第8話 灰の足跡②
第8話 灰の足跡②
「あら」
その声は、炭鉱の奥から聞こえた。
甘い。柔らかい。けれど耳に届いた瞬間、冷たい針のように奥へ残る声だった。
「可愛い蟻さんたち。こんなところまで来ちゃったのね」
深い青の灰が、ふわりと舞い上がる。
灰の向こうに、女が立っていた。
金色の髪。ヘイズロストの軍服。白い指先にまとわりつく、深い青の粒。
女の周囲だけ、灰が生き物のように揺れている。
人間の形をしている。
けれど、ここにいる時点で味方ではない。敵かもしれない、ではなく、ほぼ敵だ。
それでも、朔はすぐに杖を振らなかった。
相手もこちらを見ている。逃げるでもなく、襲うでもなく、こちらの反応を測っている。
なら、まずは確かめる。
話が通じる相手なのか。言葉を投げる価値がある相手なのか。
分かりやすい質問を一つ。
朔は杖を下ろさないまま、口を開いた。
「名前は?」
女は嬉しそうに笑った。
「名乗ってほしいの? 礼儀正しいのね、赤ずきんちゃん」
その呼び方に、祈々がぴくりと反応する。
「朔さんのことを、知ってるんですか?」
「知ってるわよ。蟻ノ巣の赤ずきん。壊さずに勝ちたがる、変な子」
女は金色の髪を指先で絡める。
「メリー。メリー・グラス。覚えておきなさい」
メリー・グラス。
朔はその名を、心の中で一度だけ転がした。
綺麗なものほど危ない、とはよく言ったものだ。グラスという名前は、実にこの女に似合っている。
硝子は綺麗だ。光を受ければ、いくらでも美しく見える。
けれど、壊れた硝子は切れやすい。
そしてたぶん、この女はもう、とっくに割れている。
「蟻ノ巣の入口に魔物を寄越したのはアンタか?」
「寄越した?」
メリーはくすくすと笑った。
「嫌ね。アタシはただ、迷子の灰に行き先を教えてあげただけよ」
「つまり、アンタが操った」
「言い方が乱暴ね」
朔は笑わなかった。
やはり、言葉は通じる。けれど、話が通じるかは別だ。
この女は答えを持っている。でも、素直に渡す気はなさそうだ。
なら、少しずつ削るしかない。
祈々が一歩前へ出た。
「あなたが、街を困らせてるんですか?」
「街?」
メリーは祈々を見る。
その視線が、祈々の左腕で止まった。
袖口から覗く指先は、黒い。煤ではない。泥でもない。指先に近づくほど、皮膚そのものが深い黒へ塗り替えられている。
手の甲には、細い亀裂のような筋が浮いていた。その奥で、かすかな光が脈を打つ。
祈々は無意識に左手を握った。
メリーの唇が、ゆっくりと弧を描いた。
「いい腕ね」
祈々の表情が固まる。
夜の声が低くなった。
「祈々、下がって」
「いえ、大丈夫です」
祈々は笑った。いつも通りに見えるように。
けれど朔には、その笑顔がほんの少しだけ硬く見えた。
まずいな。
祈々は強い。だけど、あの左腕に触れられると、心が揺れる。
敵はそこを見た。初対面で、的確に。
朔は杖の先を、メリーへ向けた。
「祈々に触れるな」
「あら、怖い」
メリーは楽しそうに肩をすくめた。
「でも、触ったのはアタシじゃないわよ」
足元の灰が、渦を巻いた。
深い青の粒が集まり、盛り上がる。羊の足跡だったものが、形を変えていく。
四本の脚。毛のない身体。巻き角。空洞の眼窩の奥に灯る、深い青の光。
灰でできた羊が、メリーの前に立ち上がった。
前に夜と白が見たものより、ずっと大きい。
「さあ」
メリーが白い指先で、羊の背を撫でる。
「遊んであげなさい」
灰の羊が、音もなく跳んだ。
「来るぞ!」
朔の声と同時に、夜が横へ流れた。
速い、というより滑らかだった。足音も、衣擦れの音も、ほとんどない。灰の羊の角が夜の髪をかすめるより早く、夜はすでにその側面へ回り込んでいた。
「遅いわ」
夜の回し蹴りが、羊の脚を裂く。
灰が散った。深い青の粒が火花のように跳ねる。
けれど、崩れた脚はすぐに集まり直した。
「再生します!」
祈々が叫ぶ。
「分かってる!」
朔は杖を振る。
