エピローグ②
「わぁ…!リッツァ、すごい!!すごいすごいすごい、綺麗だ!!僕の人生で見た人の中で、一番綺麗な女の子だよ!」
「あ、ありがとう…」
教会の入り口、馬車から降りたイリッツァとカルヴァンを迎えたのは、何やらすごくテンションの高いランディアだった。いつものように黒装束に身を包む友人に、まっすぐな賛辞をぶつけられ、照れくさい気持ちで返す。
「いいなぁ、カルヴァン。こんな綺麗なお嫁さんがもらえるなんて」
「いいだろう。やらんぞ」
謙遜などするはずもなく自信満々に言い切るカルヴァンに、イリッツァは苦い顔をする。きっと、独占欲を満たして悦に入っているのだろうことは想像に難くない。
遠い記憶の中の父に様々な点でよく似ていると思っていたこの男は、意外と、妻の溺愛っぷりまで似ているのではないだろうか、などという考えがよぎったが、今は考えないようにする。
「でもリッツァ、本当によかったの?僕が、介添えで」
「あぁ。――俺のお世話係は、ディーしかいないだろ」
くす、と笑いかけると、ランディアもまたふわりと嬉しそうに笑った。
「そっか。――ふふ、いつでも言って。メイクでも着替えでもお風呂でも、何でも手伝うよ」
「おい待て今聞き捨てならない言葉が混じってなかったか」
「はいはい、準備しようね、皆待ってるからさ」
歌うようにさらりと告げられた言葉にカルヴァンが反応するのを受け流し、ランディアはその背を押すようにしてさっさと準備を促す。さすが、ヴィクターを掌で転がせる唯一の人間だ。ヴィクターと酷く性質の似ているカルヴァンすらお手の物である。
「僕は王国式の結婚式は初めてなんだけど――えぇっと、招待客から、お花を受け取るんだよね?」
「あぁ。広場で歓談している招待客一人一人から今日の結婚を寿がれ、手渡された花をブーケにしていく。ブーケが完成したら、教会に入って、儀式だ。エルム様の前で、司祭様立会いの下、永遠の愛を誓う儀式をする」
「ふぅん…ところ変われば、だね。帝国とは全然違って面白いな。――招待客へはリッツァから話しかけるの?」
「いや…本来はそのはずなんだが、たぶん、皆勝手に向こうからやってくる」
「あははっ。さすが聖女様だ」
苦い顔で呻くイリッツァにおかしそうに笑ってから、ランディアはすっと右手を軽く差し出した。
「?」
何のつもりかわからないその仕草に疑問符を挙げ、一つ瞬きをした瞬間――幻のように、一輪の花がその手に現れる。
「――――…手品師か何かか、お前は」
「ふふ、いいね。廃業したら、薬師じゃなくて手品師でも稼げそうだ」
カルヴァンの呆れた声に妖艶に笑いながら、イリッツァにその花を手渡す。
「最初の一輪は、僕から渡したかったんだ。はい、どうぞ。――結婚おめでとう、リッツァ。友として、心から祝福するよ」
「ありがとう、ランディア」
微笑んで受け取ると、ランディアはにこりと笑い、ふっと一瞬で距離を詰める。風のような身のこなしで、そのまま風が撫でるように、イリッツァの頬に口づけを落とした。
「おい!?」
「僕の加護をあげる。幸せにおなり、イリッツァ」
「ははっ…ありがと。俺に光魔法をかけようなんて発想するやつは、お前くらいだよ、ディー」
剣呑な声を挙げたカルヴァンには構わず、ほほ笑み合う二人は完全に二人の世界だ。
「おい。――お前、本当に"友人"だよな…?」
「ふふ。言わなかったっけ?僕、男なのは半分だけで、半分は女だよ」
「――――今のお前は、男と女、どっちだ?」
「さぁ?ご想像におまかせ、かな」
仮面のような笑顔は、カルヴァンの性格の悪さをしのぐかもしれない。カルヴァンの眉間に深いしわが刻まれるのを見ながら、イリッツァは苦笑してその腕を取った。
「ほら、ヴィー。さっさと行こう。お前、今日はエスコート役なんだから、ちゃんとしろよ」
「チッ……胸糞悪い」
カルヴァンが舌打ちするのは、ランディアに対してだけではなく、これから先の時間を思ってのことだろう。
結婚式は、当たり前だが教会で行われる。王都で一番大きな教会――すなわち、王立教会だ。教会嫌いのカルヴァンにとっては、胸糞悪い時間以外の何物でもないだろう。
「まぁまぁ、そう言うなよ。――一応、俺と初めて逢った場所だぞ」
「――…何度となくお前に殴り飛ばされた場所でもあるな」
「お前が殴りかかってくるからだろ」
