第15話 猫が残した物
不思議な猫、チェシャ猫に出会った朔は蟻ノ巣に帰り報告をする。
「どうして助けを呼ばなかったの?」
帰還路が閉じるよりも早く、夜の声が飛んできた。
朔は赤いフードの縁へ手をやりながら、視線を逸らす。
「呼ぶほどじゃなかったから」
「魔物が街へ入り込み、住民が襲われたのでしょう?」
「三体だけだったし、すぐに片づいたよ」
「数の話をしているのではないわ」
低く抑えられた声に、朔は口を閉じた。
ルドルメラフから戻り、何か変わったことはなかったかと尋ねられた。それで朔は、聞き込みの途中に魔物が現れたことを話した。
隠していたつもりはない。
ただ、わざわざ通信で知らせるほどのことではないと思っていただけだ。
帰還口の脇では、春と遊祈も二人のやり取りを見守っている。
助けを求めるように視線を向けてみたが、遊祈は静かに目を逸らした。
春も困ったように微笑むばかりで、夜を止める様子はない。
どうやら、今回ばかりは味方になってくれないらしい。
「戦っている最中に連絡する余裕はなかったんだって」
「それは分かっているわ」
夜はあっさりと認めた。
「住民が襲われているのに、通信を優先しろとは言わない。わたくしが怒っているのは、そのあとよ」
そこを突かれると弱かった。
魔物を倒したあと、怪我人がいないことを確認した。兵士たちが周囲の警戒へ移るところまで見届けた。
通信結晶を取り出す時間は、十分にあった。
それでも朔が送ったのは、予定どおりの調査終了の連絡だけだった。
「もう終わったことだったから」
「終わったかどうかを、アンタ一人で決めないで」
夜が一歩、距離を詰める。
朔は反射的に下がりかけたが、余計に怒らせそうなので踏み留まった。
「近くに別の魔物が潜んでいたかもしれない。戦闘で怪我を負っていた可能性もある。それに、今回の襲撃がほかの都市で起きた異変と関係しているかもしれないでしょう」
「怪我はしてないよ」
「それを確かめるのは、アンタだけの役目ではないわ」
夜の視線が、朔の全身をなぞった。
服に大きな破れはなく、血も付着していない。
そのことを確認し、ほんの僅かに表情を緩める。それでも、怒りが消えたわけではなかった。
「アンタは、自分一人で片づけられることなら、誰にも知らせなくてよいと思っている」
「実際、片づけられたし」
「朔」
名前だけを呼ばれた。
それだけで、続けようとした言い訳が喉の奥へ引っ込む。
「強いことと、一人で背負ってよいことは違うわ」
少し前、春たちをアイスジャベリンへ送り出した時のことを思い出す。
危険を感じたら調査を中断すること。
何か見つけても、自分たちだけで追わないこと。
そう言い聞かせたのは朔自身だった。
自分で決めたことを、自分だけが守っていない。
「……ごめん」
夜が僅かに目を見開いた。
すぐに反論されると思っていたのかもしれない。
「次からは、戦いが終わったあとでも連絡する」
「“次”がないのが一番なのだけれど」
「魔物が出るかは私にも決められないよ」
「そういう意味ではないわ」
夜は額へ指を当て、深く息を吐いた。
「もう……アンタと話していると、怒っているこちらが疲れてくるわね」
「じゃあ、もう怒るのやめる?」
「まだ終わっていないわ」
「はい」
朔が大人しく返事をすると、春がようやく二人の間へ入った。
「ひとまず、朔さんが無事に戻られてよかったです」
「うん。ただいま」
「お帰りなさい」
春の柔らかな声で、張りつめていた空気が少しだけ緩む。
その横で、遊祈が朔へ視線を戻した。
「ルドルメラフでは、魔物以外にも何か見つかった?」
「あった」
朔はスカートのポケットへ手を入れた。
指先へ触れたのは、小さな布包みだった。
廃工場で出会った、姿も声も定まらない猫。
そいつが残した一枚の羽根。
「むしろ、分からないことが増えた」
夜が再び腕を組む。
「結構よ。今度は省略せず、最初から話してちょうだい」
どうやら、説教の次は報告会らしい。
朔は小さく息を吐き、皆とともに会議室へ向かった。
大机の上には、五聖柱都市を記した地図が広げられていた。
朔と夜、春、遊祈が席へ着き、ストロベリー博士は机の端で棒付き飴を口にくわえている。
No.Aは博士の隣へ立っていた。
ricoはまだ治療室で休んでいる。状態は安定していると聞いていたが、春は時折、そちらへ続く通路を気にしているようだった。
「まず、街での聞き込みからお願い」
夜に促され、朔はルドルメラフで得た情報を順番に話した。
