだ。
生徒が全員帰った後の教室は、残響が変わる。
石の壁が、人の不在を音で語る。前世でも、深夜のスタジオは空の客席のコンサートホールとは違う種類の静寂を持っていた。
カーツ先生はわたしのノートを机の上に置いて、正面の椅子に座った。
「あなたの分析は正しい」と彼女は言った。
「はい」
「それが問題です」
「説明していただけますか」
先生は少し間を置いた。窓の外を一度見て、それから戻った。
「音楽魔法の理論体系は、三百年前に王宮音楽院の初代院長が確立しました。それ以来、改訂はありません」
それは教科書ではなく、前提として扱われていた。その言葉を聞いたとき、ノートをめくる指が一瞬だけ止まった。
「わたしは」と彼女は言った、「三十年前に同じ問いを立てました。そして、答えを途中まで出して、やめました」
「なぜですか」
「答えが出てしまうと、この国の前提が崩れてしまうからです」教室の空気が、一瞬だけ重くなった。
静寂があった。噴水は聞こえない。ここは中庭から遠い。
「あなたの分析が正しいなら」と先生は続けた、「詠唱魔法の効果は、旋律の構造から来ている。魔法として登録されているかどうかは、関係ない。つまり——」
「すべての音楽が、潜在的に詠唱として機能しうるのかもしれない」
先生は頷かなかった。でも否定もしなかった。
「もしその前提に立てば」とわたしは続けた、「資格制度は根拠を失います。誰がどの旋律を弾いても、構造が条件を満たせば効果が出る。資格の有無は無関係」
「そうなります」
「先生がその問いをやめた理由が、それですか」
「一つの理由です」彼女は静かに言った。「もう一つの理由は——そこまで理解した人間が、この国で長く生きられなかった例を、何件か知っているからです」
部屋が冷えた。実際に気温が下がったわけではないが、そう感じた。
「先代ドナトゥスのことをご存じですか」とわたしは聞いた。
先生の表情が、僅かに変わった。
「知っています」
「父は、ここの卒業生ですか」
「……はい」
「共鳴詠唱の発動メカニズムを理解していましたか」
「それ以上のことを理解していました」先生はゆっくりと言った。「先代は、この問いの答えを完全に出した、おそらくこの国で初めての人間でした。だから」
「だから宮廷を去った」
「去らざるを得なかった」
沈黙が落ちた。窓の外で、夕暮れの鳥が鳴いた。
「わたしに、同じことを言っているのですか」とわたしは聞いた。「やめろ、と」
「やめなさい、とは言いません」カーツ先生はわたしを見た。目の奥が、複雑な色をしていた。「ただ——答えを出したなら、それをどこへ持っていくかを、慎重に考えなさい。答えそのものより、使い方の方が危険です」
「承知しました」
「今日の分析は、院の記録には残しません。あなたのノートも、院外に持ち出さないよう」
「わかりました」
立ち上がって礼をした。扉へ向かいかけたところで、先生が言った。
「ドナトゥス嬢」
「はい」
「先代の楽譜を、持っていますか」
「まだ見ていません。もうすぐ手元に届きます」
「そうですか」先生は小さく言った。「……慎重に、開けなさい」
宿への帰り道、わたしは空を見ながら歩いた。
夕暮れの王都は橙と紫が混ざっている。石畳が光を反射して、足元が濡れたように光る。
父は答えを出した。完全に。
だから追われた。
そしてわたしは、転生一日目の演奏で、すでに同じ方向へ踏み込んでいた。
刃物を持ち歩いている、とカーツ先生は言った。でも正確には違う。刃物の製造方法を知っている、の方が近い。そして父は、その製造方法を完全に解明して、設計図を書いた。その設計図が、今頃、故郷から馬車に揺られてこちらへ向かっている。
怖いかどうか、と今朝マティアスが聞いた。
答えは今になって出た。
やめる理由は、まだ見つからない。でも、たぶん進むしかないのだと思う
澪として生きていた三十二年間で、一度も、途中で曲を捨てたことはなかった。どんなに難しくても、どんなに締め切りが来ても、どんなに発注元が難色を示しても、書き始めた曲は必ず完成させた。それがわたしという人間の、最後の矜持だった。
問いを立ててしまったなら、答えを出す。それが正しいかどうかは、まだ判断できない。
使い方は、その後で考える。
石畳を踏みながら、わたしは頭の中で今日の授業の構造図を書き直した。三層構造の上に、名前のない第四層を置いた。定義されていない領域。法律の外側。父が踏み込んで、追われた場所。
その層に、仮の名前をつけた。
原理層——すべての音楽が詠唱である、という前提。それはまだ、正式な理論ではなかった。
誰にも見せない。
まだ。




