第35話 CASCADE
ここは、とあるホテルの最上階にあるCASCADEと言う人気のbar。
今夜も、常連や宿泊客が、一日の疲れを癒し、寛いでいた。
柳林依子が久々に日本に帰国した。
依子は、帰国したら、いつも必ずCASCADEに立ち寄っていた。
優しいマスターと美味しいお酒は、いつも海外で気を張って働いている依子の心に、安らぎをもたらしてくれるから。
今回、依子が帰国した理由のひとつは、元々、この時期に、沙織と前々から箱根旅行をする約束をしていて、帰国しようと予定はしていた。もうひとつは、急遽、国際警察の任務も受けることになり、偶然にもそのふたつの理由が重なった帰国となった。
先日、ホテルで亡くなった女性のバックの中から、見つかったパンティーを検察したところ、麻薬が糸に練り込まれていた。
国際警察は、現在、この製品を作っている下着会社を調査していた。
そして、その一部が、日本国内でも販売されているということが分かった。
依子は、ハワイで調査している情報を伝達し、日本警察に捜査協力する為に日本に帰国した。
今夜は湿度が高かった。
そのせいか、店内に流れるピアノの音はどこか柔らかかった。それでいて、ピアノの高音だけは、依子の耳の奥までクリアーに届き、音の振動が鼓膜に触れるのを感じているように入って、驚くほど澄んで聞こえた。
マスター「依子様、いらっしゃいませ。お久しぶりです」
依子がサングラスをかけたまま、マスターの方を見た。
夜なのだから、もう日差しもなく、眩しくは無いし、サングラスを取れば良いのだが、取らなかった。
職業病なのか、 他人に、自分の顔がバレたくないと言う気持ちがあった。
自分の目の表情を見られて、自分の胸の内を知られたくない、また心に余裕のない時の自分の目つきによって、人を傷つけてしまうんじゃないかと思う気持ちから、依子はサングラスを外さないことが多かった。
依子「マスター、こんばんは。
久々に、日本に帰って来れて、嬉しいわ。でも、帰ってこれたと思ったら、仕事しなくちゃならなくて、、まったく、日本生活を満喫したかったのになぁ。」
依子が、さっぱりした口調で話すと、
明るくチャーミングに微笑んだ。
マスター「 依子様、いつ帰国されたのですか?」
依子「2日前よ」
マスター「柳林様と沙織様とは、もう会えました?」
依子「うん。実はまだ。ふふふ。善さんも忙しいから、なかなか会えないのよ。
善さん、日本に私が帰ってきてることは知ってるんだけれどね。あの人、、家に帰らないで、仕事してる日も少なくないから、会えないのよ。今、いくつかの事件が重なってるらしくて、部署をまたいで連携や指揮にも関わってて、善さん、大変そうだわ。
私、まだ自宅にも行ってないのよ。
ここのホテルの部屋をとってあって、滞在してるわ。」
マスター「 そうなんですね。それは早く会えるといいですね。依子様、いつものメルローのグラスでいいですか?」
依子「お願いします。 」
マスターがワインセラーから、メルロー(銘柄調べる)のボトルを取り出すと、ワインオープナーで、手馴れた手つきで、スムーズにコルクを開け、依子の前に空のワイングラスを、スっと置くと、ワインを注ぎ入れた。
マスターがグラスにワイン注ぎ入れると、小気味よい軽やかな音がしてきた。
透明グラスの中の赤色の層の割合が、徐々に深くなっていった。
マスター「どうぞ」
俳優にいそうな綺麗な顔立ちのイケメン渋おじマスターは、しなやかな動きでワイン提供をこなした。
そんなマスターに注がれたワインは、更に一層、美味しくなった。
マスターは、一見近づきにくく、気取ってるかと思いきや、自分の失敗談もニコニコしながら話すなど、とても気さくで、親近感を感じさせる。
そんなわけで、ここに来る常連の女性ファンは絶えなかった。
依子「ありがとう。」
依子は、日本に帰ってきたらまず、ここでワインを飲むんだ!って楽しみにしていた。
その嬉しさが、サングラスをしてポーカーフェイスを作っていても、漏れて、ウキウキしている様子は隠せていなかった。
依子は、クルクルっと、グラスを反時計回りに回し、広がる香りを楽しむと、グラスに口をつけ、一口含んだ。
依子「うん、やっぱり美味しい♪」
口元が笑顔になる依子。サングラスの中の目も、笑っていた。
マスター「ありがとうございます」
マスターは口をグッと固めに閉じて、口角を上げて目がなくなるくらい細くなって、笑顔になった。
髪型も色も遊んでいる、一見だらしなさそうなチャラ男みたいなマスターだが、実は、毎回、お客様に飲み物や食べ物を提供する時は、美味しいと言って貰えるように、寛いで頂くための雰囲気、サービスに気をつけ、事前準備や、ワインの知識を身につける事も怠らず、お客に真摯に向き合ってサービスしていた。根はかなり真面目な男だった。
お客様からの反応が良かったり、手応えがあると、マスターも、嬉しかった。
特に今夜は、依子様に喜んでもらえて、今夜は特別、良い夜だなと思った。
店の自動ドアが開いた。
誰かお客が入ってきた。
沙織だった。
沙織が入口から店内に入ってきた。
依子が沙織に気づき手を振った。
依子「さお、ここだよ!」
依子は沙織のことを『沙織』『沙織ちゃん』と呼ぶのだが、『さお』と呼ぶこともあった。沙織が嬉しそうにカウンターにいる依子の所へ近づいた。会うのは何ヶ月ぶりだろう。
沙織「ママ! 」
依子と沙織が抱きしめ合った。
依子「良かった、元気そうで」
沙織「ママも」
沙織「お仕事忙しい?」
依子「うん。でも、今回の滞在は、さおと箱根旅行に行くんだから、長期休暇とったわ!のんびりしたい~。」
沙織「うんうん! 楽しみだよね!」
主人の帰りをずっと待ちわびていた子犬が、主人が帰ってきて、しっぽを振って喜ぶ子犬のように、沙織は依子に懐っこくしゃべり続けた。
依子「それでね、予約したホテルのレストランのクチコミをネットでみたら、美味しいって、評判よ!」
沙織「 いいね! いっぱい、美味しいもの食べたいわ!」
沙織のテンションは、なかなか下がらなかった。なにせ、実の母親と半年以上ぶりに会うのだから、そして、次にいつ会えるかわからなかった。約束は出来なかった。依子は国際警察の任務で、外国へ渡り、日夜多忙な毎日を過ごしていたから。
マスター「いいですね、ご家族でご旅行ですね。柳林様もご一緒で? 沙織様、オレンジジュースでいいですか?」
沙織「うん、いつもので。
(お酒じゃないけど、『いつもの』ってただ気取って大人ぶって言いたい沙織)
そうそう。マスター、パパに言ったらね、絶対俺も行くって言うから、三人で宿泊予約したのよ。」
沙織がバックから手帳を取り出すと、箱根旅行の日にちの確認をしようと手帳を広げた。
依子「沙織ちゃん。言ってなかったけど....
ママね、実は仕事もあって、帰国してるのよ。」
沙織が両手に開いた手帳を持ったまま、顔を上げ、目をクリクリとさせて、瞬きを数回早くすると、依子の方を見た。
沙織「 え? そうなの? ママ 」
続く