軍服を着た見慣れない者を目撃した住民はいなかった。
大きな武器や物資が盗まれたという話もない。
異常な色のダストを見た者もいなかった。
以前から魔物の侵入は続いているものの、ほかの都市で起きた事件へ直接繋がる証言は得られなかった。
「では、メリーたちに似た者が活動した形跡はなかったのですね」
春の問いに、朔は頷く。
「少なくとも、私が調べた範囲ではね」
「魔物の襲撃は?」
「バリアの破損した外縁から入ってきた。あの街じゃ、前から起きてることみたいだった」
「誰かが意図的に魔物を誘導した可能性はあるかしら」
「否定はできない。でも、そう考えられる証拠もないよ」
無理に繋げてしまえば、判断を誤る。
ルドルメラフで魔物が出たというだけなら、紅い宝石と呼ばれる者たちが関与していなくても説明できる。
「それで、こちらは?」
遊祈が、朔の手元にある布包みへ目を向けた。
朔はそれを机の中央へ置き、慎重に布を開いた。
中から現れたのは、青とも緑ともつかない一枚の羽根だった。
灯りを受けるたび、細かな光沢が表面を滑っていく。
「猫からもらった」
「猫?」
夜が眉を寄せた。
「たぶん」
「たぶんとは何なの?」
「猫みたいな耳はあった。でも、ずっと同じ姿じゃなかったんだよね」
朔は廃工場での出来事を話した。
何もない空間へ、先に笑った口だけが現れたこと。
声が男にも女にも、子どもにも老人にも変わったこと。
姿も声も定まらず、自分が何者なのかさえ忘れたと口にしていたこと。
「名前は名乗らなかったの?」
夜が尋ねる。
「聞いたけど、答えなかった。自分が何なのか忘れたって」
「それを信じたのかしら」
「全然」
朔が即答すると、夜はほんの少しだけ安心したように息を吐いた。
信用できる相手ではない。
けれど、あの猫は知りすぎていた。
「そいつは、メリーのことを知ってた」
春の表情が引き締まる。
「トルルカーンにいた方ですね」
「うん。それだけじゃない。ラムカラムで薬が会った軍服の子どもと、アイスジャベリンにいたHzたちのことも知ってた」
遊祈が静かに羽根を見つめる。
「三つの都市で起きたことを、全部?」
「見てたみたいな言い方だった」
蟻ノ巣の中で共有されたはずの情報を、外の者が知っていた。
偶然耳にしたとは考えにくい。
「その者たちが同じ集団だと言ったの?」
夜の問いに、朔は首を横へ振った。
「はっきり仲間だとは言わなかった。家族かもしれないし、互いに利用してるだけかもしれないって、わざと曖昧にしてた」
「ずいぶんと回りくどい相手ね」
「でも、名前は教えた」
朔は廃工場で聞いた言葉を思い返す。
猫は笑っていた。
こちらが欲しがっているのが、答えではなく、呼ぶための名前だと分かっているように。
「紅い宝石」
その名が、大机の上へ落ちる。
皆がすぐには口を開かなかった。
夜がゆっくりと繰り返す。
「紅い宝石……」
「本人たちはそう呼んでるみたいな言い方だった。でも、猫が本当のことを言ってる保証はないよ」
No.Aが記録装置へ触れる。
「朔様。名称と併せて、特定の紋章、装飾、合言葉などは提示されましたか」
「何も。名前だけ」
「情報不足。現時点で、複数の対象が同一組織に所属していると断定することは困難です」
「そうだね」
あの猫が無関係な者たちをわざと並べ、朔たちを混乱させようとした可能性も残っている。
名前を知ったからといって、すべてが繋がったわけではない。
「けれど、呼び名がないままでは不便だわ」
夜は地図の上へ視線を落とした。
「猫の言葉が事実だと確認できるまで、“紅い宝石”は仮の名称として扱いましょう」
「賛成」
朔が頷くと、No.Aが記録を追加する。
「仮称『紅い宝石』。登録しました」
その時、夜の指が地図の北側で止まった。
アイスジャベリン。
Hzと髪の赤い女が、巨大な氷山の内部を探していた街だ。
「紅い宝石……」
夜がもう一度、その名を口にする。
先ほどとは違い、何かを確かめるような響きがあった。
「どうかした?」
「Hzたちが探していたのは、賢者の石だったわね」
「うん」
遊祈が静かに頷いた。
「髪の赤い女は、氷の奥に赤い光があったと言っていた」
「赤い石と、紅い宝石」
夜の指先が、アイスジャベリンを示す印をなぞる。
「少し、似すぎていると思わない?」
春が羽根から顔を上げた。
「賢者の石と、その方たちの名前に関係があるということでしょうか」
「まだ、紅い宝石という名そのものが事実かも分からないわ。けれど、猫の話が正しいのなら、偶然として片づけるには気になる一致ね」
