第7話 灰の足跡①
第7話 灰の足跡
薬がラムカラムから戻ってきたのは、昼前だった。
蟻ノ巣の会議室には、まだ地図が広げられたままだ。トルルカーン。ラムカラム。ヘイズロスト。
三つの都市を結ぶように、朔は赤い糸を置いていた。
「で、どうだった?」
机の端に腰を預けたまま、朔が尋ねる。
薬は椅子に座るなり、深いため息をついた。
「人が多い。飯の匂いが多い。あと、変なガキがいた」
「最後だけ急に雑だな」
「雑じゃねぇよ。マジで変なガキだったんだよ」
薬は不機嫌そうに腕を組む。獣耳が、まだ苛立ったようにぴくぴくと動いていた。
「ラムカラムの軍服を着たガキだ。年はオレより下くらい。態度はオレより上だったけどな」
祈々がぱちぱちと瞬きをする。
「軍服を着た子ども、ですか?」
「ああ。屋根の上に座って、人に向かって犬とか言ってきた」
「犬……?」
「犬じゃねぇ」
薬は即答した。
夜は小さく息を吐き、薬へ視線を向ける。
「そこに怒る気持ちは分かるけれど、今は報告を続けてちょうだい」
「分かってねぇだろ」
「分かっているわ。たぶん」
「絶対分かってねぇ」
朔は少しだけ笑ったが、すぐに地図へ視線を戻した。
「その子、兵士だった?」
「知らねぇ。少なくとも、兵士って感じじゃなかった。けど、腰に銃は下げてた。飾りじゃねぇな。使い慣れてる感じだった」
会議室の空気が、少しだけ変わる。
祈々は先ほどまでの表情を引っ込め、真面目な顔になった。
「ラムカラムの軍服で、銃を持っていたんですね」
「そういうこった」
薬は頷いたあと、思い出したように眉を寄せる。
「あと、誰かに追われてたっぽい」
朔の指が、地図の上で止まった。
「追われてた?」
「ああ。途中で男の怒鳴り声がした。そしたらそいつ、すぐ人混みに消えた」
「何かやらかした、ということかしら」
夜が静かに言う。
薬は肩をすくめた。
「さあな。ラムカラムじゃ、ガキがパンの一つ盗んで追い回されるなんて珍しくもねぇよ。あそこは人も物も多い。飯の匂いも多い。そのくせ、腹空かせた奴も多い」
祈々の表情が少し曇る。
「豊かな街なのに、ですか?」
「豊かだからだろ」
薬は鼻を鳴らした。
「戦争のあと、ラムカラムはかなり復興してる。出店も商人も多い。けど、そういう場所には、食えねぇ奴も流れてくる。誰かが笑って飯食ってる横で、誰かが腹鳴らしてんだよ」
会議室に、短い沈黙が落ちる。
朔はラムカラムの位置を見下ろしていた。湖と市場と、眠らない街。人が集まる場所には、光だけではなく影も集まる。
「だから、追われていたこと自体は珍しくない」
「そういうことだ」
薬は頷く。
「ただ、腰に銃下げたラムカラム軍服のガキが、屋根の上で人を煽って、追われたら慣れたみたいに逃げる。そこはちょっと引っかかる」
夜は地図の上、ラムカラムの位置へ指を置いた。
「ヘイズロストの軍服を着た金髪の女。ラムカラムの軍服を着た少年」
祈々が小さく首を傾げる。
「別々の都市の人たちが、関わっているかもしれないってことですか?」
「まだ分からないわ」
夜はすぐに答えた。
「本当にラムカラムの関係者かもしれない。似た服を着ていただけかもしれない。ただの不良兵かもしれない。今の情報だけで決めつけるには早いわ」
薬は不満げに顔をしかめる。
「あれが兵士だったら、ラムカラムの軍も終わりだな」
「感想は後で聞く」
朔は地図の上、トルルカーンの外れを指で叩いた。
「ラムカラムの件は保留。今は、青い灰の痕跡を優先する」
夜が頷く。
「旧炭鉱区画ね」
「うん。夜と白が見つけた深い青の灰。金色の髪。そこが一番、敵の足跡に近い」
祈々の表情がぱっと明るくなる。
「私も行きます!」
薬が祈々を見る。
「元気だな、お前」
「はい! 元気です!」
「褒めてねぇ」
朔は祈々へ視線を向けた。
「祈々、今回はアンタにも来てもらう」
「はいっ!」
祈々は勢いよく返事をした。
夜は少しだけ不安そうに祈々を見る。
「炭鉱は足場が悪いわ。あまり勢いだけで動かないでね」