軽口の応酬をしながら、ぶつぶつ言うカルヴァンのエスコートで教会の敷地へと足を踏み入れる。少し後ろから、介添え人らしくランディアがついてきた。
「……何年ぶりだ?兵団に入ってからは一度も足を踏み入れてないから――十九年ぶりか」
「嘘だろ?本当に王都民か、お前」
くすくす、と笑いながら小さな声で会話を交わす。その昔、毎日毎日、飽きるほどに不毛な鬼ごっこを繰り返した、懐かしい記憶を思い出す。
記憶と何一つ変わらない敷地内を歩いて広場へと向かうと、足を踏み入れた瞬間全員の視線が集まった。
(ぅわ、本当に錚々たるメンバーだな…)
「聖女様!」
言いながら、近くにいた数名が近寄ってくる。宰相と特別外交官。その奥には近衛兵長と兵士団長も控えている。こちらはカルヴァン側の客だろう。
本来は新婦側から赴くのが常なこの慣習だ。向こうからやってくる順番に特に序列などは関係なく、近くにいたものから次々に祝福の言葉をもらいながら、花を受け取っていく。ぶすっとした顔のカルヴァンは、本当に早く帰りたいとしか思っていないのだろう。
「聖女様。それから――カルヴァン・タイター。大きくなりましたね」
「――…あぁ…」
そう言って声をかけてきたのは、枢機卿団代表のアラン・フィード。昔から王立教会で神童と呼ばれていた彼は、カルヴァンが引き取られた時も当然ここの教会に属していた。子供好きの彼は、何度もカルヴァンを構っていたが、手の付けられない悪童に逃げられ噛みつかれ大変だったことだろう。それでも彼は、リアナなど周囲の大人たちと違って、頑張って歩み寄ろうと懸命に心を尽くしていた。カルヴァンも、それはわかっているから、大人になり立場もある今、表立って反発したりはしない。――聖職者然とした彼の佇まいが、生理的に受け付けないだけで。
「手の付けられない悪童だった貴方が、神の戦力たる騎士団長に就任した時も、神の奇跡に感謝しましたが――こうして、聖女様とのご婚礼を迎えられたこともまた、深く神に感謝します。あなた方の未来に、幸多からんことを」
「ありがとうございます」
笑顔で礼を言うイリッツァと、渋面を作って無言でその祝福の言葉を受け取るカルヴァン。唾を吐きたくなるのを必死にこらえているのだろうと察し、ドン、と軽く見えない位置で肘うちをくらわす。言葉などなくても、考えていることが分かるのはこういう時に便利だ。
「団長!それから――イリッツァさん。おめでとうございます」
「ありがとうございます、リアムさん」
次に花を渡してきたのは、鼈甲の瞳をした童顔の青年。完璧な騎士の礼を取り、律儀に跪いて花を渡した。ふわりと笑ってそれを受け取る。敬虔な信者であり、どこか古風な風習に詳しい彼らしい渡し方だった。
「あの…本当に、よかったんですか?俺まで呼んでいただいて」
「お前がいなかったら、騎士団からの出席者がいないだろう。団長は俺なんだから。――副団長の自覚が足りないな?」
「いや……だって、補佐官も兼務しろとか、どっかの暴君がとんでもないこと言うので…自覚なんて芽生えるわけないじゃないですか…」
泣きそうな顔で哀しい職場の愚痴を漏らすリアムに、苦笑を漏らす。もともと戦士としては少し高齢だった前任の副団長ダインは、二年前の戦争を経て若い世代の育成の重要性を感じたらしく、引退して後進育成に本腰を据えると言って退役した。次の副団長として、戦争で軍師を立派に務めたリアムが就任したのだが――リアム以外に自由闊達なカルヴァンの補佐官が務まるような人間がいるはずもなく、補佐官兼務で副団長の仕事をしろ、という暴君丸出しの辞令を出したのが、今、隣で涼しい顔のまま礼服に身を包んでいる鬼だ。
「リアムさんのおかげで、カルヴァンはすごく助かっています。いつも、本当に感謝しています。エルム様のご加護がありますように」
「あぁぁぁ…さすがイリッツァさん…本当に本当に美しい……返す返すもなぜこんな暴君の嫁に――いや、なんでもありませんごめんなさい」
無言の圧が飛んでくるのを感じてリアムが慌てて口を閉ざす。そして、ふとイリッツァの後方に視線をやった。
「あ――ランディア、さん」
「はい」
余所行き用の顔で、静かにランディアが返事をする。中性的で整った顔が、ふ、と妖艶に笑みを作った。途端、リアムの頬がほんのりと紅潮する。
(あー…まさかヴィー、まだネタ晴らししてないのか…?)