「賢者の石を探している集団だから、紅い宝石……?」
朔は口にしながら、少しだけ首を傾げた。
分かりやすい名前ではある。
目的をそのまま名乗っている可能性もあった。
「石を手に入れるために集まった連中ってことかな」
「可能性はあるね」
遊祈が答える。
「ただ、Hzが組織の目的で石を探しているのか、個人的に欲しがっているだけなのかは分からない」
アイスジャベリンでの報告を思い返す。
Hzが繰り返していたのは、石への執着と、歪んだ治療の言葉ばかりだった。
仲間のために動いているようには思えない。
「Hzの場合、自分のために探してそうだけど」
「それでも、大喰いちゃんが手を貸しているのなら、完全に個人だけの問題とも言い切れないわ」
夜は地図から顔を上げた。
「二つの可能性を残しましょう。賢者の石が“紅い宝石”という名称や目的に関係している可能性。そして、言葉が似ているだけで、まったく別の意味を持つ可能性」
No.Aが淡々と記録へ加える。
「仮説として登録します」
「今はそれ以上、決めつけない方がよさそうだね」
朔は地図のアイスジャベリンを見つめた。
紅い宝石。
氷山の奥にあるという、赤く光る賢者の石。
本当に、ただ言葉が似ているだけなのだろうか。
「それで、その羽根は何なの?」
夜の言葉で、全員の視線が再び机の中央へ集まった。
「猫が最後に置いていった」
「何か言葉を残したのかしら」
「真実を求めるなら、鳥を探せって」
博士が棒付き飴を口から外した。
「その鳥の羽根ってことかぁ?」
「たぶん。でも、あいつが鳥から抜いたところを見たわけじゃない」
「どこまでも信用ならないわね」
夜が呆れたように言う。
博士が羽根へ手を伸ばそうとすると、No.Aが透明な容器をその前へ差し出した。
「博士様、素手で触れないでください」
「まだ触ってないだろぉ」
「触れる直前でした」
「細かいなぁ」
「安全管理です」
No.Aは羽根を布ごと容器へ収め、蓋を閉じた。
容器の内側に淡い光が灯り、羽根の表面を細い線が数度往復する。
しばらくすると、光は消えた。
「簡易確認、終了しました」
「何か分かった?」
朔が尋ねる。
「現段階では、特定不能です」
「何の鳥かも?」
「詳細解析が必要です。羽毛そのものに複数の反応が重なっており、簡易的な照合では正確な情報を取得できません」
夜が容器の中を覗き込む。
「どれほど時間がかかるのかしら」
「不明です」
「便利なNo.Aでも、分からないことがあるんだね」
朔が言うと、No.Aが僅かに顔を向けた。
ゴーグルに覆われた表情は分からない。
「森羅万象を即座に解明できるとは申し上げていません」
「ちょっと怒った?」
「事実訂正です」
春が口元へ手を当て、小さく笑った。
博士は容器を横から眺めながら、棒付き飴を口の中で転がす。
「ま、猫がわざわざ残していったんだぁ。普通の羽根じゃない可能性は高いねぇ」
「博士様と継続して解析します」
「任せる」
No.Aが容器を机の端へ移動させる。
真実を求めるなら、鳥を探せ。
手掛かりを持ち帰ったはずなのに、羽根の持ち主どころか、どこから調べればいいのかさえ分からない。
「……あの猫、本当に不親切だな」
「親切な相手が、あんな話し方をするとは思えないわ」
夜の返答はもっともだった。
「ほかには?」
「もう一つある」
朔はルドルメラフの通りで感じた違和感を思い出した。
あの少女について話すべきか、少し迷っていた。
会話をしたわけではない。
敵意を向けられたわけでもない。
ただ、すれ違っただけだ。
それでも、黙っていれば、また夜に怒られる。
「街で、女の子とすれ違った」
「どんな子だったの?」
春が尋ねる。
「まだ幼さの残る子だった。私と同じくらいに見えたと思う」
顔も姿も見たはずなのに、細かな特徴を説明しようとすると、記憶が掴みにくい。
何も覚えていないわけではない。
ただ、その少女の輪郭だけが、思い出すたびに僅かに揺らぐ。
「肩がすれ違った瞬間、変な感じがしたんだよね。周りの音が遠くなって、時間が遅くなったみたいな」
「何らかの能力を使われたのかしら」
「分からない。違和感があって振り返ったら、もういなかった」
夜が眉を寄せる。
「近くの路地へ入ったのではなくて?」
「真っすぐな道だった。隠れられる場所もなかったよ」
「転移の可能性は?」
遊祈が尋ねる。
「それも分からない。ただ、その子がいたところに、エメラルドみたいな光が残ってた」
博士の口元で、棒付き飴の動きが止まった。