「大丈夫です! ちゃんと気をつけます!」
「その返事が一番心配なのよ」
祈々は困ったように笑い、左腕を軽く握った。服の下で、その腕に宿るものがかすかに脈打つ。
「でも、狭い場所なら、私、すぐ動けます。何か出ても、朔さんと夜さんを守れます」
朔は口角を上げた。
「頼もしいね」
「はい! 頼もしいです!」
「自分で言うのね」
夜が少しだけ笑った。
薬は椅子の背にもたれたまま、じとりと朔を見る。
「で、オレは?」
「薬は残って」
「は?」
「ラムカラムから戻ったばっかだろ。あと、昼ごはん」
薬の顔が分かりやすく歪んだ。
「結局そこかよ」
「大事だよ。腹が減ると判断が鈍る」
「それっぽいこと言って、昼飯食いたいだけだろ」
「ちょっとある」
「認めんな」
薬は大きく息を吐いた。それから、椅子から立ち上がる。
「……何人分」
「いつも通り」
「多いんだよ、うちは」
ぶつぶつ言いながらも、薬は会議室の扉へ向かう。
「作っとく。その代わり、帰ったら皿洗いは誰かにやらせろ」
「考えとく」
「考えるな。決定しろ」
「はいはい。帰ったら私がやっておくよ」
「ったくよぉ、飯が冷める前に早く帰ってこいよ」
薬は振り返らず、片手をひらひらと振る。
「怪我すんなよ。飯がまずくなる」
朔は少しだけ表情を和らげる。
「おう。ちゃんと帰ってくる」
薬の獣耳がぴくりと動いた。けれど、それ以上は何も言わず、彼は食堂の方へ消えていった。
会議室に残ったのは、朔、夜、祈々の三人。
朔は地図を畳み、杖を手に取る。
「目的は三つ。青い灰の発生源を探すこと。盗まれた武器に繋がる痕跡を探すこと。そして、敵の居場所を絞ること」
祈々が拳を握った。
「敵がいたら捕まえる、ですね!」
「そう。殺さずに、できれば話を聞く」
夜が少しだけ眉を下げる。
「できれば、なのね」
「向こうが話し合いに応じてくれるなら楽だけどね」
朔は杖を肩に乗せ、会議室の扉へ向かった。
「向こうがうちの玄関まで来たんだ。次はこっちが、相手の足跡を踏みに行く」
扉が開く。蟻ノ巣の奥から吹く冷たい空気が、三人の足元を撫でた。
ーーーーー
トルルカーンの旧炭鉱区画は、昼でも薄暗かった。
火山の熱が地面の下に残っているせいで、空気は乾いているのに重い。赤黒い岩肌。崩れかけた木組み。使われなくなった荷車の車輪跡。
人が消えて久しいはずの場所なのに、どこかにまだ誰かの気配が残っている。
祈々は辺りを見回しながら、ぽつりと言った。
「ここ、なんか変な感じしますね」
夜が足を止める。
「そうね。前に白と来た時より、少し空気が重いわ」
「ダストが濃い?」
朔が尋ねると、夜は岩肌に指先を近づけた。
「たぶん。けれど、普通の魔物が集まっている時の重さとは少し違うわ」
朔は無言で頷いた。
旧炭鉱の入口には、古い立入禁止の札が斜めにぶら下がっていた。文字は半分ほど煤けて読めない。けれど、その向こうから流れてくる空気だけは、はっきりと冷たい。
祈々が腕まくりをする。
「よし、行きましょう!」
「待って」
夜がすぐに止めた。
祈々は片足を踏み出した姿勢のまま止まる。
「えっ」
「勢いで入らないで。足場が崩れているかもしれないわ」
「あ、はい。気をつけます」
朔は入口の地面にしゃがみ込んだ。
そこには、灰が落ちていた。
ただの灰ではない。光を受けると、深い青にきらめく細かな粒。夜と白が最初に見つけたものと同じだった。
「……増えてるね」
夜が小さく頷く。
「前に来た時は、ここまで入口近くにはなかったわ」
祈々もしゃがみ込み、灰を覗き込む。
「綺麗ですね。でも、なんか嫌です」
「いい感覚だよ」
朔は小瓶を取り出し、灰を少しだけすくった。
「綺麗なものが安全とは限らない」
「はい」
祈々は真面目な顔で頷いた。
朔は小瓶に栓をして、立ち上がる。
「夜、道は覚えてる?」
「ええ。前に灰を見つけた場所までは案内できるわ」
「じゃあ、そこまでは夜が先導。祈々は真ん中。私は後ろ」
「朔さんが後ろなんですか?」
祈々が振り向く。