ちらり、と伺うようにカルヴァンを見ると、にやり、と人の悪そうな笑みを浮かべていた。心の中で補佐官兼副団長の不憫さに、思わず頭を抱える。どうやらリアムはランディアを女性だと思っているらしい。淡い恋心らしき何かを抱いているようだが――早く、誰か、教えてやってほしい。
だが、一番それをすべき上官は、事態を面白がってわざわざ訂正しないし、ランディア本人も、向けられる視線の種類にはさすがに勘付いているはずだが、面白がっているのか、間者としての身の上故に不用意に自分の情報を開示するつもりがないのか、あえて誤解を促進させるような表情や振る舞いをするから本当に不憫だ。
(がんばれ、リアム。お前もう二十二だろ。そろそろちゃんと結婚考えた恋愛しろ)
いっそ、イリッツァに恋愛相談でもしてくれれば、教えてやることが出来るのだが――敬虔な信徒たるリアムは、逆立ちしてもイリッツァにそんな話はしないだろう。運命とは残酷なものである。
去っていくリアムの背を見送りながら、心の中で心からエルムの加護を祈っていると、ふと腰に手が回される。
「?」
急に回された腕に軽く引き寄せられ、怪訝な顔でカルヴァンを見上げようとして――
「あの…カルヴァン、様」
(――――あぁ。なるほど)
おずおずと声をかけてきたのは、見惚れるほど美しいブロンドを持つ美少女――いや、もう、美女と呼ぶにふさわしい乙女。
「その…聖女様も。ご結婚、おめでとうございます」
「あぁ」
言葉少なく冷たく返すカルヴァンに、ぐ、とさらに腰を引き寄せるようにされて、意図せず体が密着する。ほんのりと染まる頬を慌てて悟られぬように深呼吸して、努めて冷静に振舞った。
(可哀想に…シルヴィア王女。こんな男に惚れたばっかりに――)
思わず同情の目を向けそうになって、ぐっとこらえる。さすがに失礼だろう。彼女からすれば、イリッツァは愛しい君を奪われた恋敵だ。王族より身分が上の聖女ゆえに涙を呑んで身を引いただけなのだろう。そうでなければ、権力を笠に無理矢理婚姻を結ぶ勢いだったと聞く。
イリッツァの腰を抱き寄せて必要以上に密着して見せるのも、「お前に興味はない」と露骨にアピールしたいカルヴァンの気持ちの表れだろう。人前でくっつくことに抵抗のあるイリッツァとしては今すぐ離れたい気持ちだが、彼が本当に辟易していたのを知っているので、ぐっと堪えてなすがままになる。
「カルヴァン様、私はっ――」
「貴女も、早くご結婚されるといい。愛する者がいる人生というのも、悪くないですよ」
「っ――――」
何か思い詰めた様子で口を開いたシルヴィアを遮り、牽制すると、シルヴィアはぐっと息を飲んで押し黙った。そのまま、ぺこり、と頭を下げて足早に立ち去っていく。
「――…お前、あれ、さすがに可哀想」
「本当に鬱陶しかったんだ。しつこい女は嫌いだ」
言いながら、イリッツァを見下ろし、ニヤリと頬を上げる。
「――もうお前以外眼に入らない、とでも言えばいいか?」
「…いや、今そーゆーのはいい…」
無駄に色気をまき散らしながら耳元でささやかれ、軽く押しのけながら呻く。今度は、頬が染まるのを抑えられなかった。
「ゴホン」
わざとらしい咳払いが聞こえて、慌てて体を離して目をやると――紺碧の瞳を少し笑みの形に変えながら、絵本から抜け出てきた王子様のような男が立っていた。
「ウィリアム殿下――失礼。陛下」
慌てて言い直すと、ウィリアムはその美しい面差しに苦笑を刻んだ。
彼の父親が、存命でありながら王位を譲る生前退位を行ったのは、つい先日のこと。陛下、という呼び名にはまだ彼自身も慣れていないようだ。
「こちらこそ失礼を。我が妹は、なかなか英雄への憧れを捨てきれていなようだ」
「本当に何とかしてくれ…」
嫌そうに呻くカルヴァンは、相手が王となっても今までと態度を変えるつもりはないらしい。そしてウィリアムもまた、それを何とも思っていないようだ。剣の師弟として育んだ、彼らなりの絆があるのだろう。