赤黒い光が、炭鉱の闇を裂いた。
斬るためじゃない。砕くためでもない。
魔物として繋ぎ止めている形を探す。
牙。角。脚。灰の流れ。核。
どこだ。
朔は目を凝らす。
普通の魔物なら、形を支える芯がある。それをほどけば崩れる。
けれど、この羊は違った。
核が一つじゃない。
灰の粒そのものが、小さな命令を持って動いている。
「随分と面倒な作りをしているな」
朔が低く呟く。
メリーが嬉しそうに笑った。
「褒め言葉として受け取るわ」
「褒めてなどいないよ」
「でも、見えてるのね。さすが赤ずきんちゃん」
灰の羊が方向を変えた。
狙いは朔ではない。祈々だ。
「祈々!」
「はい!」
祈々は左腕を前へ出した。
黒い指が開く。亀裂の奥で、光が強く脈打った。
次の瞬間、稲妻のような閃光が左腕を走る。
祈々は踏み込んだ。
「せえ、のっ!」
黒い左拳が、灰の羊の頭を打ち抜いた。
轟音。羊の巻き角が砕け、青の灰が炭鉱の壁へ叩きつけられる。
祈々の足元の石畳に、細いひびが走った。
夜が振り向く。
「祈々、力を入れすぎないで!」
「す、すみません!でも、今のはちょっとだけです!」
「ちょっとで壁が割れているのだけれど」
祈々は一瞬だけ気まずそうにした。
けれどすぐに、羊の残骸へ目を向ける。
砕けた灰は、まだ動いていた。
さらさら。さらさら。
床を這い、壁を伝い、再び形を作ろうとしている。
「ああもう…!しつこいですね……!」
祈々の左腕が、また小さく震える。
朔はその震えを見逃さなかった。
祈々を長引かせるのはよくない。
この灰は、ただの敵じゃない。祈々の腕の中にいるものを、刺激している。
「夜、祈々の援護!」
「分かったわ」
夜が祈々の前へ滑り込む。
「祈々、呼吸を整えて」
「はいっ」
「声を張らない」
「あっ、はぃ…」
朔はメリーへ向かって走った。
羊を壊しても意味がない。操っている本人を押さえる。
それが一番早い。
杖の先から、赤黒い光が伸びる。細い糸のような光が、メリーの足元へ走った。
「逃げ場を塞ぐ」
朔が呟く。
赤黒い線が床を這い、メリーの周囲に円を描く。
メリーはそれを見下ろし、楽しそうに笑った。
「あら、捕まえる気?」
「話を聞きたいだけだよ」
「なら、紅茶でもいかが?」
メリーが指を鳴らした。
空気が一瞬で冷える。
炭鉱の壁に残っていた水分が凍り、白い霜が走った。次の瞬間、氷の針が朔へ向かって降る。
朔は杖を横へ振った。
赤黒い光が氷をほどいていった。針は形を失い、ただの冷たい水滴になって床へ落ちた。
「氷」
朔は目を細める。
「灰だけじゃないんだな」
「女には秘密が多いものよ」
メリーの指先に、今度は青白い雷が灯る。
朔の背筋が冷えた。
まずい。
雷は朔ではなく、天井の古い支柱へ向いている。
「夜、祈々、下がれ!」
メリーの雷が走った。
支柱が砕け、炭鉱全体が大きく揺れた。
天井から石が落ちる。木組みが悲鳴を上げる。灰の羊が崩れ、その灰が煙幕のように広がった。
逃げる気だ。
朔は一歩踏み出しかけた。
追える。
今ならまだ間に合う。
あの女を捕まえれば、灰のことも、武器のことも、蟻ノ巣を襲った理由も聞ける。
でも。
背後で祈々が小さく息を呑む音がした。
夜が祈々を庇うように立っている。天井はまだ崩れている。
追うか。守るか。
考えるまでもない。
朔は杖を床へ叩きつけた。
「伏せろ!」
赤黒い閃光が炭鉱の闇を裂く。
落ちてきた岩が空中で砕けた。一つ、二つ、三つ。大きな岩塊は赤黒い光に撃ち抜かれ、無数の破片となって三人の周囲へ降り注ぐ。
朔はさらに杖を振る。
砕けた石片が弾かれ、壁へ、床へ、三人を避けるように散った。
灰の向こうで、メリーの声がした。
「いい判断ね」
朔は顔を上げる。
これが本当に正しい選択肢なのかは今はどうでもいい、とりあえず祈々の様子がおかしかったことは確かた、無理に強行しては何かが起きる。そんな嫌な予感がした。