「後ろから来るものも見るためだよ」
「なるほどです!」
「あと、アンタが勢いよく走り出さないように」
「そっちが本音ですか!?」
夜が口元に手を当てて、少しだけ笑った。
三人は旧炭鉱の中へ入った。
足を踏み入れた瞬間、音が変わる。外の風の音が遠くなり、代わりに地下特有の湿った反響が耳に残った。
ぽたり、とどこかで水が落ちる。ぎしり、と古い木組みが鳴る。そのたびに、祈々の肩が小さく跳ねた。
「怖い?」
朔が後ろから尋ねる。
祈々は即座に振り返った。
「こ、怖くないです!!!」
「声が大きいわよ」
夜が前から注意する。
「あっ、すみません」
祈々は慌てて口を押さえた。
「怖くはないです。ただ、暗いところって、どこから何が出るか分からないので」
「それを怖いって言うんじゃない?」
「違いますよ。警戒です」
「そういうことにしておこう」
朔は小さく笑う。
夜は通路の壁に手を近づけながら進んでいた。その動きは静かで、無駄がない。前に一度来た場所だからというだけではない。夜は、周囲のわずかな変化を拾いながら歩いている。
「ここから先、少し崩れているわ」
夜の声で、朔と祈々は足を止めた。
通路の先は、岩が崩れて狭くなっていた。大人一人が横向きになって、ようやく通れるほどの隙間。その奥から、冷たい空気が流れてくる。
祈々は、自分の左腕を見た。
袖口から覗く指先は、もう人の肌の色をしていなかった。爪の先から手の甲、手首へ向かって、墨を流し込まれたような黒が広がっている。ただ黒いだけではない。その表面には、乾いた大地がひび割れるように細い亀裂が走り、亀裂の奥では、かすかな光が脈を打っていた。
まるで皮膚の下に、祈々ではない何かが眠っているみたいだった。指を曲げる。ぎしり、と骨ではないものが軋む感覚がした。
「壊して広げますか?」
「やめて」
夜の返事は早かった。
「炭鉱ごと落ちるわ」
「ですよね」
朔は狭い隙間を覗き込む。
「通れる?」
「通れるけれど、一人ずつね」
夜が先に身体を滑り込ませる。紫がかった黒髪が、薄暗い通路に吸い込まれていく。
次に祈々。彼女は思ったより慎重に、崩れた岩へ手をかけながら進んだ。最後に朔が続く。
狭い隙間を抜けると、空気が少し変わった。
さっきまでの乾いた熱とは違う。もっと冷たい。もっと湿っている。そして、ほんのわずかに甘い。
祈々が顔を上げた。
「……匂いがします」
朔も足を止める。
「何の匂い?」
「うまく言えません。花みたいな、蜜みたいな……でも、腐ってるみたいな」
夜の表情がわずかに硬くなる。
「前にはなかったわ」
朔は杖を握り直した。
「じゃあ、当たりかもしれない」
通路の奥で、さらさらと何かが崩れる音がした。
三人は同時にそちらを見る。
暗闇の中、地面に積もった灰がわずかに動いていた。
深い青の粒が、星のように瞬く。灰は風もないのに流れ、細い線を描きながら奥へ続いている。
祈々が小さく息を呑む。
「道みたい……」
夜は膝をつき、灰の線を見下ろした。
「違うわ」
「え?」
夜の指先が、灰の上で止まる。
それは線ではなかった。いくつも連なった、小さな跡。
丸く、細く、二つに割れたような形。
朔はその形を見て、静かに呟いた。
「足跡だ」
祈々が顔を上げる。
「足跡……何のですか?」
朔は答えなかった。
夜が代わりに、低く言う。
「羊、かしら」
炭鉱の奥から、また音がした。
さらさら。
さらさら。
灰が崩れる音。何かが歩く音。
それとも、誰かがこちらを誘う音。
朔は杖を肩から下ろした。
「行こう」
「追うのね」
夜が確認する。
「うん。ここまで分かりやすく足跡を残してるんだ。罠かもしれない」
「それでも行くんですか?」
祈々の声に、迷いはない。ただ、確認しているだけだった。
朔は笑った。
「罠なら、仕掛けた奴に会える」
祈々は一瞬だけ目を丸くして、それから大きく頷いた。
「分かりました!」
「声」
夜が注意する。
「あっ、はい。小さくします」
三人は灰の足跡を辿って、さらに奥へ進んだ。