「今日は、妻が参列できなくて申し訳ございません、イリッツァ様。くれぐれもよろしくお伝えくださいと頼まれております。――なので、私からは、妻の分と、二輪の花を」
「いえ、そんな…ありがとうございます。身重の身ですから、くれぐれもお体を大切にとお伝えください」
一度は離縁も危ぶまれた第一妃との仲だったが、様々なことがあり、ウィリアム自身も考えが変わったのだろうか。帝国との戦争後、彼は初めて妻と向き合うようになり――つい最近、第二子の懐妊の報が国中に触れ回ったばかりだ。
ウィリアムの瞳に、闇はない。きっと、幸せな懐妊だったのだろうとイリッツァは安堵のため息を漏らした。
「今後、カルヴァンが貴女に無体を働くようなことがあれば、いつでもおっしゃってください。悪い人間ではないですが、いささか自由が過ぎるときがあるのは事実ですので」
「……うるさいな」
「彼は、かつて我ら一族が惑った時、王家を諫める役を担うと約束してくれました。我々もまた、彼が惑った時は、諫める役を担いましょう。――いつでも、決闘の続きをする準備をしておきます」
にこり、と茶目っ気のある笑顔を向けられて、思わず笑みが漏れる。隣のカルヴァンはこれ以上ない渋面をさらしていた。
去っていくウィリアムを見送ると、視界の端に黒い影が映る。王国の結婚式において、ほとんど選ばれることのない黒い礼服を着るのは――
「ヴィクター!」
「よう、お嬢さん。お招きいただき、感謝する」
にやり、と片頬を上げて笑う帝国軍人――――現イラグエナム帝国皇帝のヴィクターだった。
戦争が終わった後、ヴィクターは非公式に交わされたイリッツァとの約束を守り、着々と準備を進めた。約一年の周到な準備の果て、帝国史上に大きな爪痕を残す大規模なクーデターを起こし、皇帝の座に就き、過去の兄帝らの悪事を暴露。軍人らしからぬ卑怯な行いで王国を貶めようとしたこと、そして無様に失敗したこと、それを国民に隠していたこと。再び、卑怯な手で王国を落とそうとして返り討ちにあったが――敵国の聖女が、それすらも全て許す、と慈悲を見せたことを、白日の下公開した。
戦争遺族もいる国民の感情に訴え、長い王国との戦争の歴史に終止符を打つと宣言。歴史上はじめて、国交を結ぼうと動き始めた。両国の架け橋には聖女たるイリッツァが尽力し、王国民の帝国への悪感情も、エルムの名の許に許しを与えるべしと演説し、積極的に両国の橋渡しを買って出た。さすがに、長い歴史があった以上、いきなり仲良く、というわけにはいかないが、少しずつ、差別感情は無くなってきている気配はある。
「俺は神なんか信じちゃいないが――女神っていうのは、今日からその存在を信じてもいい。現世に舞い降りた女神に、祝福を」
大人の色香をこれ以上なく振りまきながら、洗練された手つきで嫌味なく花を差し出される。
「ふ…ははっ…さすが、女たらし。気障だな。ありがとう」
いつものように笑って、イリッツァは花を受け取った。『抱きたい』などという言葉で褒めたつもりになっているカルヴァンに爪の垢を煎じて飲ましてやりたい――などと、カルヴァンに聞かれたらぶち切れること間違いなしの感想を心の中で抱く。
「それにしても、返す返す惜しい。二、三年したら化けると昔も思っていたが、俺の見立ては間違ってなかった。今のお前なら、俺が女として最高の幸せを約束してやる。国交樹立の記念に、こんな男との結婚はやめて、俺の妃にならないか」
「お前ぶっ殺すぞ」
カルヴァンが殺気を一切隠さないまま、直接的な脅しを吐く。
「ははっ、やるか?結婚式に昔の男が乱入してきて花嫁をかっさらうっていうのは、お約束だろう」
「ぁ゛あ゛!?」
「あーもー、やめやめ!なんで顔合わせるとすぐに喧嘩するの、二人とも!」
