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赤ずきんはエメラルドの夢を見る  作者: デウス・エクス・マキナ
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第13話 治す石

光の向こうに、蟻ノ巣の通路が現れた。


「ricoちゃん、もう少しだけ我慢してください」


春はricoの身体を抱え、開かれた帰還路へ足を踏み入れた。

片腕を背中と膝裏へ回し、もう片方の手を赤く染まった脇腹へ添えている。

傷口を押さえつけているわけではない。

春の指先から漏れる淡い光が、ricoの身体を薄く包み込んでいた。

脇腹に広がっていた赤い染みは、ある箇所を境に不自然なほど止まっている。

傷を治しているのではなかった。

開いていく傷を、閉じる方向へ。

広がっていく出血を、留まる方向へ。

悪化しようとする働きだけを反転させ、今の状態へ辛うじて押し留めている。

少しでも集中を切らせば、止めていたものが再び動き始める。

春の額には、この寒さの中ではあり得ないほどの汗が滲んでいた。

普段なら、小柄なricoを抱き上げること自体は難しくない。

けれど今は、腕にかかる重さよりも、能力を維持し続ける方がずっと苦しかった。

足を運ぶたびに光が揺らぐ。

そのたび、春は指先へ意識を集中させた。


「春」


腕の中から、細い声がした。


「はい。ここにいますよ」


「能力……消耗甚大」


「今は、私の心配をしている場合ではありません」


「しかし――」


「お話は、帰ってからです」


春は穏やかな口調のまま、ricoの言葉を遮った。


「今は私に任せてください」


ricoは春を見上げたあと、僅かに目を伏せた。


「……承知」


遊祈が二人の後ろから続く。

三人が境目を越えると、アイスジャベリンの冷たい風が途切れた。

代わりに、湿り気を帯びた蟻ノ巣の空気が身体を包む。

ほんの少し前まで慣れ親しんでいたはずの空気が、今はひどく温かく感じられた。


「お帰りなさいませ」


帰還路の前には、すでにNo.Aが立っていた。

その傍らにはストロベリー博士もいる。

博士はいつもの棒付き飴を口から外すと、春の腕に抱かれたricoへ目を向けた。

気怠そうだった表情が、一瞬で消える。


「そのまま反転を維持しろ。治療台まで解くなよぉ」


「はい」


「No.A、治療室までの道を空けろ」


「承知しました。春さん、現在の速度を維持してください。こちらで経路を確保します」


春は頷き、ricoを抱いたまま通路を進んだ。

No.Aが先行し、通路に残されていた道具や荷物を素早く脇へ退けていく。

遊祈は春の隣につき、彼女が足を滑らせないよう足元を確かめていた。

誰もricoへ不用意に触れようとはしない。

今この瞬間、彼女の傷を押し留めているのは春だった。

ricoの帽子が、歩く振動に合わせて僅かに揺れる。


「ricoちゃん、聞こえますか?」


呼びかけると、ricoの唇が微かに動いた。


「帰還……完了」


「まだです。治療が終わるまで、任務は終わっていませんよ」


「訂正……治療待機」


こんな時でも言い直すricoに、春は笑うことができなかった。

自分を守るために、この小さな身体が氷壁へ叩きつけられた。

あの瞬間、ricoが飛び込んでいなければ。

今、ここへ運ばれていたのは自分だった。

あるいは、運び帰ることすらできなかったかもしれない。

その想像に、ricoを抱く腕へ力が入りかける。


「春様」


前を歩いていたNo.Aが振り返った。

ゴーグルに覆われた顔から、その表情を読み取ることはできない。

それでも、声は普段より僅かに硬かった。


「ricoを強く締めつけないでください。脇腹の損傷が広がる可能性があります」


「あ……ごめんなさい」


春は慌てて腕の力を緩めた。


「謝罪は不要です。そのまま慎重にお運びください」


「はい」


その後、No.Aは一度も振り返らなかった。

けれど歩く速度は、春が遅れないぎりぎりまで落とされていた。


ーーーーーー


治療室の扉が閉まる。

春と遊祈は、その前に並んで座っていた。

遊祈の槍はすでに消えている。

それでも両手には強く握り締めていた感触が残っているのか、時折、指を開いては閉じていた。