煙る灰の奥に、金色の髪が揺れていた。
メリーは崩れかけた横穴の前に立ち、片手をひらひらと振っている。
「今日はここまでにしてあげる」
「逃げるの?」
祈々が声を上げる。
メリーは祈々を見て、にこりと笑った。
「逃げるんじゃないわ。帰るの」
「同じだと思います!」
「可愛い子ね」
メリーの視線が、祈々の左腕へ落ちる。
「その腕、いつまであなたのものなのかしら」
祈々の表情が、一瞬だけ消えた。
朔の声が低くなる。
「メリー」
「あらあら、怖い怖い」
メリーは笑う。
「アンタたち全員、アタシのペットの餌にしてア・ゲ・ル……って言いたいところだけど」
深い青の灰が、彼女の足元に集まっていく。
「今日は挨拶だけ。赤ずきんちゃんの顔も見られたし、かぐや姫ちゃんのすばしっこさも見られたし、呪われた子の腕も見られた」
「……観察してたのね」
夜が静かに言う。
「そうよ」
メリーは悪びれもせず頷いた。
「戦う前には、相手をよく見るものよ。ねえ?」
朔は杖を握り締めた。
こいつは、まだ本気じゃない。
戦いに来たんじゃない。測りに来た。
蟻ノ巣がどれだけ動けるか。誰が来るか。誰が何を隠しているか。
そうして、こちら側を見ていた。
「次はもっと可愛い子を連れてきてあげる」
メリーは灰の中へ一歩下がる。
「また遊びましょう、可愛い蟻さんたち」
深い青の灰が舞い上がった。
視界が塞がる。甘く腐った蜜の匂いが、鼻の奥へ絡みつく。
朔が灰を払った時には、もうメリーの姿はなかった。
残っていたのは、崩れかけた横穴。深い青の灰。そして、岩肌に絡まった金色の髪が一本。
祈々が左腕を押さえたまま、唇を噛んでいる。
夜は静かに周囲を見渡した。
「追う?」
朔は首を横に振った。
「追わない」
追いたい。今すぐ追って、あの女の笑い声を黙らせたい。
けれど、炭鉱は崩れかけている。夜も祈々も無傷ではない。
それに、朔は祈々の左腕を見た。
袖口から覗く指先は、黒い。
昔魔物から受けた呪いの影響で、指先に近づくほど深く染まっているその腕は、さっきから小さく震えていた。
メリーはダストを使った魔物を操っていた。そして祈々の左腕は、その灰に反応したように見えた。
偶然、で済ませるには気持ちが悪い。
「祈々」
「はい」
「その腕、あとで博士に見せて」
祈々は一瞬だけ、左腕を引いた。
それから、小さく笑う。
「大丈夫ですよ。まだ、私の腕です」
まだ。
その言葉が、炭鉱の暗がりに落ちた。
祈々はいつもそうだ。明るく笑って、大丈夫そうな顔をして、嫌なことを少しだけ後ろへ隠す。
でも、隠したものが消えるわけじゃない。
祈々の左腕に何が起きているのか。メリーの灰が、あの腕に何かをしたのか。
分からないまま放っておく方が、ずっと怖い。
祈々には、少し嫌な思いをさせるかもしれないが。それでも、念のために博士に見てもらった方がいい。
朔は静かに言う。
「だから、今のうちに見てもらうんだよ」
祈々は少しだけ目を伏せた。
「……わかりました」
その顔は、いつもの祈々にしては、少しだけ寂しそうだった。
朔は何も言わず、祈々の返事だけを受け取る。
炭鉱の奥で、灰がさらさらと崩れる音がした。
それはもう足跡ではなかった。ただ、何かが去ったあとの残響だった。
朔は杖を肩に乗せ、出口へ向かう。
向こうは、こちらを見た。なら次は、こちらが向こうを見る番だ。
メリー・グラス。
朔はその名を、もう一度だけ心の中で呟いた。
忘れない。灰を操る女。氷と雷を使う。ヘイズロストの軍服。そして、蟻ノ巣の称号を知っている。
十分ではないが。けれど、何も知らなかった朝よりは、ずっと近い。
「帰るよ。皆に報告しないといけないことも、博士にも話さないといけないこともできた」
祈々が小さく頷く。
「……はい」
炭鉱の奥で、灰がさらさらと崩れる音がした。
それはもう足跡ではなかった。ただ、何かが去ったあとの残骸だった。
朔は杖を肩に乗せ、出口へ向かった。