介添えとして控えていたランディアが割って入ってとりなす。
「どうしてもの時はチェスで、って決めたでしょ?お互い、立場があるんだから、すぐに実戦でケリつけようとしないの!どっちかが怪我でもしたらどうすんのさ」
たしなめるような言葉にも、ヒートアップする二人は収まらないようだった。それもそうだろう。――喧嘩はチェスで勝負を決めると約束してからこの二年。顔を合わせるたびに毎回とんでもない高レベルで繰り広げられるチェスの戦いは、お互い、一進一退で全く戦績を譲らない。毎度毎度、スカッとした結果にならないため、互いの仲はより険悪になっていく。
「チェスなんかでいくら勝ったって戦った気がしねぇ。今度、国交樹立記念に互いの軍隊持ち込んだ模擬戦を申し込んでやる。絶対ぶち殺す」
「あぁいい度胸だ三度も負ければさすがのお前も身の程を知るだろ」
「おい、間違ってもお前は戦場に出るなよ。死神は反則だ」
「ははは、そんな面白そうな戦いなのに、俺、出られないの?」
「当たり前だ!そもそも女の身で戦場に出てこようとするな!」
ヴィクターの心からの叫びに笑いが漏れる。彼の中では、イリッツァは死神であるという認識が拭えていないようだ。
愉快な会話を楽しんでいると、カサっと草を踏みしめる音が響いて、視線をめぐらす。
(あ――)
「司祭様!」
ぱっと銀髪が跳ねる。その顔に、嬉しそうな笑みが浮かんだ。慌てて駆け寄るように近寄ると、司祭様と呼ばれた男――ダニエル・オームは眼鏡の奥で飴色の瞳を優しく緩め、にこりと温和な笑みを浮かべた。
「会話の邪魔をしてしまいましたか?」
「いいえ、大丈夫です。司祭様、今日は無理を聞いていただいて、ありがとうございます」
「大丈夫ですよ、イリッツァ。娘の結婚式の証人を務められる光栄を、神に感謝します」
軽く聖印を切って祈りをささげるダニエルに、イリッツァは照れくさそうに微笑みを返す。
聖女の結婚式となれば、その証人となる司祭はこの国最高峰の司祭――すなわち、王立教会の司祭であり枢機卿団代表のアランこそがふさわしいだろう。しかしイリッツァは、無理を言って、ナイードからダニエルを呼び寄せ、彼にその役を担ってほしいと願った。
「イリッツァ。――本当に、美しい。娘のこんな姿を見ることが出来て、私は幸せです」
「司祭様――…」
少し潤んだ瞳で感慨深げに言われて、胸が熱くなる。今日無数に寿がれた中で、一番胸を打つ言葉った。
「幸せになるのですよ。フィリアも、きっとそれを望んでいるはずです。ガエル騎士団長も、きっと」
「……はい」
穏やかに添えられた言葉に、小さく微笑んで返事をする。
結婚の許しを得るために、ダニエルを王都に呼び寄せた時――イリッツァは、彼に初めて、この数奇な運命を打ち明けた。自分が、リツィード・ガエルとしての記憶を持っていることを。
ダニエルはひどく驚いた後――初めて、彼の口から、彼しか知らないフィリアを語った。彼が語るフィリアは、リツィードが見ていた、息子にすら愛情を向けることのない雪女のような女ではなかった。にわかに信じられなかったイリッツァに、ダニエルは生前フィリアから届いた手紙を全て見せて――そこに、驚くほど沢山、息子の毎日が描かれていて、心の底から驚愕した。
一切こちらを向くことのなかったはずのミオソティスの瞳は、息子が気づかないところで、いつも、いつも、リツィードを見ていた。
聖女としてではなく――母としての愛情をもって、温かな、穏やかな瞳で、見ていた。
手紙の中にいる母は、リツィードが生前、求めてやまなかった、母親像そのままだった。
彼女には彼女の事情があり、考えがあった。彼女の一面だけを一方的に見て、彼女のすべてを知った気になっていた。
受け入れるには時間がかかるその事実を、ダニエルはゆっくりでいいから考えてほしいと伝えた。