春は膝の上で両手を組んだまま、俯いている。

能力を解いた指先は小さく震えていた。

二人の間に会話はなかった。

何を言っても、扉の向こうの治療が早く終わるわけではない。

通路の奥から、足音が近づいてきた。


「春、遊祈」


顔を上げると、朔がこちらへ歩いてくるところだった。

その後ろには夜もいる。

朔は二人の姿を確認すると、すぐに治療室の扉へ目を向けた。


「ricoは?」


「博士が診ています」


遊祈が答えた。


「意識はあります。でも、腕と脇腹を……」


「そう」


朔の返事は短かった。二人を責める言葉はない。

だからこそ、春の胸が苦しくなる。


「申し訳ありません」


春は膝の上で拳を握った。


「私が避けられなかったから、ricoちゃんが――」


「それは、あと」


朔が遮った。

強い口調ではなかった。


「まずはricoが無事かどうか。それを確認してから話そう」


「……はい」


朔は春の前にしゃがみ込んだ。


「アンタは怪我してない?」


「私は大丈夫です」


「遊祈は?」


「僕も。少し腕が痺れてるくらい」


「ならよかった」


朔はそれだけ言うと、二人の隣へ腰を下ろした。

夜は壁際に立ち、静かに治療室の扉を見つめている。

扉の向こうから、金属器具の触れ合う音が聞こえた。

そのたびに、春の肩が小さく揺れた。

どのくらい時間が経ったのか。

長かったようにも思えたし、ほんの数分だったようにも思えた。

やがて治療室の扉が開いた。

ストロベリー博士が、疲れたように首を回しながら出てくる。


「博士」


朔が立ち上がった。


「ricoは?」


「命に別状はない」


春の肺から、詰まっていた息が一気に抜けた。

膝から力が抜けそうになる。

遊祈も、目に見えて肩の力を緩めた。

博士は棒付き飴を口へ戻しながら続ける。


「腕の骨と、脇腹を何か所かやられてる。内側にも傷はあるが、致命的なものじゃあない。しばらく安静にしてりゃ、元どおり動けるようになるだろぉ」


「よかった……」


春が胸元を押さえる。

博士は、そんな春へ目を向けた。


「内側の傷がこの程度で済んだのは、お前が反転で悪化を押さえてたからだぁ」


「私は、治すことまではできなくて……」


「治療と応急処置は違う」


博士は棒付き飴を指で摘まみ、春へ向けた。


「応急処置ってのは、治せる場所まで生かして運ぶためにやるもんだ。ここへ着くまで持たせたなら、十分仕事してるよぉ」


春は自分の両手へ目を落とした。

光はもう消えている。

それでも、ricoの傷を押し留めていた感覚だけが、まだ指先に残っていた。


「……助けられたんでしょうか」


「そこまで繋いだのはお前だ。あとはワタシの仕事だぁ」


博士はそう言って、治療室の扉を押し開いた。


「少しなら会っていい。ただし、騒がせるなよぉ。あいつは放っておくと、すぐ起き上がろうとする」


治療台の上では、ricoが横になっていた。

傷ついた腕は固定され、脇腹には厚く布が巻かれている。

帽子は治療台の脇に置かれていた。

深く被った帽子のない姿は、普段よりもずっと幼く見えた。

春は治療台の傍へ歩み寄る。


「ricoちゃん」


「春」


ricoが目だけを動かした。


「具合はどうですか?」


「疼痛あり。生命活動、正常」


「そうですか……」


「問題皆無」


「皆無ではありません」


春の声が、思っていたより強くなった。

ricoが僅かに瞬きをする。

春は俯き、治療台の端へ手を置いた。


「私を庇ったから、こんな怪我をしたんですよ」


「然り」


あまりにもあっさり肯定され、春は顔を上げた。

ricoはいつもの無表情で、春を見つめている。


「危険切迫。防御必須」


「だからって、自分が代わりに怪我をしていいわけではありません」


「春、防御不能」


「それは……そうですけど」


春には、あの速さで迫るHzを避けられなかった。

能力を使う暇すらなかった。

ricoの判断が間違っていたとは言えない。

けれど、正しかったからといって、傷ついていいとは思えなかった。

言葉を探している春へ、ricoが静かに告げる。


「適材適所」


「そんな言葉で片づけないでください」


「春、生存。任務達成」