「持って帰れなかったのかぁ?」
「触れる前に消えた。ダストとも、パンタシアの残滓とも違ったと思う」
「その少女が消れた直後に、魔物が現れたのね?」
夜が確認する。
「うん。でも、関係があるとは限らないよ」
時間だけを見れば、少女が魔物を呼んだようにも思える。
だが、魔物は以前から壊れているバリアの外側から侵入してきた。
「あの子が何かした証拠はない。たまたま同じ時に起きただけかもしれない」
「今は別件として扱うべきでしょうね」
夜はすぐに結論を出した。
「紅い宝石、賢者の石、猫の羽根、エメラルドの光を残した少女。似た要素や近い時期に起きたことだけを理由に、すべてを一つへ繋げるのは危険だわ」
「そうだな…」
分からないものは、分からないまま置いておく。
朔も、それでいいと思った。
焦って答えを作れば、本当に見るべきものを見落とす。
「それから、魔物を倒したところを住民に見られた」
「それは当然でしょう。街の中で戦ったのだから」
「私がパンタシア使いだって気づかれた」
夜が僅かに目を細めた。
「ダストが出なかったことを見られたのね」
「うん。みんな急に頭を下げ始めるし、子どもには神様かって聞かれた」
「それは……目立ちましたね」
春が困ったように笑う。
魔法を使えば、ダストが生じる。
それがこの世界の常識だった。
そのダストを生み出すことなく力を振るう者は、パンタシア使いと呼ばれ、神聖な存在として扱われている。
朔にとっては、目の前の魔物を倒しただけだ。
けれど、住民たちにとっては違う。
自分へ向けられた感謝と畏れの混じった視線を思い出し、朔は赤いフードの縁を指で弄った。
「やりづらかった」
「今頃、ルドルメラフでは赤いフードのパンタシア使いについて噂が広まっているでしょうね」
夜の言葉に、朔は露骨に嫌そうな顔をした。
「次に行った時、また頭を下げられるかな」
「それだけで済めばよいけれど」
「どういうこと?」
「助けを求めて人が集まるかもしれない。逆に、畏れられて自由に聞き込みができなくなる可能性もあるわ」
パンタシア使いであることが、必ずしも調査に有利に働くとは限らない。
住民の間で噂が広がれば、朔が街へ入っただけで注目される。
隠れて動くことは難しくなるだろう。
「次にルドルメラフを調べる時は、別の者を向かわせることも考えましょう」
「分かった」
夜が少し意外そうに朔を見る。
「今日は妙に聞き分けがよいのね」
「さっき怒られたばっかりだから」
「明日には忘れていないでしょうね」
「努力する」
「約束なさい」
「……約束する」
ようやく、夜の表情から険しさが抜けた。
No.Aが記録装置へ触れる。
机の上へ淡い光が投影され、今回の情報が順番に並んでいく。
「情報を整理します」
ゴーグルの奥から、落ち着いた声が響いた。
「メリー、ラムカラムで確認された少年、Hzおよび同行者。以上の対象について、同一組織である可能性を継続調査。チェシャ猫と推定される人物が提示した『紅い宝石』は、確認が取れるまで仮称として使用します」
朔は何も言わず、その文字を見つめた。
「賢者の石との関連性は仮説として保存。羽根は博士様と解析を継続します。エメラルド色の光を残した少女については、独立した未確認対象として記録します」
「それでいい」
夜が頷く。
分かったことは、決して多くない。
ルドルメラフへ行く前より、むしろ謎は増えていた。
それでも、名前を一つ手に入れた。
朔は投影された文字を、もう一度口にする。
「紅い宝石……」
猫が本当のことを話していたのか。
メリーたちは、本当に同じ場所へ繋がっているのか。
その名は、賢者の石を求める者たちを指しているのか。
今はまだ、何一つ確かめられない。
机の端では、透明な容器に収められた羽根が、青とも緑ともつかない光を返していた。
その色を眺めていると、朔の脳裏へルドルメラフですれ違った少女が浮かぶ。
エメラルドの光を残し、振り返った時には消えていた少女。
同じものではない。
関係がある証拠もない。
けれど、どちらも答えを残すことなく、朔の前から消えている。
「本当に、分からないことばっかりだな」
朔の呟きに、返事をする者はいなかった。
記録装置の上では、仮の名として登録された「紅い宝石」の文字だけが、淡い赤色に明滅していた。
閲覧ありがとうございます。
お盆に連載するぞ〜と意気込んでいたのですが
予約投稿が上手く反映されてなくて少し期間が空いてしまいましたので、連続で投稿させて頂きます。