「さぁ、参りましょう。儀式の時間です」
「はい」
飴色の瞳をした父と呼ぶにはやや年の離れた養父に従い、イリッツァはゆっくりと足を踏み出した。
荘厳な教会の中――玉座の間にあるのと芸術的価値は引けを取らないほどのエルムの宗教画が飾られた祭壇に、膝をついて首を垂れる。イリッツァは静かに目を閉じ、聖印を切っていつもの祈りの姿を取った。
ダニエルが、静かに手を掲げ、朗々と口を開く。
「イリッツァ・オーム。貴女は、カルヴァン・タイターを生涯の夫とし、互いに支え、いかなる時もただ一人を愛すと、神に誓いますか」
「――はい。誓います」
エルム教において、『誓い』は重要な意味を持つ。軽々しく口にしていいものではない。それは、『約束』とは異なるものだ。決して破られない、その証こそが『誓い』。
イリッツァは、覚悟を持って、神の御前でその決意を口にする。ダニエルは優しく笑みを作ると、カルヴァンの方へと向き直った。
「カルヴァン・タイター」
カルヴァンは、心底嫌そうな顔で、形だけ膝をついている。本当は、今すぐにでも立ち上がってこの場から去りたいのだろう。ダニエルは苦笑してから、ゆっくりと口を開く。
「貴方は、イリッツァ・オームを生涯の妻とし、互いに支え、いかなる時もただ一人を愛すと――――貴方と、貴方の親友に、誓えますか」
「――――――!」
灰褐色の瞳が驚愕に見開かれる。定型とは異なる、誓約の文言。カルヴァンは数度その目を瞬き――
「あぁ。それなら、自信をもって誓える。生涯、ただ一人を愛し、支えると誓おう」
妻の養父の粋な計らいに、ふっと頬を歪めて笑って、誓いの言葉を口にする。
実在しない神に誓うことなどできない。
彼が誓いを立てるとするならば、己と――彼が信頼する、ただ一人の、親友だけだ。
「それでは、永遠の愛の証に、口づけを」
ダニエルに促され、立ち上がる。顔に掛かっていたヴェールをゆっくりと上げると、頬を桜色に染め上げ、眼を泳がせたイリッツァの顔があった。
くっ、とカルヴァンは喉の奥で笑いをかみ殺す。
「緊張するのか?」
「っ……いくら儀式とはいえ、さすがにっ…」
聖職者にとって、本来性愛に触れる行為である口づけはご法度だ。イリッツァにとっては口付けすら卑猥な行為の象徴であり、人前で行うなどもってのほかだと思っている。それを強制されようとしているのだ。目を泳がせない方が無理な相談だった。
羞恥に顔を染め上げる美女は、いつまで見ていても飽きないが、そういうわけにもいかない。カルヴァンは、笑いをかみ殺しながらゆっくりと顔を近づける。
「ツィー」
「っ……」
「一生、ずっと、傍にいる。永遠に、離れない」
「ぅ……うん…」
横に下ろしていた手を、カルヴァンの大きな手がそっと握った。
イリッツァは、優しく大きなその手を――そっと、静かに、しっかりと、握り返した。
「――愛してる」
低く響く声が囁いて、唇がゆっくりと重なる。
遠くで、祝福の鐘が大きく鳴り響くのが聞こえ――ぎゅ、と重なった手を、互いにしっかりと握り合ったのだった――
連載開始から、1か月とちょっと。初めての作品投稿でしたが、ブックマークをいただいたり評価をいただいたり、とても励みになりました。毎日最新話投稿、の公約も守れてよかった…ここまで続けられたのも、ひとえに読んでいただいた皆様のおかげです。ぜひ、読み終えての感想やレビューなどいただけますと幸いです。
気が向いたら、いくつか番外編などを書くかもしれませんが、本編はこれにて完結です。もし番外編で書いてほしいリクエストなどありましたら、感想などに書いていただければ。
活動報告の方で、あとがき的なもの(制作裏話とか?)を書くかもしれません。ご興味ある方は覗いてみてください。
何はともあれ…長い長い物語にお付き合いいただきまして、ありがとうございました!次回作もお楽しみに!