「ricoちゃんも無事でいてくれないと、達成とは言いません」


春はricoの動く方の手を、そっと握った。


「守ってくれて、ありがとうございます。でも次は、一緒に避ける方法を考えましょう」


ricoはしばらく春を見つめていた。

やがて、小さく指を動かし、春の手を握り返した。


「善処」


「約束してください」


「……約束」


それを聞いて、春はようやく僅かに笑った。

治療台の反対側では、No.Aが無言でricoを見下ろしている。

ricoがそちらへ顔を向けた。


「No.A」


「何でしょうか」


「任務報告、可能」


「不許可です」


間髪を入れずに返ってきた。

ricoが瞬きをする。


「報告は、遊祈様と春様から伺います。あなたは休息してください」


「しかし――」


「不許可です」


同じ声量。

同じ丁寧な口調。

それでも、二度目には反論を許さない響きがあった。

ricoは数秒沈黙したあと、目を閉じた。


「承知」



ーーーーー


食堂の大机に、再び地図が広げられていた。

今度は食事の匂いではなく、誰かが用意した温かい茶の香りが漂っている。

朔、夜、春、遊祈。

そしてNo.Aとストロベリー博士が、机を囲んでいた。

薬は人数分の飲み物を置くと、何も尋ねずに食堂を出ていった。

春は両手でカップを包んだ。

身体は温まっているはずなのに、Hzの声を思い出すたび、指先へ冷たさが戻ってくる。


「最初から聞かせてくれ」


朔が言った。

遊祈は頷き、氷山で起きたことを順番に話し始めた。

何かが齧ったように抉られた氷壁。

防寒具も着けず、雪の中に座っていた人物。

失われていない体温。

折れた足を、肉を増やすことで瞬く間に元へ戻したこと。

そして、氷を食べていた少女が、その人物を呼んだ名前。


「Hz」


朔が繰り返した。


「それが、あいつの名前?」


「たぶん。一緒に居た子がそう呼んだら、すぐに反応したから」


「聞き覚えは?」


朔がNo.Aへ尋ねる。


「現在、照合を行っています」


No.Aは机の上へ小さな記録装置を置いた。

淡い光の文字が、その表面を流れている。


「現時点では、アルバカナンの一般記録に一致する人物は見つかっていません。ただし、呼称ではなく略称である可能性があります」


「記録から消されている可能性もあるわね」


夜が静かに口を挟んだ。


「ええ。否定できません」


「もう一人の女の子は?」


朔が遊祈へ視線を戻す。


「名前は分からない。氷を食べてた」


「氷を?」


「うん。たぶん、氷壁の傷もあの子がつけたんだと思う」


遊祈は一度言葉を止めた。


「あの子は、氷の奥に赤い光を見つけたって言ってた」


それから、こめかみへ指を添える。


「それだけじゃない。Hzの心の中で、聞こえた言葉がある」


「何て?」


朔に尋ねられ、遊祈は答えた。


「賢者の石」


その瞬間、ストロベリー博士の口元で棒付き飴が止まった。


「……賢者の石、かぁ」


「知ってるの?」


「アイスジャベリンには、昔から妙な伝承がある」


「伝承?」


「死にかけた人間を立ち上がらせ、欠けた肉も骨も蘇らせる赤い石。どれだけ使っても力を失わず、触れた生命を際限なく満たす石」


博士は棒付き飴を口から外した。


「それが、賢者の石と呼ばれてる」


食堂の空気が僅かに変わった。

春は、Hzの言葉を思い出す。

――石があれば。

――今度は最後まで。


「本当に存在するんですか?」


「知らん」


博士はあっさり答えた。


「少なくとも、ワタシは実物を見たことがない。古い文献に何度か出てくるだけだ。アイスジャベリンの氷山に封じられたとも、氷山そのものを生み出したとも書かれてる」


「人を治せる石なら、悪いものではないのではないかしら」


夜の問いに、博士は首を横へ振った。


「“治す”って表現が間違ってるんだよぉ」


博士は机へ指先を置く。


「賢者の石は、身体を元の形へ戻すわけじゃない。そこにある生命を、ただ増やす」


「増やす……」


春の声が震えた。


「傷口の周りに正常な細胞しかなけりゃ、傷が塞がる。だが、異常な細胞があれば、そいつも同じだけ増える。異物が身体と結びついていれば、それすら生命の一部として増幅するかもしれん」


遊祈が表情を曇らせた。


「それって……」


「あのHzとかいう奴の身体を見たんだろぉ?」


博士の声から、普段の気怠さが消えた。


「そいつは、細胞を増やして傷を埋めてる。賢者の石が本物で、あいつが手に入れたら――」


言葉が途切れる。

誰も続きを急かさなかった。

博士は机の上の地図へ目を落とした。


「自分でも止められないほど、増えるかもしれない」


春の脳裏に、傷口から肉を溢れさせるHzの姿が蘇る。

あれだけでも、人間とは思えなかった。

それが、際限なく続けば。


「遊祈」


朔が呼ぶ。


「Hzの心を読んだ時、ほかに何が聞こえた?」


遊祈はすぐには答えなかった。

カップの中で揺れる水面を見つめ、記憶を辿る。


「全部を同じにするって、何度も考えてた」


「全部?」


「白いところが残っているから痛い。黒が足りない。今度こそ、最後までやるって」


春がカップを包む手に力を込めた。

遊祈は続ける。


「でも、誰のことを考えていたのかは分からなかった。昔の誰かかもしれないし、僕たちを見てそう思ったのかもしれない。声が多すぎて、ちゃんとした形では読めなかった」


「それで十分」


朔は地図の上にあるアイスジャベリンの印を見つめた。

Hzたちが探しているものが、本当に賢者の石なのかは分からない。

赤く光るだけの別の鉱石かもしれない。

伝承そのものが間違っている可能性もある。

だが、石が本物なら、Hzの手に渡すわけにはいかなかった。


「アイスジャベリンへは、今すぐ戻らない」


春が顔を上げる。


「よろしいのですか?」


「よくはない。でも、何も分からないまま追いかけても、また同じことになる」


朔は博士とNo.Aを見る。


「賢者の石については、二人で記録を調べて。石が本当に存在するのか、分かることだけでも集めてほしい」


「承知しました」


「ま、調べてみるよぉ。古い伝承がどこまで当てになるかは分からんがなぁ」


「現地へ戻る時は、相手の能力と氷山の地形を整理してから編成を組む」


夜が静かに頷いた。


「その方が賢明ね。向こうは春たちの存在を知っているもの。今度は待ち構えている可能性もあるわ」


「うん。それに、アイスジャベリンだけを見てるわけにもいかない」


朔は地図全体へ視線を移した。

別々の都市で、見慣れない者たちが動いている。

兵器を奪う者。街で騒ぎを起こす者。

氷山の奥で、賢者の石を探す者。

目的はばらばらに見える。

だからこそ、一つの事件だけを追い続ければ、別の場所で動いている何かを見落とすかもしれない。

朔の指が、地図の中央に近い都市へ置かれた。

第五都市、ルドルメラフ。


「ルドルメラフの外縁部は、まだきちんと確認できてない」


「バリアの修復が終わっていない都市ね」


夜が都市の印を見つめる。


「うん。今も魔物が入り込むし、襲撃が起きるたびに住民の不安から新しいダストが生まれてる」


魔物が人を脅かす。

人々の恐怖や不安がダストを生み、そのダストがまた魔物になる。


戦争が終わったあとも、ルドルメラフではその悪循環が続いていた。


「外から来た誰かが、何かを仕掛けようとしているなら、あそこほど入り込みやすい場所はない」


夜が朔へ視線を戻した。


「ルドルメラフでも、似たような不審者が動いている可能性を考えているの?」


「いると決めつけてるわけじゃない」


朔は首を横へ振った。


「何も起きていないなら、それを確認して終わりでいい。でも、まだ調べてもいないのに無関係だとは言えない」


バリアに穴が開いたままのルドルメラフは、人も魔物も外から入り込みやすい。

何かを隠すにも、混乱を広げるにも都合がよすぎる場所だった。


「明日、私が外縁部を見てくる」


朔が告げると、夜がすぐに顔を上げた。


「一人で?」


「廃工場の辺りなら、魔物の処理で何度も行ってる。地形もある程度分かってるし、大人数で動く方が目立つ」


「春たちには、危険なら追わずに戻れと言ったばかりでしょう」


「敵を追うためじゃない。街の様子を見るため」


「敵を見つけた場合は?」


「追わない。深追いもしない。すぐに戻る」


夜はしばらく黙って、朔を見つめていた。


「ルドルメラフへ着いた時と、調査を終えた時に連絡を入れて」


「分かった」


「終了の連絡がなければ、こちらから迎えを出すわ」


「それまでには戻るって」


「約束よ」


朔は僅かに肩を竦めた。


「約束する」


No.Aが机の上の記録装置を手に取った。


「アイスジャベリン周辺への接続は、一時的に停止しますか?」


「うん。それと、Hzと氷を食ってた奴の情報をほかの奴らにも伝えて。見つけても接触しないように」


「承知しました。直ちに通達します」


No.Aが食堂を出ていく。

春は地図の上に並ぶ二つの都市を見つめた。

氷の奥で、赤石を探すHz。

戦争の傷を残し、今も魔物に脅かされているルドルメラフ。

どちらも、放っておくことはできない。

それでも今は、傷ついたricoを残して動くこともできなかった。


春は自分の両手を見下ろした。

そこにはもう光も血も残っていない。

けれど、ricoの傷を押し留めていた感覚だけが、まだ指先に残っている。


明日、朔は一人でルドルメラフへ向かう。

また誰かが傷ついて帰ってくることのないように。

春は地図を見つめたまま、静かに祈った。


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